フルマティオ


 酒場のいちばん端の席で、大皿に載って一口ほどの大きさに切り分けられた炙り肉を突き匙で刺して口の中に放り込む。
 これは、食べていると顎が疲れてしまうほどに歯ごたえのある安い牛肉だが、噛めば噛むほど味に深みが出て中々どうして悪くない。
 イリスは皿にたっぷり盛られた炙り肉をひょいひょいと平らげると、今度は付け合わせのフライドポテトを口に放った。口に入れてみるとそれは存外熱く、イリスは舌の上で芋を踊らせながら何とか咀嚼する。
 そうしてみると、柔らかな芋の甘味と焦げ付いた底の苦味が一緒にやってきて、なるほど物凄く美味しいというわけにはいかないが、いいやこれこそがフライドポテトの醍醐味であるといった調子である。イリスは唇に滲んだ油を親指で拭った。
 イリスは片手を上げて酒場の店主におかわりを頼むと、料理が運ばれてきてから放っておかれていたために、少しばかりぬるくなってしまった水を一気にあおった。
 そのようにして彼女は一息吐くと、そういえば先ほどから何やら足元がもぞもぞするなと感じて机の下を覗き込む。
 そうしてイリスの目に飛び込んできたのは、自身の足元で嬉しげに尻尾を振っている蜂蜜色の長毛をもつ小型犬だった。
 その姿に少し面食らったイリスは、机の下を覗き込む体勢で固まったまま、何だか嬉しそうな様子の小犬に声をかける。
「……何処から来たの?」
 そう問うてみて答えが返ってくるはずもなく、小さな犬ころは黒く輝く瞳でイリスのことを見つめるばかり。
 イリスは少しだけ困ったように頬を掻くと、ちらりと卓上を見やって小犬に告げた。
「ええと……ごはんは、食べちゃった。もうすぐおかわりがくると思うけれど……」
 小犬は尻尾をぱたぱたとやっている。
 イリスが机の下を覗き込んでいる間に木卓の上にごとりと大皿が置かれ、小酒杯には氷のたっぷり詰められた水差しから、きんと冷えた水が注がれていた。
 一枚着となっている膝下ほどの長さのスカートに白い前掛けをした女給は、机下を覗き込むイリスに怪訝な顔をしていたが、しかし店主に大声で呼ばれるとスカートの裾を翻し慌てて去っていった。
 それとほとんど同時に、イリスが腰掛ける椅子の机を挟んで向かいに在る椅子が軽く音を立てて引かれたのに彼女は気付き、そのときになってようやく顔を上げる。顔を上げたときにイリスが勢いよく机の端に頭をぶつけたのは言わずもがなだろう。
 イリスが苦い思いをしながら向かいの椅子の方を見やると、そこには何やら見覚えのある中老の男性が座り、盛大に頭をぶつけたイリスの方を見て笑い声を上げていた。
 彼は目元の皺を深くしながら、彼女へと声をかける。
「そいつは此処の店主と犬っころを飼ったことのある犬に甘そう≠ネ人間にしか懐かないと聞くがの。何じゃおまえさん、犬を飼ったことがあるのかね」
「犬……? いいえ、ないわ。あの、あなたは……熱滞林の遺跡で会った錬金術師、よね?」
「おお、覚えておったか。その通りだ、ハンター。さてどうじゃ、おまえさんの宝ものは見付かったかね?」
「たくさんね。でも、いちばん掴みたいものにはまだ遠い」
「それはそれは。それこそ夢の醍醐味だろう」
 そう言って片方の口角ばかりを上げて笑った老錬金術師に、イリスは微かに口元をにやりとさせて頷くと、先ほど大皿に載って運ばれてきた炙り肉を、共に運ばれてきたソースで味付けをする前に一枚突き匙で取り上げて、未だ足元で尻尾を振っている小犬の鼻先にぶら下げてみた。
 犬は待ってましたと言わんばかりに目を輝かせて、目の前へ差し出された炙り肉にかぶり付く。
 イリスは小犬の瞳に無垢な輝きを見出して、犬が炙り肉にかじり付くさまをどこか楽しげに見つめていたが、自分がその無垢な小犬の甘えにまんまと乗せられていることに気付いていないのがどうにも可笑しくて、彼女を眺める錬金術師はその真珠の如くに光さざめく白の三つ編みを揺らしてまた笑っていた。
「その目は中々苦労しそうだな、ハンター」
 いつの間に頼んだのか、錬金術師が木の器に入った麦酒を女給から受け取りながら呟いた。
 その声には棘や同情の欠片は混じっておらず、イリスに見えたのは面白げに輝く彼の黒々とした瞳ばかり。その瞳はどこか足元の小犬の目にも似ていたかもしれない。
 気が付くと、炙り肉を平らげた小犬は次の獲物を探しに去ってしまっていた。
 イリスは、こちらの瞳を眺めては目を細めている錬金術師の目を見返しながら、突き匙で炙り肉を刺して自身の口へと放り込んだ。熱い。
 肉を噛み締めながら滲み出る油の甘味を感じて初めて、そういえば塩もソースも何も味付けをしていなかったことに彼女は気付く。
 炙り肉というものはそれだけで存外味が濃いものだ。イリスは思っていたよりも無味ではないそれに、悪くないと心の中で呟いては目の前の中老から一度視線を外して小酒杯の水を半分ほどあおった。
 それから先の言葉に対しての返答をする。
「私にとってはたいせつなもの。だから喜んで苦労もするわ」
「殊勝なことだな。ハンター連中はたとえ流れ者同士でも個が集にまとまって仕事をする場合も少なくはない。彼らはそういった内輪の仲間はたいせつにするが、それが美徳であり欠点でもあるな。個を貫く者や異質な者をやたら嫌う。いや、あれは嫌うというより……恐れや妬み、或いは憧れかもしれんな。ほら、奴らは浪漫を愛するだろう?」
「……何だか詳しい」
「いや何、おれは昔から旅をするのが好きでな。長く旅をしていると失うものも多いが、こうして得るものも多いのじゃよ」
 そう言って錬金術師は笑った。
 黒檀のように黒い肌には、彼がこれまで生きてきた証である皺や細かな傷痕が刻まれており、彼の真白の髪がそれをより際立たせている。
 ただ、その肌よりも黒々とした漆黒の瞳は、自身の髪の輝きや酒場の明かり、麦酒の揺らめき、イリスの赤の瞳に隠されている虹の火の粉そのどれもを受け止めてぎらぎらと輝いていた。
 それでも一瞬、老錬金術師の声には失ったものを想うその痛みが滲み、煌々とする黒の奥には割れた月長石の光が見える。
 イリスはその黒の瞳を逸らすことなく、火の粉の眠る紅の瞳で見つめた。
 強い瞳だと思った。
 彼の瞳がこうして輝くのは何かを失い、それを乗り越えたからなのだろう。
 彼がこうして常に瞳を輝かせていられるようになるまでに、彼はどれほどの星霜を費やしてきたのだろうか。
 ああきっと幾多の刺す陽光、黄昏の影、冷たい夜闇を越えてきたのだろう。彼の瞳の奥で割れて横たわっている月長石の光が、彼の強さそのものなのかもしれない。あの傷付いた輝きこそが、彼の瞳を輝かせる源なのかもしれない。
 それは植物が強く立ち上がり、美しい枝葉を両手に抱えるために、痛くても苦しくても土の底で根を張り続けるように……
「大木のようね、あなたは」
 いつものことだが、イリスがああと思ったときにはもう言葉は彼女の口から零れ出てしまっていた。
 その言葉を聞くと錬金術師は肩を揺らして笑い、立ち上がるといつの間に飲み干したのか麦酒のおかわりを頼み、それからついでと言うようにイリスの頭を荒っぽく撫でる。
 鮮やかな橙の柔らかな髪があっちこっちに乱れ、それを見た大木の錬金術師は更に笑った。
「正解だ。良い目を持っているな、ハンター。たいせつにするといい。おれはクエルクス、植物の力を借る錬金術師だよ」
 頭を離れていく大きな手のひらから微かに緑の香りを感じて、イリスは小さく微笑んだ。それからふと、かつてアインベルに会いにあの賑やかな工房都市へ訪れたときも、街にこんな香りを宿す風が吹いていたことを想い出す。
 想い出してしまうと虹の里へ向かい、それから帰るまで会う気はなかったかわいい弟に情けなくも会いたくなってしまうイリスである。
 彼女はそんな自身の甘えを振り払うかのように心の中だけでかぶりを振ると、どこか眩しそうな光をその鮮紅の瞳に宿してクエルクスに言った。
「私はイリス。イリス・アウディオ。熱の力を借りて生きてる」
「熱? イリス・アウディオ?」
「私を知っている?」
「まあそうだな……どうりで。納得した。おまえさんは変わり者のイリス=Aだろう」
「……そう呼ばれることもある」
 イリスはそう呟くと炙り肉をまた一枚口へと放り込む。
 クエルクスが、しかしいい喰いっぷりだなと半ば呆れてイリスへと声をかけると彼女は肉に視線をやったまま、まだ五分目と静かな声で言い返した。
 熱の力を借りて生きる彼女は、その細い見た目に反して食べすぎではないかと思われるほどによく食べるのだった。
 一枚食べるかと問うイリスに、クエルクスはおかわりの麦酒を一口飲んで、見ているだけで胸焼けがするといった調子に軽く手を振る。
「他にもいろいろあるぞ。女狐=A愚者=A花貌=c…」
「……そう並べられると流石に傷付くものね」
「おや。最後の花貌は褒め言葉だろう、べっぴんさん」
「皮肉よ、それくらいは分かる」
「なるほど。老いぼれに小難しい皮肉は通じないものじゃ、いやいやすまんのう」
 言いつつも声にはからかうような調子が含まれているクエルクスにイリスは肩をすくめた。
 女狐というのはイリスの鮮紅の目がまるで魔獣の傷口から流れ出る紅水晶のような色と輝きを放っているために、あれはもしかして人に化けている魔獣なのではないかという意味で付けられたあだ名である。
 愚者というのは占い師が遣うタロット・カードからきているあだ名なのだろう、愚者のカードの逆位置は夢想、愚行、極端、熱狂≠意味すると古くから云われている。イリスの仕事に対する姿勢、或いは行動から連想されたに違いない。
 花貌というのはそのまま花のように美しい顔立ちという意味をもつ言葉だが、なるほど美しい花には大抵棘や毒が付き物である。
 彼女に対して、他のトレジャーハンターたちが付けたあだ名には、大抵どれにも好い意味をもつものはなかった。
 傷付くと言いながらも、悲しきかな慣れによって内心そこまで傷付いてはいないイリスである。いいや自分の夢にひた進む彼女である、或いはほんとうに気にもしていないだけなのかもしれないが。
 彼女は大皿の炙り肉と付け合わせを再びすべて平らげると、何やら机の上に硝子製の卵のようなものを、倒れないよう台座に固定して置きはじめたクエルクスの方を見やって目だけで問うた。
「おれは自分の創ったものを人に自慢するのが好きでな。面白いものができたらどうだ面白いだろうと言わなければ気が済まない。どうだ、面白いだろう?」
 上部に突起の付いた硝子製の卵は、その身に絶えず回る鮮やかな紫の液体を宿してその存在感を放っている。強い紫の色彩は人の目を惹き付けると同時に人を近寄りがたくする色かもしれなかった。
 イリスは机に両手をついてその硝子卵へと顔を近付ける。
 彼女の赤い瞳の奥で虹の火の粉が弾け、眠る電氣石も目を覚ましてはその身に宿す色彩で彼女の紅を更に赤く見せた。イリスが動くのに呼応して彼女の首巻はさまざまな色に遊色する。
「すごく濃い葡萄酒のような紫の水面……蜜のようにも見えるし、毒のようにも見えるわ。でも葡萄じゃない……少し、花の香りがする」
「ご名答。確かにこれは蜜であり毒でもある、人にとって濃い葡萄酒がそうであるようにな。
 その液体はツツジの花から抽出したものだ。人にとっての濃い葡萄酒、蝶にとっての蜜であり毒──匂い玉。蝶を集めるための餌だ、上の突起を折るとそれなりに大きな花と化す。
 いかさまの花だが、割と綺麗に咲くものだぞ。ま、今どき虫捕りが流行っているとは言い難いが」
「へえ……面白い」
「そうだろう? 前にトレジャーハンターが遺跡から掘り出してきたものを集めたという露店でいろいろ眺めておったんじゃが、その中にどうにも見たことのない前時代の遺物らしきものが在る。で、気になったから買い取って調べてみれば、どうやらかわたれの錬金術師たちが遣っていた器材らしい。
 それは抽出器というものでな、今までの抽出器は物質を純化して抽出するのにいろいろ面倒な工程を踏まなければならなかった。……が、今度見付かったものはその工程をほとんどすべて省ける。まあ、おれが買ったものは、花の抽出専用の器材だったわけだが。
 とにかくそのいにしえの抽出器を分解し再び組み立て、それを大元に新たな抽出器を再構築した……花専用の。
 その匂い玉は抽出器の性能を確かめるために創ってみたばかりだが、面白いものができたことには違いない──と、いう自慢じゃ」
 小難しい言葉を閃かせるクエルクスに理解が追い付かない頭で、しかしイリスは興味深そうに彼の話を聞いていた。彼女の紅はちかりと輝いている。
 クエルクスは頬杖をついて微かに唸った。
「その抽出器の遺物を見付けたのは何と言うハンターだったか……露天商は確か常空≠フとか何とか言っていたような気がするが……」
「ああ、トコソラね」
「知り合いか。知っていたが世間は狭い」
「旅人にとって世界は広いけれど、その分出会う人の数も増えるわ。歩けば歩くだけ道が交わる」
「いやはや、人と人との繋がりというのは存外強いものだなあ」
 イリスが頷くとクエルクスは、次に会ったら礼を言っておいてくれと言ったのちに陽気な梟のような笑い声を上げた。
 花の成分を抽出するのにいろんな器材の前をいちいち行ったり来たりするのは正直、老いぼれの足腰にきていたから、と。
 言わずもがなトコソラというのは歌を呼び歌に呼ばれる声の人、嵐灰の髪と青空を飼う鋼玉の瞳をもつ青年、かのトレジャーハンターのあだ名に違いない。
 正直なところ彼を表すあだ名としてぴったり過ぎるほどぴったりなため、この名を耳にするたびにイリスはちょっとだけ笑ってしまいそうになる。一体誰が言い出したのだろう。やはりハンターは浪漫を愛している。
「──似合わないな」
「え?」
「変わり者、女狐、愚者、花貌……そのどれもがおまえさんには似合わない。夢がないな。ハンターに夢がないのは面白くないだろう、イリス? もっと良いあだ名を付けてもらうといい。おまえたちは浪漫を愛するのだろう?」
「……努力はする」
 かぶりを振って肩をすくめるイリスにクエルクスはまた陽気な梟のような声を上げて笑った。
 イリスは、彼の長い時を経てきたその低くやさしい声を聞くと、その響きの中にさまざまな知の気配を聴き取って自身の瞳をちかりと輝かせる。
 彼女はクエルクスに、期待にも似た小さな焦りによって弾みそうになる声で問いかけた。
「──つがいのトレジャーハンター、ラックレインを知っている?」
 その問いは、口にしたイリスにとっても予想外の問いだった。
 イリスはいつも他の人にそう訊くように、〈星の墜ちた地〉について知っているかと問うつもりだったのだ。
 しかしその唇から零れ落ちたのはその問いではなく、〈星の墜ちた地〉を目指した自身の両襯についての問いだった。
 イリスは少しだけ身体を固めると、すぐにはっとしてクエルクスの漆黒の瞳を見やる。彼もまた少し驚いたような表情でイリスのことを見ていた。しかし、それから彼はどこか納得したように呟く。
「……ああ……ラックレインの娘か、おまえさんは」
「お母さんとお父さんを知っているの……? ど──どんな人だったの、二人は?」
「少しだけだが会ったことがある。情けない話だが遺跡の中に仕掛けられていた落とし穴から引っ張り上げてもらった。会ったことがあると言ってもその程度だが。
 たくさんのがらくたの中から宝を見付けること、誰も気付かないような処から宝を見付けること、一見がらくたにしか見えないものを、正しい知識と詩のような言葉によってその価値を跳ね上げることが得意だったと聞く。
 落とし穴に落っこちたおれを二人して面白いものを見付けたというように目を輝かせていたよ、ちょうど先ほど匂い玉を見つめていたおまえさんと同じような目だ」
 イリスは押し黙り、しかし前のめりになって聞いている。クエルクスはその様子に微かに困惑しながら少しばかり椅子を引いた。
「二人は幼馴染だったらしい。夫の方が褪せた橙の少し癖っぽい髪に優しげな榛色の瞳、妻の方が焦げ茶の髪に赤みがかったつり目がちの黒の目。おまえさんにあまり容姿は似ていないが……いや、だが……似ている。二人はどうしている? まさか行方不明か、それならありそうな話だ」
「いえ……もういないわ。私が幼い頃に死んだって。私はほとんど何も憶えていないけれど──」
 イリスは俯いて瞼を押さえる。
「……憶えていない……? 待って……今の話を聞いても、私は何も想い出せない……何も……二人がほんとうにこの世に存在しないのかすらも私は想い出せない……想い出せない……? どうして……?」
「イリス、落ち着け。おまえさんが幼い頃に二人は逝ったのだろう、憶えていないのも無理はない。おれは自分の頭で物事を考える人間をこよなく愛するが、こういうとき、無理に考えた後ろくな答えが出たためしはないぞ。
 ……それより、自慢の続きをしてもいいか? まだまだ面白いものがおれの鞄には眠っているものだからな」
 イリスははっと顔を上げると、声はやさしいがどこか有無を言わさぬものがあるクエルクスのその言葉に思わず頷いた。
 しばらくの間忘れていた、灼けるような瞳の痛みが戻ってきている。
 彼女は片手を上げて自分もクエルクスと同じように麦酒を注文すると、机の上にいろいろ並べはじめた彼から少し視線を外して酒場の壁を見やった。
 今、空にはあの青い炎が燃えているのだろうか。
 燃えているのだろう、この間まで他の者には見えて、自分自身には見えていなかったあの青──聖火の星≠ニ呼ばれる星が。
 それを自覚すると同時に、トニトルスが自分に向けて発した言葉が彼が発したそれよりずっと冷たい温度を孕んで耳の中に帰ってきた。
 おっかない赤い目! おまえみたいに人なのかすらもよく分からないやつは──=c…
 違う。あれはトニトルスの本心ではない。分かっている。
 いや、ほんとうにそうか?
 ほんとうにあの言葉に本心がひとかけらも混じっていないと言い切れるか?
 言い切れる。
 言い切る。
 信じたい。
 信じる。
 だって、そうだ、家族だ!
 そうだろう、己の家族を信じることができなかったら、わたしは一体何を信じればいい?
 これが間違いだとしたら、両親の遺した名前と言葉しか持たなかったわたしは、一体何を信じればよかったのだろう?
 今まで考えもしなかった思いが、イリスの心の中を渦を巻いては声を上げはじめた。
 今まで何かに閉じ込められていた感情が青い炎、聖火を見てから熱を帯びはじめたように感じる。イリスは微かに身震いをした。背筋を上ってくるこの冷たい感触は一体何だ。
 運ばれてきた麦酒を一気にあおって、かぶりを振る。
 こんなことを思うのは酒のせいだ。すべてそうだ、こんなおかしなことを考えるのは今一気に酒をあおったせいだ。
 イリスは酒を飲んでも、熱い身体に反してどこか冷たい思考で、身体中に鳴り響くいつも通りに静かで落ち着いた自身の声を聞く。
 彼女はこの日ほど、自分の声を恐ろしく感じたことはなかった。
 ──わたしは、誰?



20170314

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