クォ・ヴァディスと海は問わず


 小さな町の中を流れる川を沿って歩いていくと、町を抜けて少しばかり歩いた場所に、緑の芝生に立つ煉瓦の教会が在る。
 元々人通りの少ない町であるため、ヴィアを連れて歩いてもさして目立つことはなく此処まで町を抜け出てくることができた。目立つことはなく、と言っても、一度町中ですれ違った老人は、ヴィアのその身に湛えられている闇夜の如くに黒々とした毛並みと、その青毛が歩くたびに陽を浴びて光さざめいているさまに驚きを隠せずにいた。
 しかし、イリスがその黒き馬を引いて軽快に歩いて去っていくのを見送ると、老人もまた振り返って自らの歩みを取り戻していたのだった。
 イリスは隣で流れる川にヴィアを導くと、ヴィアがその清水で喉を潤している間、立ち止まって古ぼけた煉瓦で造られている教会を見上げる。
「ヴィア、私はこの中に用事があるからあなたには此処で待っていてほしいのだけれど……どう、待っていてくれる?」
 そう言ってこちらを振り返るイリスを、ヴィアは川の水を飲みながら静かな瞳で一瞥すると、それからイリスの背後に建っている煉瓦の教会へと少しだけ視線をやった。
 この賢き青毛の魔獣が一体そこから何を感じ取ったのかをイリスには知る術もなかったが、ヴィアは一つ身震いをするとその滑らかな黒を輝かせ、それからイリスと教会から馬首を返す。
 イリスがその背を視線で追うと、ヴィアの向かう先には枝分かれした小川たちがひとところに一度集まって大きな水溜まり、或いは小さな湖のようになっている木陰が見えた。その大きな水溜まりは小川の水を集めたのち、今度は一つの川となって先ほど抜けてきた町へと流れていくのだ。
 ヴィアはといえばもう水溜まりのほとり、その木陰に座り込み、こちらを振り向こうともしない。
「用事が済んだら草笛を吹くわ、ヴィア」
 大声で言ったわけでもないためおそらくこの声はヴィアには届かないと思っていたイリスだったが、ヴィアの尻尾が反応するように微かに動いたのを見て彼女は少し驚き、それから楽しげに目を細めた。
 木陰の間から零れる光と、それを受け取って輝く水面と吸い込んで煌めくヴィアの青毛が涼しげで、見ているだけでまばゆい太陽の光と冷たい水の風が肌に触れていくようだ。
 イリスは薔薇輝石のような瞳をちかりと光らせる。その奥に隠された虹を宿す電氣石が紅に遊色し、彼女の瞳を更に鮮やかな赤に見せた。
「──イリス!」
 ふと、背後で驚き混じりだが明らかに喜色が前のめりになっている声が上がった。その声にイリスはちょっとだけ笑い、それから振り返って確かめる必要もないがその声の正体を確かめる。
 振り返ったイリスの赤に映り込んだのは、彼女の期待通りの柔らかな光を吸いこんだような薄い金の髪とその髪に反して鋭い光を放つ黒の瞳だった。
 トニトルス。
 アインベルより二歳ほど下の、しかしアインベルと同じようにイリスの義理の弟である少年である。
「トニ──」
 イリスが軽く手を上げて彼の元へと一歩踏み出すと、はっとして先ほどまで嬉しそうに緩ませていた目を三角にして両手を顔の前でぶんぶんやった。
「ち、近寄るなよ! 何で帰ってきたんだよ、どうせ見付からなかったんだろ、〈星の墜ちた地〉! でも……でも、おまえみたいにな、わけの分からないやつが帰ってきたって誰も喜ばないぞ! おっかない赤い目! おまえみたいに人なのかすらもよく分からないやつは──」
 イリスがトニトルスの相変わらずな物言いに薄く笑みすら浮かべて困ったように肩をすくめていると、トニトルスの頭上に鋭い手のひらの一撃が飛んできて、彼はその衝撃に驚いて目を白黒させながら唸った。
 トニトルスの背後には、四十がらみの修道女らしき女性が両手を腰に当てながら仁王立ちをしている。
「トニ……あなたって子はほんとうにいかづち≠フ名前に恥じない子ね、悪い意味で。そんなのだから好きな女の子にも振られるのよ? そういえばあの子、髪の色なんかがちょこっとイリスに似てたんじゃなかったかしら……もうちょっと落ち着いた橙だけどね。トニ……あなたって子はほんとうに寂しがりねえ……」
「うわ、うわ! 何だよ何なんだよマリーナ! ぜんぜん似てないだろ、目が悪すぎる!」
 マリーナと呼ばれた女性から喰らった、鋭い一撃の衝撃から復活したトニトルスは、下から彼女のことを見上げて猛然と異議ありの声を叫んでいたが、彼女はそれには慣れたものだと言う風に目もくれず、イリスの赤い瞳をしっかりと見つめて、それからにっこりとした。
 そんなマリーナの纏っている修道衣は普遍的な白と黒の装いで、そのため頭部も白いウィンプルと黒いベールで被われている。このために彼女の髪色を今目にすることは叶わないが、その代わり、陽光の光に照らされたマリーナの透き通った青の瞳は、水に光が反射するかの如くに煌めいて美しかった。
 マリーナはイリスの方を見ながら、ゆったりとした修道衣が邪魔なために紐で縛ってしまった袖からすらりと伸びた腕でトニトルスの襟首を引っ掴むと、教会への方へと踵を返しトニトルスを引きずりながら進んでいった。
 本来くるぶしまであるはずの修道衣の裾はそれより手前で無造作に縛られ、厳かな黒のあちこちに緑の糸がくっ付いている。
 よく見てみるとそれは草の一片であることが分かり、大方先ほどまで教会周りの雑草抜きでもしていたのだろう。彼女は途中で振り返るとイリスに手招きをした。
 それからマリーナ・アウディオは、再びその輝く青い瞳を細めて優しげに微笑んだのだった。
「おかえりなさい、イリス」


*



 教会──アウディオ孤児院は、今はもう使われていない古びた煉瓦の教会を孤児院として再建したものである。
 イリスも、またアインベルも、長い時をこの孤児院で過ごしたのだった。
 イリスは長椅子の前に書き物机が設置されている礼拝堂の前を通り過ぎ、長く続いている廊下をマリーナの後に続いて歩いていく。気が付くと、稲妻のように素早いトニトルスはいつの間にかマリーナの手の中から逃げ出していた。
 マリーナは廊下の中心に位置する両開きの扉を両手で押すと、その中へと進んでイリスを手招く。その様子に懐かしさを感じながら、イリスも扉の向こうへと足を踏み入れた。
「そういえば、アインは来ていないのね。イリスが帰ってくるときは絶対にアインが一緒だと思ってたのに」
「私が今日此処に戻ってきたのは、自分のため。これは、私の問題……アインベルのことを巻き込みたくないから。迷惑をかけてしまうわ」
「何だかよく分からないけど、それをアインに聞かせてごらんなさいな。あの子、すっごく怒るわよ」
「怒る……どうして?」
「自分で考えることね。私の問題=Aなんでしょう?」
 そう言ってからかうように笑うマリーナにイリスはぐっと言葉に詰まると、困ったように髪を指先でくるくると触った。そんなイリスにマリーナは目元の笑い皺を深くして、相変わらず分かり易いと言ってまた笑う。
 マリーナ・アウディオは、何を考えているか分からない変わり者と名高いイリス・アウディオに、分かり易いといった評価をする数少ない人間である。
「マリーナ……みんなは?」
「表で雑草抜き。私はちょっと疲れちゃったわ、こうなってくるともう年よねえ。そりゃそうよね、あのイリスがこんなに大きくなったんだもの」
 扉の先は大広間。
 手入れが行き届いて一点の曇りもない黒のピアノに、大きな木の机、その周りには椅子が幾つか置かれている。
 焦げ茶をした滑らかな木張りの床やその上に敷かれたつる草模様の絨毯の上に、色鮮やかな装丁の絵本が投げ出されているのを見るに、大方先ほどまで小さいのが此処で遊んでいたのだろう。
 この大広間は数ある教会の部屋の中でも、アウディオの家族たちが手持ち無沙汰になると各々自然と集まってくる部屋だった。
 大広間に五つ備わっている外開きの窓から光が差し込み、暖かな空気が部屋の中を流れている。
 大広間への扉を開けて顔を上げると、いつでもいちばん最初に目に飛び込んでくるのは、窓から差し込むこの光に照らされた女神の石膏像だった。おそらくはこの大広間に足を踏み入れる者、誰もがそうだろう。
 まるで、差し出された陽光を受け取るかのように、女神は両手を胸の前に広げている。その穏やかな笑みの奥には、深い慈愛の心が滲んで見えた。
 くるぶしまである長衣を纏い風を受け、裸足で地に立つその姿はどこか孤独な影を背負ってはいたが、しかし両の翼を広げ、月桂冠を戴く女神はやはり厳かに美しい。
 光を受け取るその両の指の間から、金色の光が零れ落ちているようにイリスには見えた。
 イリスが女神像に見入っている間、マリーナは像の前に膝を突いて女神に祈りを捧げていた。それは、マリーナの務めと言うよりは、最早ほとんどマリーナの癖だった。
 彼女は大広間や礼拝堂に足を踏み入れると、必ず女神に向かって祈りを捧げる。
 訊けば、彼女の母──先代がずっとこうして祈りを捧げていたから、もしかするとそれがうつってしまったのかもしれないと言って彼女は微笑んだ。
「マリーナ、いつも祈るときに何をねがっているの?」
「何も。だってねがってしまったらそれは祈りでなく、ねがいになってしまうじゃないの」
「祈りではなく、ねがいに……?」
「私たち修道士はね、祈るために祈るのよ、本来は。祈りたいから祈るの、自分が信じるもののために。人は自分の信じるものを神と呼ぶでしょう」
 そう言って湖のような瞳を細めたマリーナを見つめて、イリスは女神像の前に両膝を突いた。
 思えば教会で育ちながらも、こうして女神の前で祈りを捧げたのは初めてかもしれない。
 マリーナは、礼拝を強制しないのだ。祈りとは、祈る者のために在るからと。それに、渋々お祈りをしたら神さまに失礼でしょうと、そう言って彼女は笑っていた。
 祈りとは、祈る者のために……
 当時はよく意味が分からなかったが、今なら少しだけ、少しだけだが意味が分かるような気がする。
 両手を組み合わせて目を閉じていたイリスは薄く目を開いた。それから呟く。
「私の信じるもの……」
「イリス?」
「私は、お母さんとお父さんの遺した言葉を信じている」
「イリス……」
「私は往かなきゃならない、〈星の墜ちた地〉へ。そのために私は私の過去を知りたい。マリーナ、私は何処で生まれたの?」
 顔を上げてそう問うたイリスに、マリーナの青が揺れた。
 マリーナは困惑したようにイリスの瞳を見つめ、そしてついに逸らした。
「──虹の里〈ミノバト〉」
 そう静かな声で呟いたイリスは、その言葉に反応してマリーナの肩が一瞬震えたのを見逃さなかった。
 マリーナは、再びその青い瞳をイリスの紅へと定めると、もう見抜かれてしまったことを見抜いて、ほんとうに目が良いわねと微かに笑う。そう言う瞳は少しだけ哀しげだった。
「ずっと、隠していた?」
「……守っていたつもりだったわ。いえ、でも、そうね……隠していたわ、ずっと」
「どうして?」
「だって教えたらあなたは行くでしょう、イリス。もう知っているだろうけど、〈ミノバト〉は滅びたのよ。滅びた故郷に向かって、一体何が見付けられるっていうの? そんなもの、ただ痛いだけじゃない。自ら傷を抉る理由なんてない」
 沈黙が流れる。
 これは自分を想ってこその言葉なのだということくらいは、言われなくとも感じ取ることができた。
 マリーナが今の自分と同じくらいの年の頃から、変わらずずっと孤児院の子どもたちを守ってきたことを、イリス自身も分かっているつもりだった。
 雑草まみれの修道衣に見目悪く縛られた袖や裾、皺の多い手のひらにはあかぎれやひび割れの痕が痛々しく残され、青く輝く瞳には時折疲れが滲んで見える。
 イリスが孤児院に入る前に母親が先立ち、それからずっと彼女は一人で此処と此処で暮らす子どもたちを守ってきたのだ。そこには、もちろんイリスも含まれている。
 そうだ、分かっている。ただ、それでも……
 イリスは微笑み、マリーナの両の手のひらを取った。
「見付かるかもしれない。たとえば……私が生まれた家の名前、とか」
「……あなたが生まれた家の名前はラックレインよ、イリス」
「ラックレイン?……それも知っていたの?」
「つがいのトレジャーハンター、ラックレイン夫妻と言ったらそっちの界隈で調べればすぐに出てくるでしょう。家名も、夫婦のハンターっていうのも、彼らが終の住み処にしたのが虹の里っていうのも、珍しいことだらけだから。すごく有名ってわけではないだろうけど……あなたなら彼らが最後に住んでた場所くらい簡単に見付けるはず。
 だから……あなたがトレジャーハンターを目指しているって分かったとき、ここに隠しておこうと思ったのよ」
 そう言ってマリーナは、自分の心の臓の辺りに手をやった。
 イリスは一瞬言葉を失ったが、遠くからばたばたとたくさんの足音が聞こえてくるのを感じると、少しだけ目を伏せ、それからマリーナの方を見て目を細め、そうして口元を微かに緩めた。
 マリーナ曰く、分かり易いイリスの分かり易い笑顔である。
 イリスの手は、尚マリーナの手を握っていた。
「ねえ、マリーナ。それでも私はアウディオの人間よ、私はそう思ってる。名前しか持たない私に家をくれたのはマリーナ、あなたなの。私は、イリス・アウディオよ。此処が私の帰る場所。
 ……今まで守ってくれてありがとう、マリーナ。きっと、今度は私があなたを守る番なのね。そのために──私は此処に帰ってくる、必ず。この名に誓って」
「……往くのね、イリス」
「往くわ。私にはこの目で見たいものがある。……何が起こっても、受け止めるから」
 立ち上がって女神像に踵を返したイリスの背に、マリーナが少しばかり大きすぎるほど大きな声で呼びかけた。
「イリス!……いってらっしゃい!」
「──いってきます、かあさん」
 そう言って振り返ると、窓からはやはり光が零れ落ち、女神像は暖かな陽光を両手に優しく、孤独に、しかし厳かに美しく地に降り立っていた。
 だがイリスにはそれよりも、不恰好な修道衣を纏い、傷痕だらけの手のひらをぐっと握っては掲げ、応援の合図をしながら青い水面の瞳を細めて笑うマリーナかあさんの方が、ずっとずっと美しく見えたのだった。


*



「なあ、イリス。おまえの目はやっぱり魔獣の紅水晶みたいだけどさ、でも……魔獣じゃないよな、おまえは? おまえみたいにき──綺麗な魔獣、いるわけないよな?」
 調子外れな草笛を吹いてヴィアを呼ぶイリスの背後で、家族がみんなでイリスのことを見送っていたときには顔を出さなかったトニトルスが、いつの間に来ていたのか、彼女へ不安げに声をかけた。
 イリスは顔だけトニトルスの方を振り返り、少年の黒い瞳をしっかりその魔獣の流す紅水晶のような瞳で見つめると、マリーナがするようにからかうような調子で少しだけ笑った。
「私はイリス。イリス・アウディオ。人でも魔獣でもそれは同じ。でも……もし私が魔獣だったら──私のことを嫌いになる、トニトルス?」
「もう十分嫌いだ!……これ以上は嫌いにならない」
「よかった。それなら安心」
 駆けてきたヴィアの背へ軽やかに飛び乗って、それから再びトニトルスの方を見てイリスは笑った。
「そうだトニ、恋人ができたらちゃんと便りをちょうだいね」
「ばか! う、うるさいんだよどいつもこいつも! 姉貴面すんな! ああくそ、さっさと行っちまえ!」



20170312

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