ユリーカ、星の獣に青い焔


 街道のところどころに在る、紐柵を隔てては道の向こう側に佇んでいる水晶燈が、進む足音に共鳴してぽつぽつと明かりを灯している。
 水晶燈とはその名の通り、灯具の部分に水晶を用いている街灯の名称であり、前時代の照明技術を応用した、たそがれの魔術師と錬金術師、そして鉱石掘りに照明師に技師──挙げれば切りがないが〈ソリスオルトス〉の技術の結晶の一つである。
 水晶燈はこんにちも、もうじき夜に染まるこの大地を往く旅人たちの道を柔らかな橙に照らしていた。
 イリスもまた、足元をその水晶の光に照らされながら、夕暮れを通り過ぎたこの大地の上をアニマのヴィアと共に進んでいる。
(日が暮れた……やっぱり、さっきの町で宿を取るべきだったかも)
 今しがた陽が沈み、紫紺の薄布をその身に羽織った空には水晶燈の橙とはまた違う、白い閃きが少しずつ数を増やしては夜の世界を彩っている。
 イリスは昨晩もその前の晩もそうしたように空を見上げ、北の空に浮かぶはずの輝く青い星を目を凝らして探してみた。
 ただ、見ている場所が悪いのか、それとも単に見落としているだけなのか今日も青い星は見当たらない。
 ルーミと名乗ったあの少女が嘘を吐いたのかもしれないという考えは、自分の方は相手にどう思われているとしても、他人に対して大した警戒心を抱かないたちであるイリスには徹頭徹尾浮かんでこなかった。
 彼女は軽やかに蹄を鳴らして隣を歩くヴィアへと視線を向けると、困ったように微笑んだ。
「先を急ぎすぎたみたい。だめね……あなたがいるって思うと、何処までも進めるような気がしてくる。風を切るようよ、ほんとうに」
 手綱を引きながらイリスは歩を進める。
 ヴィアの躰に湛えられた美しき青毛は、空が大地まで下ろしてくる青紫の空気と道を照らす水晶燈の柔らかな光に包まれて、さながら深い湖の風吹く水面のように揺らめき煌めいているようにイリスには見えた。
 その煌めきを受けて、イリスの紅もちかりと輝く。
 その鮮やかな赤の瞳の奥には、首元に巻いている薄布と似たように、世界の色を受け取り変色を続ける、虹のような電氣石の姿が在ったかもしれない。
 今、真実を知るのはこちらの瞳を見つめるイリスの瞳を見つめていたアニマのヴィア、ただ一頭のみである。
「この辺りは魔獣が少ないって聞くから大事にはならないと思うけれど、最悪の場合はこの……魔獣除けの香を使うから、そのときは息を止めていてね、ヴィア」
 魔獣に息を止めていろなどと言う人間もこの世界には少ないだろうが、しかし変わり者と名高いイリスはそれを当然のことのように言ってのけると、腰帯に下げている布袋から、指と指の間に挟めるほどの何やら小さな球を取り出してはやはり指の間に挟んで、それを前方に投げる素振りだけをした。
「この獣香には花の香りを抽出したものが遣われているの。魔獣にはいろいろ嫌いな花があるのよね……この獣香に遣われているのは光を求める花──エリンジウムだけれどあなたもエリンジウムの香りは嫌いかしら。そうだヴィア、好きな花はある?」
 イリスの指先で魔獣除けの獣香が水晶燈の光に照らされて、襟巻薊の青や紫や白に煌めいて見えた。
 この球の形をした獣香は、空気中で一定以上加速すると自ら破裂するように造られている。魔獣との出会い頭にこれを相手のいる方向へと投げ付けて、足止めをしておいてからこちらは逃げ果せるといった算段だ。
 襟巻薊の球をちらつかせるイリスにヴィアは一鳴きすると、表情の読みにくい真黒の瞳で彼女の方を見た。
 イリスは慌てて──傍目には慌てているように見えないが──腰の布袋にそれを仕舞い込むと、すまなそうに少しだけ笑う。
 ヴィアの鳴き声に呼ばれた風が、イリスの鮮やかな橙の髪と細い首に巻かれた薄布を虹の色を遊色させながら揺らしていた。
 ふと、前方を見やると街道を外れて少し行った処に在る小高い丘の上に、夜の羽織りよりも更に濃い色の影が落ちているのをイリスの瞳が見付ける。
 時折揺らめいて動くその影に覚えがある彼女は、ほとんど直感でヴィアに声をかけると、その上に飛び乗っては街道の紐柵をヴィアと共に飛び越えてかの影の元へと駆けていった。
 草を踏むヴィアの蹄の音が速くなるにつれて、イリスの心は火の粉が舞うかの如くに昂ってゆく。彼女は、堪え切れずにヴィアの上から声を上げた。
「フローレ!」
 濃い影の正体であった少女は、イリスが何やら馬を駆ってこちらまでやって来ているのを先刻承知だったようで、今にも笑い出しそうな顔で彼女へと手を振っていた。
 イリスはヴィアの上から軽い身のこなしで地面の上に降り立つと、手綱を引いて緩やかな傾斜の丘をヴィアと共に上っていく。
 二匹の黒き獣を伴う少女は、今日も変わらず赤い月のようであり、そしてイリスにとってはやはり遺跡の影に他ならない。
 フローレは、笑いの滲んだ声でイリスへと問いかけた。
「お姉さん、今日は月に向かって走りたい気分だった?」
「……そうね、今日はフローレ・アド・アストルムという名の赤い月に向かって。じつは言うと、あの日も私はあなたたちに向かって走っていたの」
「……そうそう、お姉さんってこういう感じの人だったね。嫌いじゃないよ」
 フローレはやれやれと言った風にかぶりを振ると、むしろけっこう好きかな、と呟いた。
 それからフローレは視線をイリスに、そうして彼女が伴う黒い馬へと滑らせると、魔獣の流す紅水晶よりも真っ赤に見えるその瞳でヴィアの黒曜石を見つめた。
 そして微かに微笑むと、からかうような調子で彼女は再びイリスに問いかける。
「お姉さんも宝探しのイリスから魔獣のイリスになったの?」
「魔獣の……? ああ、魔獣遣いのこと? なら違うわ、この子はアニマのヴィアでベラから借りてる」
「アニマのヴィアでベラから──あ、〈クローリク〉のベラだね?」
「そう。魔獣貸しの……よくお世話になってるの」
「へえ……奇麗だね、この子」
 その言葉にイリスは頷くと、ヴィアの首を掻きながらそのつややかな青毛を見つめた。
 そういえば、フローレたちが大地に落としている濃い影の色とヴィアの体毛の色はよく似ているような気がする。夜空を見上げても、やはり彼女らの伴う影の色はそれよりずっと濃ゆいのだった。
 しかし今、この昏く深く、そして強いこの影の色に恐怖を覚えないのは何故なのか。
 黄昏た先の夜に在るこの色に、むしろ包むような安心感を覚えるのは何故なのか。
 わたしはこの色を、黄昏の獣を何処かで……?
「お姉さん?」
 フローレに声をかけられて、イリスははっと我に返る。
 自分はまたぼうっと何かを考えていてしまったのだろうか。最早直しようもない気がするがこれは自分の悪い癖だ。
 彼女は首を振ると、ヴィアの背を撫でながらフローレの赤い瞳を自分の紅で見つめて言葉を紡いだ。
「夜は星月の光がこの子の躰に反射して、まるで深い湖の水面の揺らぎのようでしょう。それか星空……と言うと、フローレのルミノクやアウロラも自分だけで星空のようね。夜の黒に浮かぶ銀の星と金の月……
 ヴィアは昼間も奇麗でね、陽の光を浴びて駆けるヴィアの躰は、まるで風の吹く草原のように光さざめくの」
「……お姉さん、相変わらず!」
 フローレが笑い声を上げると、イリスは少しだけ照れたようにはにかんで橙の毛先を指でいじった。それからイリスは傍目にも分かり易く話題を変えようと、フローレに此処で何をしていたのかを問う。
 問われた少女は、赤い目を細めて天上を指差した。
「星を見てたんだよ。次は何処に行こうかなって考えながらね」
「星……」
「どうしたのお姉さん、何か聞きたいことがある? 安くしとくよ」
「フローレ、青い星を知っている? 北の空に一等輝くという……」
「お姉さんにしてはおかしな質問だね。宝探しのお姉さんだったら簡単に見付けられると思うけど。だって……」
 フローレは北を向くと、その指先で或る一点を指し示した。
 イリスは少女の細い指の示した方向を見つめたが、しかし白い星々が散らばる夜空に青い光は何処にも見えない。
 そう思ったのもつかの間、それからフローレが発した言葉は、イリスの瞳の中に在る虹の光を揺らめかせた。
「──あそこに在るよ、いつも」
 瞬間、両の瞳が灼けるように痛んだ。
 それは、気を抜けば痛みによる涙が零れ落ちてしまいそうなほどの痛み。
 自分の中に在る何かが叩き割られたような痛み。
 守るべきものを守る群晶の一つが砕け散ったような痛み。
 虹が闇に呑まれて消えぬようにと結晶の中に閉じ込め、その電氣石の晶群の中の一つが砕け散ったような……
 イリスはフローレに自分の目の痛みを悟られないように顔を上げると、気を紛らわせるために握った手のひらに力を込めた。
 そして、視線を何とかフローレの差す夜空の方へと向けると、驚くべきことにそこに浮かぶのは煌々と青く輝く、それまではついぞ姿を現さなかった、星降る洞窟への道を照らす導きの青き星だった。
 いいやそれは最早炎、青い炎が空に浮かんでいる。
 フローレは振り返ってイリスの方を見、それから少しばかり戸惑ったように問いかけた。
「あれのことじゃなくて? 青い星って言ったらこの國ではあの星のことだと思うけど……ずっと前からあの場所で燃えてるんでしょ、あの星は。けっこう有名だよね。私が小さい頃から北の空にはあの星が見えてたし、お姉さんが小さい頃にもあの星はあそこに在ったでしょ?」
 まさか生まれてこの方見たことがなかった、いいや見えた試しがなかったとは口にできず、イリスはどこか呆然とした表情で空に浮かぶ青い炎を見つめていた。
 あの炎に灼かれているかのように瞳はまだ痛む。
 いざなうようなその燃える青に強く心が惹かれて目が逸らせない、しかしその誘いを拒むかのように肌は粟立っている。
 心の臓が激しく打ち鳴らされているのは炎の魅惑のためか、或いはその火を拒む心のためか。
 それとも──それともこれは恐怖なのか?
 誰しもが見えていたこの星が、自分にだけは見えていなかった恐怖か、何か見えてはいけない、見えていないままでよかったものを見てしまったような、それに付随する恐怖か。
 いいや、とイリスは心の中だけでかぶりを振った。
 怖くはない、怖いはずがない。
 あの星は自身の故郷への道標、或いはオレハの故郷への道標だ、いやその両方かもしれない。そうでなくてもあの青い炎は、己の夢へと向かう道標の一つのはずだ。
 自分の子に虹と名付けた母と父、その二人が追い求めた夢の在り処が恐ろしい場所のはずがない。それではあまりに悲しすぎる。
 イリスはフローレの方を振り返り、彼女の夜に浮かぶ赤色を見つめて微笑んだ。
 ただ、イリスの身体に宿る熱は天上の青い炎を受け取って今や隠しようもなく、彼女の瞬きには火の粉すら舞って見えそうだった。
「ありがとう、フローレ。──私、往かなきゃ」
「どういたしまして……って言いたいところだけどだめだよお姉さん、お代はちゃあんと頂かないとね」
「あ……そうよね。じゃあ、今まで私が行った町や遺跡の話はどう? 次に行くところの参考程度にはなるかも」
「いいね、それ。宝探しのお姉さんは一体どんな処を旅してきたの?」
「そうね、まずは──」
 イリスは頭の中で、記憶を名乗る自身の手記を開いてみた。
 その手記に幼い日の想い出は、いくら幼かったといっても一つの言葉すら書かれていない。そう、自分をイリスと呼んだ両親の遺した、〈星の墜ちた地〉という言葉以外には何も。
 自身の幼い日の記憶、その曖昧さに今ばかりは視線を外して、彼女は傍らに座った赤い月のような瞳をもつ少女に、自身も腰を下ろして言の葉を紡ぎはじめた。
 少女と共に在る、その身で夜空を体現する黒き二匹の獣も自分の言葉に耳を傾けてくれているのだろうか。
 魔の風を喰ったと云われ、息吹の名を冠す疾き風の馬はどこか呆れた様子で、始まったと言わんばかりにその黒曜石の瞳でこちらを見下ろしている。
 もちろん、この日の出来事もイリス・アウディオの記憶の一頁に記されることとなる。
 それは違わず、彼女の言葉で。



20170309
…special thanks
フローレ・アド・アストルム @siou398

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