ラプの歌が聴こえるか


 イリスは、自由に跳ねては響く楽の音たちを聴きながら、カウンターの奥の壁に貼られた紅茶色の世界地図を眺めていた。
 宮廷で奏でようものなら、すぐさま首根っこを掴まれて道端へと放り出されそうな、陽気すぎるほど陽気で、奔放すぎるほど奔放な音楽たちが酒場を飛び回り、時折焦げ茶色をした木のカウンターや、円卓に載った小酒杯の水面を揺らしている。
 商業都市〈ルナール〉に在る、そんな酒場の壁には大きな地図が貼られていた。
 主に流れのトレジャーハンター宛ての依頼、その覚え書きが、普通の家庭ではほとんど見かけない、かなり精密に描かれた世界地図のそこここに画鋲で留められているのだ。
 覚え書きは主に二枚作成され、一枚は酒場の主用──依頼人とハンターとの仲介人である──もう一枚は仕事をこなすトレジャーハンター用として、簡潔な依頼内容が書かれ、手付かずの依頼には、その二枚の覚え書きが地図の上に留められているのだった。
 向かうべき目的地の上に覚え書きは留められるため、必然的に酒場の地図は細やかなものが必要となってくる。
 ちなみに仕事の内容は、未踏の遺跡の下見から、財宝の在り処が書かれていると言う胡散臭い宝地図の解読までとピンキリであった。
 この紙切れ二枚を通して、依頼人は問題を解決してもらえる上に、流れのハンターは仕事にありつけ、更に酒場としても手数料を依頼人からそれなりに頂戴することができた。そのため酒場側としては、ほとんど濡れ手で粟のつかみ取りのようなものである。
 つまり、依頼人とトレジャーハンターとの仲介を行っている酒場は存外多い。仕事が欲しい放浪のハンターがまず向かうべきは酒場というのは暗黙の了解であった。
 ちなみに、こんにちのイリスも似たようなものである。
 世界地図、そこに描かれた世界樹〈カメーロパルダリス〉から見て北の方角ばかりを一心に見つめる彼女に、グラスを磨いていた初老──酒場の主ギルが、思い付いたように声をかけた。
 彼には今しがた、夜に虹の出る里を探していると告げたところである。
「星が降る洞窟と夜に架かる虹っつったら……そら十中八九、虹の里〈ミノバト〉のことだろうけどなぁ。北の果て、人の住める限界の地っていうのはあながち間違いでもねえ。
 気球、飛空艇、いろいろ経由しても中々どうして遠い場所だが……何でまた〈ミノバト〉なんだ? 今向こうの方面に大した仕事は来てないし、あんな辺境の方まで行く理由はないだろ」
「……ふるさと探し」
「ふるさと探し? 〈ミノバト〉がそうだっていう確証でもあんのかい。虹の里なんて、この酒場でも数年に一度名前を聞いてたくらいの辺境、そこの生まれのやつなんて見たこともないし、言うなら実在も怪しいもんだ。……地図からも消えたしな」
「私のふるさとだっていう確証はないけれど──オレハのふるさとかもしれないから、その虹の里が……。そうだとしたら、行く甲斐はある。それで、地図から消えたっていうのは?」
 それを聞くと店主はオレハ婆がねえ、と呟き、それから少ししゃがんで、世界地図が貼られた辺りの壁の下に置かれた円筒状の鉄葉缶から、丸められ紐を結ばれた一枚の羊皮紙を取り出して、それをカウンターの上に広げた。
 それは、一見したばかりでは今とどこが違うのか分からないが、しかしどうやら旧い世界地図らしい。目を凝らすと、現在の地図には存在して、けれどこちらの地図には存在しない道がそこら中に見えてきた。
 隣に座り、音楽が奏でられる方向を見ている鋼玉の瞳が、ちらとその過去の手触りを見止めていたような気がする。
「真偽のほどは定かじゃあねぇが、虹の里〈ミノバト〉は十数年前に滅びちまったって云われてる。今じゃ里には人っ子一人いないんだとさ。
 お國がそう言ってこの通り今じゃ地図からもすっかり消えたんだから、まぁ、ほんとうのことなんだろうよ。今のご時世、んな馬鹿らしい嘘吐いたって誰も得なんかしねえからな」
「滅びた……? どうして──」
「さてねえ。どいつもこいつも病んだんじゃないかね、身体か心かを──それとも両方か」
 問いながら、イリスは両目の奥に鈍い痛みを感じていた。
 どうしてと問いながら、心がほとんど冷静でいるのは何故だろう。こんなにも驚きを感じないのは何故か。
 オレハの故郷かもしれないと言っても所詮他人事だ、どうせ自分には関係ない、自分のふるさとではない……そう心のどこかでわたしは思っているのだろうか。わたしはそこまで冷たい人間なのか。
 皺を刻んだ眉間に指先を当てているイリスを尻目に、ギルは背後に在る腰ほどの棚に振り返る。
 それから、その上に置かれた、普段帳簿をつけるのに使っている鵞ペンを手に取り、横に置かれたインク瓶に、そのペン先を浸してまたこちらへと振り返った。
 そして、荒っぽく、旧世界地図の或る一点に赤い丸を描く。
 それは現世界地図には最早存在しない、虹の里〈ミノバト〉の在り処だった。
「お前は存外向こう見ずなところがあるから一応言っておくが、虹の里は滅びた≠だ。お前がいつも何を見てるのかは俺にゃ分からんけどな──滅びたってことは絶えたってことだ、なくなっちまったってことだ。
 分かるな、夢を追うならまず現実を知ってからだ、じゃじゃ馬イリス。ふるさとを探すんならまずは孤児院だろ、いきなり〈ミノバト〉へ向かうこたぁない……アウディオ孤児院へ戻んな、イリス」
「ええ……そうよね、分かった……」
「まぁとりあえずは祝杯だ。俺の描いた気高き赤円を称えたら、後はてきとうにやっといてくれ。一杯目は俺の奢りにしといてやっからよ、そっちの兄ちゃんも」
 二つの小酒杯に、緩やかな速度をもって祝酒が注がれる。
 赤みがかった安っぽいギヤマンの瓶に閉じ込められていた、強い橙色をした果実酒が、透明なグラスの中で光に照らされては静かにたゆたっていた。
 その背後で奏でられていた自由奔放な奇想曲は、いつの間にか激しく音が唸りを上げる、おのが運命を叫ぶ歌曲へと打って変わっている。
 声をかけられた兄ちゃん≠ェ、その嵐に巻き上げられた灰のような色をしている髪を揺らして振り返ったとき、カウンターに店主の姿は最早なく、彼は好き勝手に音楽で酒場の床を揺らしている連中へと、一言怒声をくれてやっていた。
 その打ち鳴らされる太鼓の如くに腹に重く響くギルの一喝に、ゆきずりの楽団はほんの一瞬だけ叱られた仔犬のように肩をすくめる。
 しかし一呼吸したのちに、連中は懲りずに再び各々の楽器を手に取り、何の皮肉か今度は静か≠ネ子ども向けの童謡を奏ではじめた。それは光る星の歌。何ともとんだ酔狂である。
 イリスはといえば、彼女は彼女で旧い世界地図に描かれた赤い円に献杯を捧げていた。なるほどこちらも酔狂である。
 彼女は、硝子に柔らかく輝いて揺らめく濃い橙の果実酒を一気にあおると、ゆったりと甘いが不思議としつこさはないそれを舌で感じとりながら、旧世界地図が描かれた羊皮紙をくるくると丸めて、最初にしてあったように紐で結んだ。
 その間に舌にやってきた苦味には安酒特有の軽さがあって、これが何故かイリスには心地好い。
 イリスは、半ばやけくそ気味で奏でられている星の童謡を聴きながら身体ごと振り返り、自らの鮮紅の瞳をその先に在る鋼玉と嵐灰へと向けた。
「──〈星の墜ちた地〉にはどういう景色があるのか、よく想像するの」
「へえ、どんな景色が見えるんだ?」
「水晶の反射や星々が映る湖の水面──まるで輝く星が其処に在るかのように美しく煌めく場所……。あなたは? あなたはこの言葉から何を見る、ハイク?」
「星の墜ちた、か……そうだなむしろ──」
 頤に指を預けて少しばかり唸ると彼は預けていた方の手のひらを握り、その拳でカウンターをどん、と叩いた。
 その動きを見ると、イリスは眉間の皺を深くして、しかし困惑を極めた色を無意識の内に瞳に浮かべていた。
 また、瞳の奥が鈍く痛んだためである。
 彼女の瞳は、ハイクの手の動きから落下する星と、それにより生まれ出た山、其処で毎日の営みが行われる人里の姿を見出していた。里の外れには高い崖……
 彼女は額から目にかけてを軽く手のひらで押さえ、緩くかぶりを振った。
 これは、何?
「こういう感じだったりしてな……どうした?」
「いえ──何でもない。一気にあおるのは良くないわね」
「飲んでるつもりが気付いたら呑まれちまってることもある。まぁいろんなことと同じだな」
「そういうこと」
 瞳の痛みは一時のことで、数度の瞬きの内に何処かへと消え失せてしまっていた。
 イリスの胸の中に微かな違和感は残れど、それは楽団自由人たちの奏でる、飛び回っては楽しげな音楽によって、気付かぬ内に掻き消された。
 奏でられる楽の音は結局、ゆきずりの彼らがいちばん初めに即興で合わせた奇想曲へと戻っている。
 この調子では近い内にまたギルの怒号が飛ぶのだろうが、連中を見つめる彼の瞳は言葉と裏腹に輝いていた。
 時折酒場でこのようにして奏でられる音楽を一等楽しみにしているのは、じつのところこの酒場の主本人なのだろう。口さがないのは、それでも彼らが楽の音を弾かずにはいられないと知っているからか。
 ひとたび楽器を床に置けば、品性など欠片も感じられない言葉言葉言葉の応酬が繰り広げられる彼らの奏でる音楽の、何て真っ直ぐで、しなやかで、楽しく面白いこと!
 それをおそらく、この酒場の店主は知っている。そしてその美しさをイリスは強く感じていた。
 それと同時に、弟が或るとき言った言葉が胸の内に蘇り、気付けばそれは声として外へと出てしまっていた。或いは、声にして確かめたかったのかもしれない。
「──誰だって、汚くなりたいわけじゃない……」
「ん?」
「前に弟が言っていたの、誰だって汚くなりたいわけじゃないだろって」
 ハイクはカウンターの上に在った奢りの一杯目を、一口だけ口に含んでいた。
 それを静かに飲み込むと、彼は酒場の中心で流れの歌うたい、奏者、踊り手、果ては若干の心得があるハンターが、じつに楽しげに音を集めて響かせているさまを見つめると、音を立てずに深く吐き出した空気と共に呟く。
 酒場の壁に踊っている影は奥に焚かれた暖炉の火によって濃く、強く映し出されていた。
「ああ……優しいんだな。人を信じていなけりゃそんな言葉は出てこない」
「そうね、そう……でも──ほんとうに美しいものばかりだわ、この世界に溢れる音楽、詩、物語、絵……声にならなかった、それでも紡いだ人の言葉たちは……
 きっとその美しい景色を誰かに伝えたかったのね、そしてきっと、そう在りたかったのね……音楽の中でくらい、詩の中でくらい、物語の中でくらい、絵の中でくらい……」
 イリスは即興の楽団が奏でる強く自由で美しい音楽を聴きながら、赤々と燃えている暖炉の火を見つめた。
 その光を瞳に灯しながら、彼女はこれから歌う人間が皆そうするように椅子の上で背筋を正し、深くしかし鋭く息を吸う。
 だが彼女は歌を唄ったのではなかった。彼女は詠ったのだった。まるで歌うような姿勢で彼女は即興の歌を詠んだ。

 歌と呼ぶ 響く言葉に 名はいらず
 然れど呼びしを 我は忘れじ

 イリスは静かに息を吐き、しかしまだ燃ゆる酒場の赤光を見つめている。
 ハイクは手のひらの硝子を傾けて、その橙の水面を火の熱に照らすと、今しがたイリスが言の葉を紡いだ方向──燃えるともし火と揺らめいて踊る黒、光と影の間を見やった。
 それからしばらくして彼が、ああ、短歌かと呟くと、イリスは少しだけ笑ってハイクの方を振り返った。
「短歌は遠い昔、この大地にたくさんの国≠ェ在った頃、日の出ずると云う国で流行ったらしいわ。旋律のない歌……少し音痴な──少しだけね──私向けの歌。これだったら私は自由に歌うことができる。これが流行った国にも少しだけ♂ケ痴な人が多かったのかも」
 ハイクは軽く笑う。
「……不思議なものだよな、それはさ。旋律もなければ押韻されているわけでもないのに、その言葉の区切り方が──拍子が、妙に耳に残る……」
「きっと残ってくれないと困ったのね。これは誰かに自分の中の何かを伝えるための歌──歌を名乗る言葉だから。きっと、他の名を名乗るすべての言葉と同じように」
 音楽は続いている。
 彼女が詠んだ歌は、彼らの奏でる強かな音楽に流されて、最早暖炉の火にくべられてしまっただろうか。
 響き渡る楽の音の鳴る方へと顔を向けてみれば、そこに見えるのは楽しげに楽器を奏で、歌い踊る、火の光に照らされて輝く頬の色──そしてその足元から壁に向かって立ち上がる、黒く強い影の姿だった。
 視界の隅では、彼の手のひらに在る橙の水面が時折揺れている。同じように、歌の尾羽も揺れ動いたようだった。
 イリスはこれから更ける夜と、そののちに必ずやってくる朝の色を、酒場に揺れる黒い影と灯る赤い光を見つめながら、少しばかり目を細めては瞳の奥に思い描いていた。
 それから、誰に向けるでもなく呟く。
「言葉は、伝えるために……」
 音楽は続いている。
 そしてそれは、確かに言葉だった。



20170203
…special thanks
ハイク・ルドラ @hiroooose

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