鼓動するトラオム


「イリス、花が咲いているね。この香りは……アルストロメリアかな? 何色だい、イリス」
 銀灰色の石畳をこつこつと杖を突いて歩きながら、オレハが隣を歩くイリスに問いかけた。イリスは、オレハの閉じられた目が一度向けた方向へと自らの視線をやる。
 こんにちも〈ルナール〉は、誰も彼もが忙しそうに駆けずり回って大通りなどは人が休みなく行き来しており、縦長の建物からは白煙が上がって石油のにおいが時折鼻をつく。
 花の姿や香は気を付けていないと認めることも難しく、なるほど今、大通りのところどころに立つ塀に飾られている、吊り下げ型の小さな鉢植えの中身が新しい花に植え替えられたことに気が付いたのは、おそらくオレハばかりだろう。
 イリスはオレハと共に大通りの道、しかし塀から少し離れた場所を歩きながら、鉢植えの中に平常の〈ルナール〉の如くにひしめき合っている赤い夢百合草の姿を見付けると、その鮮やかな色彩に少しばかり目を細めてオレハの方を振り返った。
「赤──燃える太陽よりも赤い……火の色ではないわ。深い緋色……そうね何だか……眺めていると、精密に織り上げられた異郷のタペストリーを想い出す」
「ああ、じゃあ熱の色をしているんだね」
「熱の色?」
「命の色だよ、強い想いの色さ。綴織にもその花にも熱は宿っているんだよ、ほら、おまえなら分かるだろう?」
 イリスは立ち止まり、通る人の間から塀に咲く夢百合草を見つめた。
 そんなイリスの様子に気が付いたのか、オレハは道を行く人を縫うように、杖さえ突かずに軽快な歩みで進んでいく。彼女の向かう先は大通りを挟む塀、そこに吊り下がる鉢植えの目の前だった。イリスは迷いなく進んでいってしまったオレハに気が付くと、少し焦ってその後を追った。
 ……そのためイリスは気が付くことができなかったのだ、己を見つめる黒い瞳に。それは生気を失い淀んだ黒。
 音もなく、ただイリスを見つめていた黒い瞳の持ち主は、彼女に気付かれることのないまま、力なく佇む影を引きずって大通りから外れる路地裏へと姿を消した。
 オレハに追い付いたイリスは、閉じられた瞳で花を見つめる彼女に、まったく困ったというような調子で声をかける。
「オレハ……」
「赤いんだね、この花は」
「……ええ、とても赤い」
「イリスの瞳とどっちが赤いかねえ」
「花には負けるわ、オレハ」
 少し困ったようにイリスが目を細めると、オレハは悪戯が成功した子どものように口元を歪めて、しかし声はひどく優しげに笑った。
 イリスはオレハの隣に立ちながら鉢植えの夢百合草を見つめ、その深い赤を自らの鮮紅に映すと手袋をしたままで一度その花弁に手を触れた。
 微かにだが、感触と、触れたことにより揺れた花から独特の、心に留まる香りが伝わってきてイリスは小さく息を吐く。
 イリスは一呼吸置いたのちに片手の手袋を取り外し、その人より熱い手のひらで再び夢百合草の花びらに触れた。
 手袋をはめたままでは分からない水の巡る湿っぽい手触りと、少しでも強く引いてしまえばその瞬間、真っ二つに破れてしまうだろうその赤い花びらの儚さを彼女は感じ、しかしそれでも茎は根は力強いのだということを確かめるかのように、花びらを支える柱の方へと指先を滑らせる。
 その茎は細く、人によっては一見脆いものに映るのかもしれないが、触れてみればかの柔らかな花びらに比べて驚くほどに硬い。
 植物はいついかなる時も強かである。
 イリスは微笑み、夢百合草から手を離した。
 じつのところ、このイリス・アウディオは夢百合草が大のお気に入りなのだった。
「イリスの中にも熱があるね」
「え? ああ……そうね、私は熱を借りる人間だから」
「それだけじゃあなくってね──イリス、次は北に向かうのだったかね」
「ええ、その予定。北ってだけじゃ流石に漠然としすぎだからもう少し絞り込みたいところだけれど……」
「おまえは自分のふるさとを憶えているかい?」
 オレハの唐突な質問にイリスは目を瞬かせた。
 その瞬間、己の瞳にちくりとした痛みを覚えて、イリスは微かに首を捻る。
 微かに眉根を寄せているイリスの方を、やはり瞼は下ろしたままでオレハは見やると、それからこの目抜き通りを今度はこつこつと杖を鳴らしながらゆっくりと歩き出した。
 イリスはオレハの丸い背をこちらもゆっくりと追いながら、唇に人差し指を軽く当てて彼女の言葉を胸の内で繰り返す。ふるさと……
「知っていると思うけれど、私は自分が生まれた場所のことについては憶えていないの、ほとんど何も……」
「……ほんとう?」
「ほんとうよ」
「──北じゃあ、ないかねえ」
「え?」
 歩きながら、数歩ごとに瞳に映る深緋の夢百合草を眺めていたイリスは、オレハが問いかけのかたちを取ってはいるが、妙に確信めいて呟いたその一言に驚いて彼女の背へと視線を向けた。
 北?
「まだ私が若い──そうさね、この目が物を見ることができた頃に読んだ本に書いてあったんだけどね……北の果て、人の住める限界の土地には昼間ではなく夜に虹が架かるらしい。いいや目に見えないだけでその地では一日中虹は架かっている、ただその虹が人の目に映るのは夜だけなんだと……けれどそこはこの辺りと比べて夜の長い場所らしくてね」
「夜に虹が……」
 イリスは首に巻いた電氣石にも似た虹色の薄布に指先で触れた。その様子にオレハは気が付いただろうか、振り返らず更に言葉を紡ぐ。
「其処で虹と共に生きる人々はまるで虹を吸い込んだような見目をしているという。髪や目、或いはその両方か……とても寒い環境に自らを置く彼らは熱をその身に纏い、虹と共に生きる……」
「……ねえオレハ、あなたの瞳ってどんな色なの?」
「──さあねぇ、どうだったかな。もう長いこと自分の目なんて見ちゃいないから忘れちまったよ」
 イリスは、そう、と微笑んで小さく頷いた。
 だがイリスは今しも、オレハの閉じられた瞼の先に在るその瞳の色を──その鮮やかな色を垣間見たような気がしたのだった。
 オレハの瞼が開けられたところは出会ってからついぞ見たことはない。
 それに鮮やかな見目の者など、そうでない者に比べればそう多くもないだろうが、それでもこの世界には溢れるほどに存在するだろう。
 けれど感じた、けれど見えた。
 虹の里にて夜の虹を見つめる、かつては煌々と輝いていただろうオレハの瞳が……
 目抜き通りを抜けると、大通りに比べると背の低い建物たちが立ち並ぶ商店街に出る。
 平日の日が高い今は商店街に用がある者も少なく、客となる皆が各々自分の仕事をしているため人の往来が緩やかで、外に出ている客引きなどは暇そうに欠伸を噛み殺していた。
 今だったら住宅街にもう少し近い露店街の方に客足が伸びているだろうか。いや夕食の惣菜を選ぶ時間にしてはまだ早いのか。
 イリスは唇に折った人差し指を当てたままでオレハの背を追っている。
 彼女は歩きながらずっと夜に虹が架かるという里のことを考えていた。いいや頭から離れなかったのだという方が正しいのかもしれない。
 前を行くオレハが振り返り、困ったように口元を歪めて笑った。
「そんなに難しい顔をするんじゃないよ」
「え?……私、難しい顔をしている?」
「たぶんそうだと思うけどねえ、そんな息のつまったみたいに後ろを歩くし……おまえが広い道で私の隣に来ないのは珍しいだろう」
「そう……そうかもしれない。ふるさとについて考えていたの、私にもふるさとは在るのかしら……こんなに何も想い出せないのに」
「誰にでもふるさとは在るものだよ」
「ふるさと……私には孤児院と──オレハの家だけで十分」
 それを聞くと、この腰の曲がった優しき老婆は、愛おしげに目元の皺を深くした。
 それから振り返って再び歩を拾いはじめたオレハは、しばらく歩いて手ごろな金属の長腰掛けを見付けるまで黙ったままだった。
 彼女はゆっくりとした歩みでその長腰掛けに座ると、手にしていた漆塗りの白い木杖を自身の隣に立て掛けて、それから自分と同じように隣に座ったイリスの方を見やる。
 イリスはまだ少し難しい顔をしているようだった。
 肘掛けの部分には狐と歯車の意匠が金属を変形させて凝らされていたが、しかし彼女にしては珍しくそれにも気が付かない。
「未来を見据えるのもたいせつなことだけどね……それが人を人たらしめる所以だから。けれどイリス、それと同じように過去もたいせつだと私は思うよ。それが一年や二年ぽっちの間のことだとしてもね……
 自分が誰で、何処で生まれたのか……そして何処へ向かうのか……己の未来を見るために己の過去が役に立つこともあるものさ」
「……どうしてその、虹の里のことを私に教えてくれたの?」
「星の降る洞窟──おまえは止めても行くんだろう? その洞窟を抜けた先に里は在る。おまえが本来目指している〈星の墜ちた地〉と関係があるかは分からないけれど」
「行くわ、過去が未来へ向かう力となるのなら。たとえば私の故郷がその里だとして、そこでお母さんとお父さんがかつて見ようとしたものの欠片に少しでも触れることができれば……そうすれば私は向かうことができる、心だけでも近付くことができる──〈星の墜ちた地〉に」
 イリスは紅の瞳を、建物の隙間から覗く青空へと向けていた。
 そこでまた瞳が痛んだのは果たして太陽の白光ばかりのせいだっただろうか。だが、確かめるように発した自身の言葉が、不自然に曖昧な輪郭を保っていたことには、イリス自身声にしながら気付いていた。
 平常、静かで落ち着いたものでありながらも熱を纏う彼女の声が今しがた微かに震えていたのだった。
 イリスは一瞬だけ、涙を堪える子どものように自分の喉から声が出にくくなったことを訝しみ、そして他ならぬ自分自身のことだというのにその理由がいまいち解らず、困惑の色をその瞳に浮かべる。
 もちろんオレハはそんなイリスの声を聞き留め、そして彼女の方へ顔を向けると膝の上で両手を組み合わせた。
 語りかけるオレハの声はいつも優しく、そしてどこか寂しかった。
「怖いかい、過去と向き合うのは……過去を知るのは……想い出すのは……」
「怖い……? 私が怖いのは──」
「何より死ぬこと≠セろう、知っているよ。だから怖いんじゃあないのかね、過去を知れば自分の中で死ぬものがあるかもしれないから。過去を知らなかった今までの自分、知らないままでいるという選択をした自分、その自分が選ぶ未来……そうしたものたち。まあ、こんなのは水かけ論かもしれないけれどね」
 イリスは手袋をしている自身の手のひらを見つめた。
 手は震えていない。おそらく声も、もう普通に発することができるだろう。
だいじょうぶだ、怖くはない、怖くない。
 そうしたイリスの動きにも、オレハは耳を澄ませていたのだろう。皺くちゃの手のひらをイリスの頬へと伸ばすと、彼女のその滑らかな肌を指先で優しく撫でた。
 いつも手袋越しにオレハの手のひらに触れていたイリスは、このとき初めてオレハの手のひらがこんなにも温かい──ちょっと熱いくらいなのだということを知った。
 イリスはその熱にほんの少しだけ笑うと、ああこれが熱の色なのだということを心よりもっと深いところで想う。
 この人の中に、熱の色が見える。
「怖いなら──怖いときは怖いと言えばいいんだよ。そのために言葉は在るんだから」
「そのために?」
「誰かに自分の思いを伝えるために言葉というものは生まれたんだろう? 誰かに何かを……自分の見たものを、感じたものを伝えるために。伝えるために言葉は在るんだろう、イリス?
 それを教えてくれるのは、想い出させてくれるのはいつだって他にないおまえじゃあないか。そうさ、イリス、おまえが教えてくれるんだ──いつも、いつも……」
「──怖くない、だいじょうぶ」
「素直じゃないねえ……」
 呆れたように笑うオレハに、イリスはまだ止まりたくないからと首を振った。
 オレハはどこか哀しげにそうだねと頷き、また膝の上で両手を組む。どうだろう、それは祈りの姿にも似ていたかもしれない。
 長腰掛けに座る二人の背後で、ぱきりと何かが断ち切られる音がした。
 ほんの微かに鳴ったその音にイリスは気が付くことはできなかったが、やはりオレハはそれを聞き洩らさない。
 花の茎が、鋏で断ち切られる音だった。
 この近くに花屋があるのだろうということは、漂ってくる仄かな花の香からも察せられる。
 オレハは、大通りでイリスが言葉によってこちらの瞳に映してくれた赤い赤い夢百合草のことを心の中に描き、その熱を宿す美しさを想っては隣に座る彼女に語りかけた。
 そう語りかけるオレハの声もまた、穏やかで優しい熱を宿していた。
「……イリス、花を買って帰ろうか。赤い赤い──アルストロメリアを」



20170128

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