novel | ナノ

小さなボディーガード


新月の晩は特に暗くなる裏道。バイトを終えて携帯で友人から来ていたメッセージに返信しながら歩いていく。時刻はすっかり夕飯時間を越して一般的な消灯時間になっている。
コツリコツリとローファーが地面につく音が静かな暗い道の中に響く。夕飯をまだ食していない腹は時折空腹を主張してきて、その音がいやに大きく聞こえる。けれど歩く速度は変わらない。コツリ、コツリ。いつも通りのスピードで歩いていく。

ニャァ。

不意に、甘えるような声が耳に届いた。その声に立ち止まり振り返れば、黄色い目をこちらに真っ直ぐと向ける黒猫。

「こんばんは、ねこ。」

ニャァー…。

挨拶をすれば返事の様にいつもと同じ声音で反応し、足下に擦り寄ってくる。その様子が可愛くて、つい頬が緩む。
バイトを初めて2ヶ月。そしてこの黒猫とも出会って1ヶ月半。元よりバイトを始める前までは一度もこの道には通っていなかったので会わなくてもなんら不自然ではない。けれど今となってはこの黒猫との逢瀬が日課のようなものとなり、バイト帰りには必ず出会っている。
しゃがんで足元にいる黒猫の顎下を撫でてやる。そうすれば気持ちが良いのかゴロゴロと喉を鳴らす。機嫌が良くなったのを見計らって顎下を撫でていた手を猫の小さな額へ移動させ、マッサージする様に撫でてやる。最近知った、この黒猫が一番上機嫌になる撫で方だ。案の定ゴロゴロと先程よりも聞こえる機嫌のいい喉の音と気持ち良さそうに蕩ける様な表情にこちらも自然と嬉しくなる。ゴロリと寝っ転がってこちらへお腹を向けるので軽く撫でてあげる。するとリラックスしているのか長く伸びる。ぐぐーっと伸びたと思えばいきなり体を起こす。そのタイミングを見計らって手を離せば立ち上がった先を数歩歩いていき、顔だけ振り返る。

ニャァ。

行こう。と言わんばかりに一つ鳴かばそこにちょこんと座る。それに胸にほんわかと優しい温もりを感じながら「はいはい。」と軽く返事をして黒猫が座っているすぐ傍に移動する。
すると今度は「次だ。」と指導者が教え子に次の工程へ促す様に道の先を鼻先で示してから「ニャァ。」と鳴かれた。

「わかった、分かった。」

くすくすと意識せずとも笑みが零れる。そのまま歩いていけば数歩後ろから黒猫がついてくる。
会って、挨拶して、撫でて、帰る自分のあとをついてくる。いつものやり取りと光景だ。それがとても可愛くて、癒される。バイトの疲れも飛んでしまうくらいには。ねこ天使。知ってた。
黒猫が着いてこれるようにゆっくりと歩いていけばその後ろをぽてぽてと同じペースで歩いてくる。チラリと後ろを見れば「なぁに?」と聞くように首を傾げてこちらを見上げる。それが可愛くて見ているだけなので「何でもない。」と言ってまた黒猫を気にかけながら前を向いてゆっくりと歩いていく。そしてその後ろを黒猫はついてくる。曲がり角を曲がってもスピードや感覚変わらずに歩いてくる。とても利口な黒猫だ。どこかの家の飼い猫だろうと思っている。野良でこんなに懐く子は珍しいから。元々飼い猫だったという線もあるが、だったらもっと人を警戒したりすると思うし。
暫くそのまま歩いていく。すると十字路に辿り着く。ここまでだ。

「ねこ、ありがとね。」

ニャァー。

礼をいえば返事。いつも通り、また「気にするな。」と言ってるように聞こえた。それにもう一度「ありがとう。」と言う。今度は返事は無い。

「それじゃ、またな。次は二日後だ。」

ニャア。

「分かってる。気をつけて帰るさ。」

そう言えばじ、とこちらを見ていたかと思えば顔を背けて来た道を帰っていく。その後ろ姿にもう一度「またな。」と言って見えなくなるまで見送る。黒猫の尻尾が曲がり角で完全に見えなくなったのを見計らい、自分も自宅までの数メートルを歩き出す。



それから数ヶ月が経った。受験生になり、勉強に本腰を入れ始める時期にも入った。けれどバイトは辞めたくなくて、せめてとシフトの数を減らされた。それも終わり無事に大学合格し、気兼ねなくバイトをガッツリ入れていた。そしてその度に黒猫に会っていた。会って、軽く話して、撫でて、帰る自分のあとをついて来て、十字路にて別れる。いつも通りの日々。けれどそれに終わりを告げる日は必ず来る。それが今日だ。
最後のバイトが終わった日。一般的な就寝時間。新月の暗い裏道。携帯は操作せずに、いつもはバイトの制服が入っていて嵩張っていた鞄をかけ直す。軽い。服はそんなに重いものではないのは重々承知だが、今日のは酷く軽く感じた。

ニャァー。

「ねこ…。」

ねこだ。
いつもの場所にいた。ちょこんと座って、じっとこちらを見て。いつも通り。

「…こんばんは、ねこ。」

ニャァ。

挨拶をする。返事をして、擦り寄ってくる。しゃがんで、撫でてやる。顎下を撫でて、リラックスしたのを見計らって額をマッサージするように撫でて、ゴロンと寝っ転がって向けてくる腹を軽く撫でてやる。そしてぐーっと伸びて起きたねこが「行こう。」と促し、それに従って歩いていき、その後ろをねこが歩いてくる。いつも通り。
無言で歩いていく。コツ、コツとローファーが静かな道に響く。最初の曲がり角を曲がったら、ねこも曲がってついてくる。

「ねこ。」

ニャァ。

「お前は初めて会った時から変わんないね。」

歩いている途中で初めて声をかけた。いつもは声をかければさっさと行ってしまうんじゃないかと思って声をかけられなかったのだが、今日は別だ。きっと最後なのだから。

「初めて会った時、覚えてるか?」

ニャ…。

「忘れちゃったか?お前、上から落ちてきたんだぞ。きれいに着地していたし怪我もなかったから安心したが、こっちは心配したし怖かったぞ。」

ニャー…。

「しらばっくれるか?」

一人会話の様なもの。ねこが何を言ってるかなんて分からない。だから自分の妄想でしかない。それでもこうして声を出して会話もどきをしたかった。

「なんだなんだと思えばさ、目の前でちょこんって座って、こっちじーーーって見て。最初は意味分かんなかったなぁ。」

ニャァーァ。

「仕方ないだろ、色々突然過ぎたんだよ。そんで歩き出せばついて来てな、早歩きして振り返ったらさっきと変わんない距離にいて、あの時は本気でびっくりしたぞ。走ると思わなかったから。」

のんびりとしてる雰囲気のねこ。今でもこのねこが走ってる姿は見たことがない。以前に試しに早歩きしてから振り返ったが最初と同じ、全く変わらない距離に何食わぬ顔で首を傾げていた。

「そんで、十字路で別れて。これでバイバイなのかなーってちょっと残念に思ってたら次のバイトの帰りでも会って。嬉しかった。」

ちょっと落ち込んでいたんだ、もう会えないのかなーって。だからいてくれた時はかなりテンションが上がっちゃったな。

「あ。」

いつもの十字路。ここでお別れ。

「…ねこ。」

呼びながら、振り返る。こちらをじっと見つめるねこ。

「ありがとね。」

ニャァ。

「気にするな。」と言われた気がした。


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