夜、静まり返った屋敷。
昼間の熱気はすっかりと消えて、今はひんやりとした風が心地良い。
ミシュアルに借りた本を返そうと、私は彼の部屋へ向かっていた。
彼が日中忙しいこともあって、ゆっくりと話が出来るのはいつも夜になってから。
だから、毎日、日が落ちるのが待ち遠しい。
ふと、リュートの音色が聞こえて足を止めた。
耳を澄ませてみると、どうやらミシュアルの部屋から聞こえてくるようだ。
もしかして、誰かを部屋に呼んで演奏でもさせているのだろうか?でも、そんな話は聞かなかったけれど。
シャンデーヴァの大当主様となれば、そんなことは普通なのかもしれない。
どうしようかなーーと迷った。
すると、偶然通りがかったマアルフと鉢合わせした。
「ああ、サミア様。ミシュアル様ならお部屋に居ますよ」
いつもと変わらない柔らかな笑顔。
マアルフの顔を見ると安心する。
「でも誰かお客様が…」
「いいえ?ミシュアル様お一人ですよ?」
「え、だけど、リュートの音色が」
「ああ。これはミシュアル様が弾いているんですよ」
「え!?そうなの!?」
本当に驚いてしまった。
「ええーー幼い頃から、ご趣味で。ちょっと声を掛けてきましょう」
「あ、うん…」
戻って来たマアルフに手招きされる。
「どうぞ中へ。後ほど何かお飲み物をお持ちしましょう」
そう言ってマアルフはすっと席を外す。
何故だろう。毎日入る部屋なのに。少しどきどきしながら、私はミシュアルの部屋へ入った。
「サミア」
窓の縁に腰掛けていたミシュアルが、笑いかけてくれた。成程、その手にはリュートを持っている。
「あ、この本、返しに来たの…そしたら、リュートの音色が聞こえて。あなたが弾いていたのね」
「ああ。気分転換にな」
月明かりに照らされる彼の顔には、どこか神秘がかった美しさがあった。思わず見とれて、ほうっと息が漏れた。
「気分転換?」
「仕事をしていると、どうも余計なことを考えてしまうのでなーー」
「余計なこと、というと」
「……大したことではない。周りからの目が時々気になることがある。それだけだ」
そう言って彼は視線を落とした。
それはつまり、次期当主であるミシュアルに向けられた…いわば、周囲からの期待の眼差し、と言うことだろうか?
私は驚いた。何故ならミシュアルと言う人は、そんな悩みとは無縁だと思っていたから。
彼は人知れず、そんなプレッシャーに耐えていたというの?
「……何故笑う」
憮然とした顔で彼が聞く。
「ごめんなさい…嬉しいの」
「嬉しい?」
「ミシュアルの悩みが聞けて」
彼は目を丸くする。変な事を言ってしまったかな。
思わず笑ってしまったが、続けた。
「私はあなたのことを、完璧で、自信満々で、悩みなんてまるで無いような人だと思っていた。でもそれは勘違いだったのね。あなたもそうやって、思い悩むことがあるのね。それを知る事が出来て、なんだか嬉しいのーーその、妻だから、旦那様のことは何でも知っておかなくちゃ…」
自分で言っていて気恥しくなってきた。
私がミシュアルを支えるだなんて、烏滸がましい物言いかもしれないけれど。
「そんなことを言われる日が来るとは」
いつもの余裕ある態度。だけど、その言葉には、感情が今にも溢れそうなーーそんな、震えがあった。
「…支えてくれる者が隣に居てくれるというのは、嬉しいものだな。有難う」
私の手を取って、ミシュアルは微笑んだ。
驚いたけど、彼の温かさに安心する。
「ねえ、ミシュアル。私にもあなたのリュートの音を聴かせて」
「それは、構わないが」
二人で縁に腰掛けて、やがてミシュアルの指が音を鳴らし出す。
夜空にまるで流れていくような、そんな美しい音色だった。
「きれいね」
勿論、音楽もだけれど、彼の楽しそうな横顔がーー、
本当に美しくて。
「サミアは音楽が好きか?」
「…あまり聴いたことが無いわ。でも、あなたの演奏はとても好きよ」
ふ、とミシュアルが笑う。
「おまえもやってみるか?」
「えっ?」
「弾き方を教えてやろう」
おいで、と促された。
ミシュアルの足元の床に座ると、リュートを手渡される。まごついていると、彼が手を添えて、持ち方を教えてくれた。
恐る恐る、指を動かす。透き通った音が二人の手から紡がれた。
私が笑うと、ミシュアルも同じように笑う。
ああ。なんてーー
「なんて美しい時間だろう」
ミシュアルが呟く。
私と同じことを、彼も考えていたのだ。
私の右手のゆびさきに、彼が優しくキスをした。
同じように、私も彼の手にキスを返す。
少し驚かれたけれど、とても嬉しそうだった。
その後は、マアルフの持ってきてくれた、よく冷えたレモン水を二人で飲んだ。
グラスの中のレモン水には、輝く月が映っていた。
「私は、幸せだな」
仄かに甘いレモン水を飲み干したミシュアルは、そう言って私をそっと後ろから抱き締めた。
「またこうして、二人で月を見よう」
熱く火照った頬を夜の冷たい風が優しく撫でてゆく。
向き直り、彼を抱き締め返した。
「約束だよ」
甘く幸せな熱を噛み締めながら、ふわり、と目を閉じた。