《ナマエ》
どこからだろう…。
どこからか、あたしの記憶は…途切れている。
…真っ黒に塗りつぶされてしまったみたいに。
ただ、ずっとずっと…凄く長い時間、眠っていたような感覚だけが残ってる。
《ナマエ…起きて》
《…う、ううん…》
《ナマエ》
ある日、そんな長い眠りに…終わりが来た。
とても…とても久しぶりに名前に名前を呼ばれた気がした。
穏やかな、静かな声…。とても、懐かしい声。
《おはよう、ナマエ》
《…え…?》
目を開けると、白く光が眩しかった。
だけど…その中に人影が見えて…。
そう、幼い…少年の影。
光に目が慣れてきて、その子の顔が見えてきた。
銀色の髪、緑色の透き通るような瞳…。
《ホー…プ…?》
《久しぶりだね、ナマエ》
あたしに微笑んだ男の子。
それは、凄く…本当によく知った、君の姿…。
だけど…。
だけど、あたしの最後の記憶に残る君とは、少し…違う。
ここは、箱舟…。
かつて…アカデミーが、ホープが作った新しい人工コクーン。
今は人々に、月と呼ばれるこの場所…。
あたしは…箱舟に目覚めた。
そして、そこにいたのは…出会った頃の、幼い姿のホープだった。
「ライト、おかえり!」
「ああ…」
あたしは、箱舟に戻ってきたライトに笑顔で駆け寄った。
ライト。
一緒に旅をして、コクーンを守って…その最後に歴史から消された彼女。
ずっとずっと探し続けていたから、今、彼女が目の前にいるという事実は…ただ、純粋に嬉しいと思う。
そして、あたしに続くようにホープもモニター前の席を立ちあがり、ライトの方に体を向けた。
「おかえりなさい、ライトさん」
ホープ…。
彼は、時を遡ったような姿で此処にいる。
そして、あたしたちの中で…誰よりも一番、神様のことを詳しく知っていた。
あたしとライトが目覚めてすぐの事…。
幼い姿でこの箱舟を操るホープは、あたしたちに神の計画を告げた。
《輝ける神、ブーニベルゼは決意したのです。この世界は終焉へと向かっていて、もう神にすら止められない。そのため神は、滅びゆくこの世界を救うのではなく、新たなる世界を再び造り直すことにしたんです》
あんなに守ろうと必死になっていた世界。
だけどもう、それは叶わない。世界の滅びは変えられない…。
世界を創った神様でさえ、その運命を認めてしまった。
だから神は、やり直しを決めた。
もう一度、天地創造をやり直すことを…。
《けれど新しい世界を創ってもそこに住む者がいなければ無意味です。そこで神は、ライトさんを解放者に選びました。解放者とはこの終わりゆく世界に囚われた魂を解き放ち、新しい世界へ導く者》
解放者。
人々の魂を導く、伝説の存在。
神様が造る新しい世界へ、人々の魂を導く者。
目覚めたライトは神に、その解放者としての命を与えられた。
《貴女だけが人々の魂を…それに亡くなったセラさんの魂も救えるはずです》
《要は取引か。セラを助けたければ、神の遣いとなって働けと》
ホープの言葉に、ライトは少し皮肉めいて返した。
神はライトに命を与えた代わりに…それが果たされた時、セラを甦らせることを約束した。
言い換えるなら、セラは…セラの命を利用されている…。
《貴女にしか出来ないんです。亡くなったセラさんを利用するようで、不愉快でしょうが…》
《そうでもないさ》
《え?》
大切な妹を…。
ライトは当然、そう感じるであろうと思った。
だってライトは、いつだってセラを何よりも大切に思っていたのだから。
しかし、今の彼女の反応は…どことなく冷めているようにも見えた。
《妹の命を取引の材料にされたと言うのにな。当然、許せないはずだが、さして響いてこないんだ。…まるで心に穴が空いたようだ》
ライトは胸に手を当て、自らそう言った。
当然面白くないとは思うのだろう。
自分ならセラをダシにされるなど許すはずも無い事も、ちゃんとわかってる。
だけどその思考に、心が追い付いていないような。
…心の一部が欠落してしまったみたいに。
《…それは、わかります。僕もなんです》
すると、その言葉にホープまで頷いた。
その声は戸惑うと共に、本当に…感情というものが込められていないような、抑揚のない声だった。
《昔の事を思い出すことは出来ても、その時の想いは…実感が無くて》
《これも神の思し召しとやらかもな。神の仕事をこなすしもべに感情は不要。だから切り捨てられてしまった》
ホープの言葉を聞いて、ライトはそんな仮説を立てた。
ライトとホープは、己の心に欠落を感じている。
それは必要のないものだから…神が奪い、捨ててしまった…。
だけど、あたしは…。
《ナマエは?どう?》
その時、ホープがあたしに振り向きそう尋ねてきた。
目が合う。
懐かしい姿だけれど、確かにホープだ。
だけど…。
…感情の欠落、か。
あたしはそっと、静かに息を吐いた。
そして、ゆっくり微笑んだ。
《あたしは、覚えてるよ。そりゃ、もう大昔の事だから、記憶として曖昧なところはあるけど…。でも、その時感じた、大切な気持ちは…ちゃんと覚えてるよ》
そう、あたしは…何かを思い出せないとか、そんな感覚を感じてはいなかった。
ライトやホープを見て、懐かしいと思う。
あの旅は凄く大変だったけど、掛けがえのない…そんな思い出でもある。
ねえ、ホープ…。あたしは、君の色々な表情を知っている。
感情豊かな色んな顔。たくさん、見せてもらった。
それらとちゃんと、覚えてるよ。
…君がくれた、いくつもの言葉も。
それを見た時、あたしが…どんなことを思ったかも。
《…此処に置いておきながら、神はナマエの感情は奪わなかったのか》
《う、うん。ふたりが感じてる違和感ってのがどんなものなのかよくわからないけど、いいや…わからないからこそかな。そういう変な感じは無いよ》
《それも、神の計画の一部なのかもしれませんね。…だとすれば、僕がこんな身体に戻されてしまったのも、神の計画のうちなんでしょうね》
こうしてあたしたちは、魂を導く解放者としての運命に身を投じていくことになる。
そんな話を思い出しながら、あたしはライトを迎えた視線を…そのまま大きな聖樹へと向けた。
…聖樹、ユグドラシル…。
「世界の理が乱されて、混沌の乱流が終わったのがおよそ500年前。世界はあんなにも広かったのに、たった500年で何もかも、混沌の濁流に呑まれようとしています」
「そして解放者の力が尽きる時、世界を終わらせる鐘がなる…。そうだったな?」
「鳴り響く鐘の音が、輝ける神ブーニベルゼを覚醒せしめ、新たなる天地への想像が始まるでしょう」
「それまでに、いくつの魂を救えるか」
「はい。僕たちが救えなかった魂は、この古い世界と一緒に消えてしまう」
樹を見上げながら、ふたりのそんな会話を流れる様に聞いていた。
すると、そんなあたしの様子を見たホープが隣に立ち、一緒に見上げて尋ねてきた。
「気になるの?」
「うん。なんとなくね」
聖樹ユグドラシルと共に…光を実らせよ。
あたしの頭に唯一残る、神の言葉はそれだから。
神は、あたしとこの樹に…何かを結びつけたのだろうか。
「この箱舟の時は、神が止めている。だけど、世界の滅び間では止められない。およそ13日度に神が目覚める予定だけれど、恐らくその日を待たず、あと数日で世界は滅びてしまう。この世は、あまりに衰えているから、神が現れる前に寿命が尽きてしまう。だから、この樹とライトさんが必要なんですよ。ライトさん」
ホープはライトにもこの樹の前に立つように彼女を呼んだ。
ライトはそれに従い、ゆっくりこちらに歩み寄ってくる。
そして3人で樹を見上げた時、ホープは再び口を開き、この樹の存在を語った。
「ライトさん、貴女には特別な力があります。その力とは、輝力。解放者の命の輝きとも言うべき恵の力です。貴女の輝力を捧げれば、世界に活力が恵まれ、滅びを遅らせることが出来るんです。輝力を得る方法…それは、人々の魂を解放すること。そしてその輝力をこの樹に捧げていくことで、世界の滅びを遅らせることが出来るんです」
世界に活力を与える、恵の聖樹。
凄く…漠然とだけれど、この樹に宿る力を…あたしは自分の中にも感じるような気がした。
あたしは何故、自分が此処にいるのかわからない。
神の事だから…気まぐれ、なんてそんな事は無いだろうけど。
自分に与えられているものがなんなのか…。
ただ、確かなのは…一番大切なのは、皆を想う気持ちだ。
だから…仲間の誰かを残して世界が滅ぶとか、苦しんでいる姿を見ているのは辛い。
…スノウの一件で、その思いはより一層深まった。
この世界は終わってしまう。
でも、ライトを手伝う事で何らかの希望が見出せるなら…。
あたしは、それを手伝いたいと思ってた。
…正直、気になる事は色々あったけれど。
To be continued
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