「ナマエ、ちょっと手伝って欲しいんだけど…いいかな?」
「あ、うん。なーに?」
モニター前の席に座るホープに手招きされる。
あたしは駆け寄ってホープのいじるパネルを覗き込んだ。
「なあ…少し気になっていたんだが、ホープ…お前、ナマエの呼び方、変わったか?」
すると、休みながらその様子を眺めていたライトがふと、そんなことを尋ねてきた。
あたしの呼び方…?
それを聞いたあたしとホープは顔を合わせた。
ホープは今、あたしを「ナマエ」と呼んだ。
別に何の違和感も無い。
だけど少し考えて納得した。
ああ、そっか。
彼女の言わんとしている事を理解した。
そうか。
ずっと昔は、そうじゃなかった。
「ナマエさん」
「!」
するとその時、ホープがそう懐かしい呼び方を口にした。
ぱっと彼の顔を見れば、くすっと笑ってる。
「もう、ずっとこっちは呼んでませんでしたね」
「ちなみに敬語もね」
「あははっ、そうだね」
出会った頃、礼儀正しいホープはきちんと敬語とさん付けであたしに接してくれていた。
そしてそれは仲良くなったり、一緒に住んだりしても変わる事が無かった。
別にそれをどうとも思っていなかったし、気にも留めていなかった。
…切っ掛けは、いつだったか。
思い出す。そう…あれは確か、ノエルの何気ない一言だった。
《なあ、ホープってさ、なんでナマエに敬語使ってるんだ?あと、さん付け》
旅が終わって程無い頃…。
世界が混沌に包まれて、ホープとノエルとスノウと、皆で一緒に打開策を模索していたあの日々のこと。
その日、今のライトのようにふと、ノエルがあたしたちに尋ねてきた。
その時のあたしとホープと言えば、ふたりして一緒にきょとんとした。
《なんでって…、何で?》
《さあ…特に意味は。なんというか、もう癖…ですよね》
きょとんとした理由は単純だ。
それは、あたしもホープも、どっちともさして気にした事が無かったから。
ホープの言った通り、もう癖…というか。
それが当たり前すぎてどうにも…って感じだった。
《たまーに敬語抜けることあるけどね?》
《ああ、うん。そう…正直あまり意識してないかな。自然に出てくるまま話してるから》
《ほら、今とか敬語抜けてるよ》
《ですね》
《って、言ってるそばから敬語に戻ったぞ。ほら、こんな風に本当にたまにだろ?いや別に、お前たちが気にしてないなら良いんだけどさ。なんとなく思っただけだから》
ノエルはそう言って後ろ頭を掻いた。
本当に彼自身が何気なく振っただけの話なのだろう。
でも、ホープはそこでニッコリと笑ってあたしを見てきた。
《じゃあ、ナマエ》
《へっ?》
そして突然、呼び捨てにしてあたしの名前を呼んできた。
いきなりだったから、あたしはビックリしてちょっと変な声が出てしまった。
《お、おお…なんかビックリした》
《うーん…あははっ、本当、なんだか慣れないですね》
目を丸くして尋ねると、ホープは照れたように小さく笑った。
ていうか…正直ちょっとドキッとしたというか…。
まあその辺はなんか悔しいからちょっと黙っておこうなんて、よくわからない意地が覗いた。
その後二人になって、それからもなんとなく、そんな話が少し続いた。
《ナマエさんは、敬語とか嫌ですか?》
《んーん。別に?ていうかそんなの気にした事も無かったよ》
《そうですか。まあ僕もなんですけど》
《うん。敬語だからって、距離があるな〜とかも思ったことないし》
《そうですね》
本当に、今までちっともそんな事考えなかったな…と思う。
他所から見れば、他人行儀に見えるのだろうか?
ああ、でもまあしいて言うなら…。
あたしへの…と言うより、他の誰かへ…の方が気になっていたのかもしれない。
《んー…でも、ホープが他の誰かを呼び捨てで呼んだりタメ口で話してるのを見ると、ああ、仲良いんだなあ…とかは思ってたかもね》
《え?》
くすっと小さく笑った。
そう…例えば、アカデミーの人たちとか。
…今はもう、誰の記憶からも消えてしまった…金髪のあの子、とか。
まあ、それを見てあたしは敬語なのに!とかならない時点でちょっとズレてたのかもしれないけど。
《ああ…そういうのなら、僕も思っていたかもしれません》
《うん?》
《ノエルくんなんかを初めて見た時は、仲良さそうだな…なんて思いましたから》
《…へー。初耳。ヤキモチ妬いてくれたの?》
《そりゃ多少は。羨ましかったですよ、僕は傍にいられなかったから》
ホープはそう言いながら、あたしの髪に触れてそっと掬い上げた。
今はちゃんと触れられるほど傍にいるけど…、そんな確認をしてるみたいだった。
《…ナマエ》
《うん》
《ナマエ、ナマエ》
《あはは、ちゃんと聞こえてるよー》
《…ふふ、なんだかくすぐったいな》
そう言ってお互いに笑った。
多分、きっかけはこの時だったと思う。
それから少しずつ、だんだんとホープの言葉使いは変わっていった。
恐らく、ホープ自身が少し意識するようになったのかもしれない。
本当に、別に今までそのことに距離を感じていたわけでは無いけど、呼び捨てにする時のホープの顔がなんだか楽しそうだったから。
まあ、あたしだけじゃなくて、くん付けしてたノエルの事もいつのまにか呼び捨てに変わったし。
これも何百年も共に過ごして、変わっていったことのひとつなんだろう。
今は、こうして呼ばれるのがもう当たり前に変わっているから。
「ね、ホープ?」
「うん?なに、ナマエ」
瞳に映した、今のホープの姿。
…今の彼の感情は、希薄だ。
じゃあ、あの時感じたあのくすぐったさも…今は思い出すことが出来ないのだろうか。
「スノウが気になる。あいつの宮殿に向かおう」
しばらくして、体を十分に休めたライトは立ち上がり地上へと繋がる転送陣の前に立った。
この空間の時は止まっているとはいえ、やはり彼女は混沌の残してきたままのスノウの事が気になっているみたいだった。
「それなんですが、違う街に行ってみませんか?」
しかし、そんなライトにホープは違う提案をした。
ライトは振り返る。
「スノウを放っておくのか?」
「地上では、あれから時間が経っていないんです。宮殿はまだ厳戒態勢で、スノウとの接触はほぼ不可能でしょう」
「…ほとぼりを冷ませと言う事か」
ライトも小さく息をついて納得した。
それを見たホープは頷き、そして新たな目的地をライトに提示した。
「それでは、ルクセリオと言う街に転送します。この世界の中心と言える都市です。ライトさんを列車の中に転送します。列車の中に転送するので、駅に着いたら降りてください。駅前で事件が起きているようです」
「わかった。送ってくれ」
「冷静ですね。未知の世界に放り込まれるのに、やっぱり大胆不敵だな」
「大胆というか…何も感じない。迷いも恐れも、切り取られたようだ」
不安などひとつも無いほど落ち着いて言うライト。
その姿を見て、あたしは少し何とも言えない感覚を覚えた。
「…ライト」
「お前が一番不安そうだな」
「…あ、あは…そうかもね」
…不安、か。ライトに突っ込まれた。
確かにあたしが不安がってどうすんだって話なんだけど。
こうしてライトは転送陣に立ち、光都ルクセリオへと向かっていった。
「ふう…」
その姿を見届けながら、あたしはゆっくりと腰を下ろした。
そして、息つくようにそっと…瞼も落とした。
あたしの世界は真っ暗になる。
『ナマエ〜!やっほ〜!』
そこに、やけに明るい声が響いた。
その正体は、薔薇色の髪を揺らす無邪気な少女。
『ルミナ…』
あたしは彼女の名を呼んだ。
すると彼女はどこか満足そうに顔を綻ばせた。
ルミナ…。
さっき、ユスナーンでライトとスノウの衝突に水を差した…混沌と共に在る女の子。
あたしは彼女を見たのは、あれが初めてでは無かった。
『ふふ、ナマエ元気〜?』
『うん、別にしょげたりはしてないよ』
『本当〜?どうだかな〜』
ひょうひょうと喋り、くるくると踊る様に歩く。
今、あたしとルミナがいるこの場所。
ここは、あたしの心の中。
初めて会った時、ルミナはそう教えてくれた。
ルミナと出会ったのは、多分ちょっと昔のこと。
正確な時間はよくわからないけど、あたしが目覚める少し前。
今から10年も満たないくらいだと思う。
《こんにちは、ナマエ!》
初めて会った時、いきなりそう元気に言われた。
最初は、夢だと思った。
いや、まあ…目覚める前の事だから、あながちそれも間違っていないのかもしれない。
でも、そう思ったのは彼女の容姿にあった。
薔薇色の髪…。
サイドに、ハーフアップで束ねたスタイル。
それは、あたしの2度目の旅の終わり…あの時、命を落とした…あたしの親友、セラにそっくりだったから。
眠るあたしの心に突然入ってきたルミナ。
何者かはわからない。
でも、あたしは彼女が嫌いでは無かった。
長い長い眠りの中、たまに現れる存在だった。
だけど目覚めて意識がある今でも、こうして気まぐれに現れる。
あれからもう何度目か。
彼女は時折あたしの心に来ては、他愛ない話をしていく。
今日も同じだ。
そう、こんな風に、ね。
『相変わらず、ナマエの心の中は居心地いいなあ。な〜んか居座りたくなっちゃう』
『それは、喜んでいいのかなあ…?』
『うん。褒めてるよ〜。心は混沌、女神が人に与えた贈り物。でも、ナマエの心は女神の贈り物じゃないのよ』
『…あたしは、この世界の人間じゃないからね』
『そうね!性質はほとんど変わらない瓜二つのモノだけど、でも、違うモノ。だけどきっと、その中でもちょっと特殊だったのよ。女神が干渉出来る程、深い深い何かがあった。だから女神はナマエの心に魅入り、貴女をこの世界に呼んで、そしてこの世界の心を与えたの。この世界の混沌を、ナマエの心と混ぜ合わせたのよ。だから今は、まあ女神の贈り物と言えなくもないのか。ふふ、にしたって凄い特別よね〜!』
『…って、言われても…全然実感ないけどね』
多分、それなりに仲は良かったと思う。
あたしはルミナが好きだったし、ルミナもあたしを嫌っている様子は…多分無かった。
そしてルミナはこうして混沌や心のことなんかを、あたしによく教えてくれていた。
なんでそんな事知ってるのかって、凄く不思議だったけど…でもいつもくるくるはぐらかしちゃうから、いつしか素直に飲み込むことの方が増えてた。
あたしは元の世界の心を持っていた。
そして更に、そこに女神が心を授けてくれた。
まるで実感はない。
何が変わったのかと言われれば、何も…としか言えない。
だけどそれが女神があたしにくれた力のひとつのようだった。
ひとつ、というのは授けてくれた力がそれだけというわけでは無いからで、例えばゲートをくぐり時を越えられた力…あれも女神がくれた力なのだという。
まだ、他にもあるのかもしれないけど、その辺りははっきりしない。
これらのことは、全てルミナが教えてくれたことだった。
『と・こ・ろ・で〜…やーっぱちょっと元気なかったりするでしょ〜?』
『なんでよ、そう見える?』
『え〜?だって、憧れのライトさんと愛しのホープくんは心が欠落してしまってる。ああ、あの大切な思い出の感情も失ってしまったというの…!?みたいな〜?』
『なにその大袈裟な演技。ああ、でも、そーゆーことね…』
言われて、少し納得した。
別に、肉体的には元気だから。
精神的にも別に疲れてるってことは無いけど、まあ…その話に関しては、ちょっと気になるのは確かだった。
『ナマエの心は、どこも欠落してないからね。ちょっとふたりと噛み合わない事もあるかもね』
『神様、なんであたしを箱舟に置いてるくせに、あたしだけ感情奪わなかったのかな?』
『…さあねえ〜?』
なんとも中途半端。
だけど、ルミナはそれだけ言うとぴょんっと跳ねてどこかに消えてしまった。
…あいつめ。
言いたいことだけ言って、いつだって自由な子だ。
「ナマエ?」
目を開く。
すると、白い部屋の中でホープがあたしの顔を心配そうに見ていた。
「どうしたの?…具合、悪いとか?」
「ううん。平気。ちょーっとぼんやりしてただけ」
なんでもない、とあたしはホープに笑った。
それを見るとホープは頷いてくれ、そして目の前のモニターに視線を戻した。
「もうすぐライトさんを乗せた列車が街に到着するよ」
「うん。ルクセリオ、か…」
あたしもホープと一緒にモニターを見上げた。
光都ルクセリオ。
さあ、この街では…どんな魂が嘆いているのだろう。
…もう、後悔はしたくないよ。
あたしは胸に手を当て、この旅の終わりにはどうか幸福がある様にと…そう、願っていた。
To be continued
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