捲りあげた布。
僕は、着せられたパージ服をバサッ…と脱ぎ捨てた。
目の前に映る光景を見つめていると、傍で涙を含んだ声が聞こえた。
「…母さん…」
「大丈夫、大丈夫よ…」
ぽろぽろと涙を流す子どもと、その肩に手を置いて優しい声で慰める母親。
僕はその様子を、ただ…じっと見ていた。
そして…さっき目の前にした光景が過って心が呟いた。
…母さん…と。
ちょうど、その時だった。
傍でパサ…と、さっきの僕と同じようにパージ服を脱ぎ捨てる音を聞いた。
自然とそちらに目を向けると、フードに覆われていた顔が…見えた。
はー…と息を吐きながら、乱れた落ち着いた色合いの髪を整える女の人。
彼女はすぐに僕の目線に気が付いた。
何故だかわからないけど、僕の顔を見て一瞬目を見開いた気がする。
…でもすぐに微笑んでくれた。
瞳と瞳が、初めてちゃんとぶつかった。
「あ、えっと…やっほ、ホープ?」
「…ナマエ、さん…」
優しく僕に笑う。
それは…さっきたまたま隣り合わせて、ひとりきりだったのを気にした母さんが声を掛けた女の人。
おそらく、僕より少しだけ年上。
戸惑う僕の心を汲んで、背中を押して、一緒にいると言ってくれた人。
そんな彼女の顔が、初めてちゃんと見えた。
柔らかい表情で、良い印象を与える雰囲気。
微笑むその顔に…少しだけ、心臓が鳴ったのを感じた。
「あ、えっと…どっか痛いとことか、ないかな?」
「え、いえ…僕は大丈夫です」
「そっか。よかった」
気遣いをくれて、軽く話す。
するとまた…パサリと音がした。
僕とナマエさんがそちらを向くと、明るい髪を二つに束ねた女の人がいた。
それはもうひとり…ナマエさんと一緒に、僕についてきてくれた人。彼女もまた、僕たちに微笑んだ。
そして僕に歩み寄ってくる。
手を伸ばされて…そっと抱きしめられた。
え…っ
突然で僕は驚いた。
視界の端で、ナマエさんも少し驚いた顔をしていたのが見えた。
「リアルが、辛い?」
抱きしめられたまま、そう聞かれる。
ぽんぽん…と優しく頭を撫でられて、すぐにそっと解放された。
そして最後に一言。
「逃げても良いの」
「えっ…」
一言そう残し、不思議がる僕とナマエさんを残して…彼女は「じゃあね!」と手を振り、走って行った。
まるで風の様で、取り残された僕たちは少しだけ呆気にとられる。
だけどナマエさんは、最初こそ少し戸惑っていたけどすぐに先を見つめた。
「ええと…、とりあえず…追いかけて、みる…?」
「え?」
「うん…そうしよっか!」
「え!」
ナマエさんまで彼女を追って走り出してしまった。
「あ、待って!」
僕にはひとりになる勇気なんかない。
だから僕も慌てて駆け出した。
するとナマエさんは、僕の声に反応して一度振り返って足を止めてくれた。
「早く!行こう!」
「は、はい!」
そして僕が追いついたところで一緒に走り出した。
この時の僕は…きっと、この人の事を…心のどこかで頼りにしていたんだと、思う。
「あ。あれって?」
しばらく走って例の彼女に追いつくとナマエさんはその先に見えたひとつの集団を指さした。
その集団の中の一人。
エアバイクに乗る男を見つけた瞬間…僕は自分の中で、何かが沸き立つのを感じた。
「…あいつだ」
低く、呟いた。
あいつだった。
さっき、あいつが…母さんを乗せて…手を、放した。
確か名前は…スノウ。
「…ホープ?」
ナマエさんが僕にそっと声を掛けた。
一方で、もうひとりの彼女も。
「言いたいこと、あるんじゃないの?」
そう聞かれ、僕は頷いた。
それを見ると後押しするかのように、聞いてきた彼女は明るく手を握りしめた。
「じゃ、行こう!」
「え?!」
その言葉に声が上がった。
でも声を上げたのは、僕じゃなくてナマエさん。
ナマエさんは、目を瞬かせスノウと僕を見比べた。
「行こうって…、彼に?」
「……。」
僕を見つめるナマエさんの視線を感じながら、僕はまっすぐ奴を見ていた。
…正直、言いたいことは…あった。
だって…あいつと、あいつが束ねる…ノラというグループ。
それが無かったら、母さんは…。
でも、そう思うけど…煮え切らない。
進む勇気がなくて、僕は自分の手を握りしめ震わせた。
「手伝おうか?」
そんな僕に、差しのべられた言葉。
行こうと言った彼女だ。
僕は、変わらず…スノウを見つめていた。
だってあいつ、笑ってるんだ。
仲間同士で小突きあって、…笑ってる。
「ほらっ!」
「うわあ!」
その時、どん、と背中を勢いよく押された。
いきなりでバランスを崩しながら前のめりに足を踏み出す形になった。
でもそれ以上、進むことが出来なくて…僕は何度も深呼吸を繰り返していた。
すると二つ縛りの彼女の「はあ…」という声が聞こえ、痺れを切らしたようにあいつらに向かって呼びかけた。
「おーい!」
明るい声。だけど、響いたそれはあいつが発進させたエアバイクのエンジン音によってかき消されてしまった。
キイン…、と響いた耳鳴りに近い音。
僕たちは思わず耳を押さえた。
そうしている間に、エアバイクは空に浮かんで…異跡に向かって飛んで行ってしまった。
「あー!もうっ!」
飛んでいくエアバイクに、頬を膨らませる彼女。
「…行っちゃった…ね」
「……。」
そう言いながら視線でエアバイクを追うナマエさんの隣で僕は歯を食いしばって、キッとエアバイクを睨んだ。
その理由は、さっき聞こえたあいつらの会話にあった。
だって…あいつらの会話、なんだよ…。
…嫁さん?式のご予定…?
なんだよ…。なんなんだよ…それ!
そう思わずに、いられるわけ…ないじゃないか。
目の奥が無性に熱くなって、行き場の無い怒りが沸いた。
「ホープ…手、少し力抜こうよ?」
「え…?」
飛び去るエアバイクを「待てー!」と二つ縛りの彼女が走って追いかけていく。
そんな中、ナマエさんは僕の心とはまるで正反対の優しい声色でそう言った。
言われて初めて、僕は今だ拳を握りっぱなしだったことに気がついた。
「…言いたいこと、あるの?」
「……。」
「…とりあえず、また、追っかける…?」
助長も、止めもしない。
ナマエさんは一度だけ僕のそう聞くと、走っていく彼女を追う様に歩き出した。
僕もまた、それに合わせて足を動かした。
辿り着いたのは、さっきあいつが乗って行ったのと同じ型のエアバイクの前。
彼女はエアバイクを前に「うーん」と首をひねっていた。
ナマエさんはそんな彼女の隣に立って一緒にエアバイクを覗き込んだ。
「あ。コレ、さっき飛んでたよね?凄いね。どうなってるの?」
「ね。どうやって動かすのかなあ?」
ナマエさんが感心気味にエアバイクに触れると、2人はエアバイクについての話し始めた。
僕は、その様子をぼんやり見ながら…、小さく呟いた。
「あいつに言いたいけど…」
そう言うと、2人は僕に振り返った。
少しだけ流れた沈黙。
破ったのは、二つ縛りの彼女。
「ねえ、コレ飛ばせる?」
彼女はエアバイクを指さし、僕に聞いてきた。
「……たぶん」
運転なんかしたことない。
でも、なんとなくはわかる気がする。
僕がおずっと頷くと彼女は急にぱあっとした笑顔を見せた。
「やったあ!」
大袈裟なくらいに喜ぶ彼女。
その様子に僕とナマエさんは目を瞬く。
だけどそんなのお構いなしに、彼女は僕たちの背をエアバイクに向かって押した。
「それ!」
「ええ?!」
「うわ!」
僕とナマエさんは無理矢理エアバイクに押し込まれた。
僕が一番前。ナマエさんがその後ろに。
僕らを乗せた後で、彼女もまた一番後ろに乗り込んでくる。
本来3人でなんか乗るように出来てない席は勿論ぎゅうぎゅう詰め。
「あっち!」
でも相変わらず、乗せた当の本人はそんなの全然気にしていない。
むしろ明るく異跡を指さている。
そしてあろうことか発進に備えるように僕らの腰に腕を回してきた。
「え!?ちょっ…き、きつい…!」
「…っ…!」
それによって、更に距離は縮まった。
前後で体が密着してる状態。
つまり僕の背中には…ナマエさんがいる。
耳元に、ナマエさんの距離が直接響いてきた。
背中に、完全に密着してる…。
というか…、その…あたってる…。
ちょ…えええええええ…っ!
あまりの近さに正直、頭が真っ白になって、どうしていいかわからなくなった。
最も、気にしてるのは僕くらいでナマエさんは窮屈さを訴えている。
すぐに「ちょっとの辛抱!我慢我慢!」なんて返されてたけど…。
それにはっとして、僕はすぐに頭を振った。
だって、そんなこと…考えてる場合じゃないだろ…。
…異跡に向かえ、そう言われてるんだから。
「異跡に入ったら…パルスの、ルシにされるかも…」
我に返ったら湧いてきた不安を溢した。
パルスのルシ。パルスは地獄。
ルシはおとぎ話みたいなものだ。
でも…もしも本当にルシにされてしまったら…。
「…パルスの、ルシ?」
ナマエさんに聞き返された。
僕は頷いた。
いくらあいつが異跡にいるからって、ルシにされてしまったら。
そう考えたら、怖気づいた。
「やっぱり僕…!」
やっぱり降りようと振り向いたら、二つ結びの女の人に腕を掴まれた。
「よろしく!」
そしてそのまま、ハンドルを握らされた。
その時、怒鳴り声が響いてきた。
「何やってんだ!」
その声に全員で振り向く。
そこにいたのはノラのメンバーの大柄な男。
勝手にエアバイクを動かそうとしていた事に気がついて、こっちに走ってくる。
「うわ!?ちょ、凄い剣幕でこっち来る…!」
「…っ行きます!!」
ナマエさんの慌てた声が聞こえた。
僕はそれに触発されて、ぐっとハンドルを握りしめた。
ガクン、と大きく揺れる機体。
不安定に飛び上がって、バランスがうまくとれない。
「っ…ホープッ…!」
大きな揺れに、僕の腰に回ったナマエさんの手の力がこもったのを感じた。
そんなの感じたら、ここで放すわけになんかいかなくなって。
だから必死になってハンドルを掴む手に力を込めた。
何度も揺れを繰り返す。
でも繰り返す事にちょっとずつハンドルが安定してきた。
コツがわかって機体も上手く保てるようになる。
「…ホープ…慣れてきた?」
「なんとか…」
ナマエさんも安定してきたのがわかったんだろう。
聞かれて僕が頷けば、安堵したようにほっと息をついた。
…降りても、待ってるのは咎めだけ。
ここまで来たら、行くしかないのかもしれない…。
僕はハンドルを倒し、異跡にへと機体を飛ばした。
To be continued
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