魔法より強く 9







服を脱いだ。下着も脱いだ。見て、とまで言った。
そのうえで、「そういうふうには見られない」と誠実に告げられてしまえば、あとはもうできることなんてなかった。
心もからだも、なにひとつ隠さないで差し出した。それを、受け取れないと言われた。

生命の薔薇をわしづかんでもぎ取るレベルの勇気を振り絞った作戦の結果は、10才の時の「恋人になって」以上のダメージをイヴに与える結果となった。玉砕以上の玉砕だった。
雨のなか、彼女の魔法使いは行ってしまった。せめてギャリーが家路につくまでは激しく降らないでと願った。
使用人が食器を片付けたあとの部屋で、イヴはのろのろとベッドに潜り込んだ。
このまま消えたい。なにもかもなかったことにしたい。
優しい彼に無理を言って困らせた。逃げ場もなくして追いつめた。あんなに悲しい目をさせてしまった。
イヴを傷つけたと思いこんだだろう。もちろんそれはそうだったけれど、そのことこそがなによりも彼を苦しめたはずなのだ。
償える方法を考えた。イヴの罪を償い、彼を自由にしてやれる方法。
そして思い至った。もう、なにもかもを断ち切って、遠いところ、もどれないところに行こうと。
(どこでもいい。どこか遠い街に行こう)
なにもかもわたしの色と欲のせい。彼が手に入らないのならば、それならば、せめて遠くへ。
一度思いつくと、それが最善のような気がしてきた。
暴風が屋敷を殴り続ける三日間、イヴは覚悟を静かに固め続けた。


嵐が過ぎ去って大きな虹の出た朝だった。
そしてその日は、イヴの二十歳の誕生日だった。
両親は飛行機の関係で帰宅が遅れることを詫びてきたが、沈んだ顔を見られずにすんで安心した。
(……メールが来ない)
誕生日を祝うメールをいくつも受け取る携帯を見つめて朝を過ごした。ギャリーからの祝いのメールが来ない。
あれだけのことがありながらも、それでもやっぱり何か送ってきてくれるんじゃないかと思っていた。定型文めいた一言すらなくて、それが彼の気持ちだと思うとあの夜の自分を消してしまいたかった。
(もう、わたしになんか、関わりたくないんだ。それがギャリーの答えなんだ)
玄関に、誕生日プレゼントの箱がいくつも届いた。その中には、あの嵐のはじまりの日より前にギャリーが送ったらしい箱がひとつ。
開けてみると、華奢でなんとも優美な赤いエナメルの靴が入っていた。それと、青い薔薇の絵のメッセージカード。
『またひとつ大人になったかわいいイヴへ、愛を込めて』

その靴を履いて外へ出た。靴はイヴの足にあわせて作ったかのようにぴったりだった。いつもはくより少し高いヒール。
何を考えてこれを選んでくれたんだろうと虹を見上げて涙ぐんだ。

街をいちばん見渡せる場所に向かった。坂の上の、石橋の上。
ギャリーと離れる。この街とも離れる。離れよう。離れなければ。
(ふたりで、いろんなところに行ったなあ……公園、図書館、美術館、喫茶店、カフェ、それから)
ひとつひとつの建物は、雨上がりの空の下でどれもよく見えた。
この10年は、なんだったんだろう。
与えられつづけて、それでも手に入れたいものがあって、手に入らなくて。でもそれでいい、課程が尊い、なんておりこうなことも言えない。むなしい。かなしい。届かなかったものの行く先が見つからない。
お見合い、という言葉が浮かぶ。イヴは社交界にも出ていたし、縁談の話もいくつかあった。だがそれらはいつも両親がうまくかわしていたので、イヴが直接断ることはなかった。
きっと誰かと結婚すると突然言い出せば両親は訝しむだろう。そして何があったのかとギャリーに尋ねにいくのだ。
彼らははっきりとギャリーにそれを告げることはなかったけれど、何故かイヴの片想いにとても肯定的だった。
ギャリーがイヴの手をとらなかったのだなんて聞いたら、もしかすると、彼におかしな依頼をしてしまうかもしれない。
彼が断るのならば、まだいい。嫌な思いをさせてしまうだろう。万一にも断らないならば、もっと辛い。
だから、お見合いはダメだな、と結論づけた。どうせ彼でない人を愛せるわけがない。
広い空を一話きりの大きな鳥が飛んでゆく。
(たとえば修道院とか、どうだろう)
突飛な考えだったが、思えば思うほど正しい気がした。
欲深い自分だ。なら、俗世と隔離されて禁欲的な身分になるのもいいかもしれない。
誰かが階段を登ってきた足音がした。浸りたいから早く通り過ぎてくれないかな、と思った。
足音は、橋の手前から動かない。こちらをじっと見ている気配もする。
苛立ちながら、そちらを見た。


はじめは、からかっているのかと思った。ギャリーは、まるでイヴと初めて出会ったかのように振る舞ってくる。あげく、口説いてきた。
けれどからかっているにしては徹底しすぎているし、なにより、触れ方がまるで違う。このところイヴに見せていたような線をひいたものでもなく、ちいさなころに与えてくれたものとも違う。男が女に触れる手だ。その手をとってもいいのか、迷って、悩んだ。
けれど迷いなんて形だけのものだった。ずっとずっと欲しかったものを浴びせられつづけて、どうして拒みきれるだろう。
「彼」は、強引だった。イヴのためらいもとまどいも知りながら奪って、押しつけてきた。
いやらしいことをたくさんした。そのぜんぶがうれしくてしかたなかった。思っているのだと、けれど耐えられないのだと向けられる欲望が心地よかった。とても価値のある存在になれた気がした。
ずっと知っていた「保護者」のギャリーとは少しだけ様子が違って戸惑ったけれど、よくよく観察してみれば、彼はやっぱり彼だった。相手が変われば態度が変わるのは当然だ。イヴ自身はなにも変わっていないが、彼の目に映るイヴは大人の女なのだ。
ケーキの好みも、本や映画の好みもすべてそのままのギャリーだった。

どんな奇跡が起きてしまったのか、イヴにはわからない。心当たりは一つだけ。「全部忘れて、お願い」と言った。
ギャリーはどんな願いもイヴのために叶えてみせると言ったし、そうしてきた。
(だから?だから本当に?)
ひとの記憶は都合良く書き変わるものだということをイヴは知っていた。深海の美術館。青い人形。赤い目のうさぎ。
ギャリーはイヴのこともイヴの両親のこともすべて忘れた。両親には「そういうゲームをしている」という、苦しい言い訳をした。
正しくないかもしれない、という意識はずっとあった。ずっと迷っていた。
それでも、唇に胸に触れる手と肌に、「これでいいじゃない」と流された。ギャリーは、イヴのために忘れたのだから。それをだいなしにすることなんてない。
(魔法使いはもういない)
ずっとイヴを守ってくれたすみれ色の髪の人。彼は消えてしまったけれど、かわりに恋人が現れた。だからそれでいいはずだった。



ギャリーは完全に、完璧に忘れていた。ふたりのつながりを示すものをイヴが隠すまでもなく、それらの情報はすべて彼の意識に届かないらしいのだ。
思い出でいっぱいの彼の部屋も、この街の記憶も。
携帯の番号とメールアドレスを教えて、と言われた。当然だろう。それを「まだオトモダチだから」という理由にもなっていない理由で断った。
彼の携帯にはもちろんイヴの情報がすべて入力されて、電話帳のゼロ番に登録されているのを知っていた。
今あらためて同じ番号を教えた場合、どうなるのか?それを試す気にはなれなかった。


「やったねイヴ!すごいすごい!」
「おめでとう!」
学友たちは祝福してくれた。ミートパイの店でべったりとくっついて入店したときに接客したのは、色仕掛けうんぬんと言いだした彼女である。そこから友人たちに知れ渡るのは当然のことだった。
「あ、ありがとう……」
「で、したの?色仕掛け」
した。が、その結果は最悪であったといえる。
「……でも結局あれが原因だったってことなのかな……」
なになに、と勢い込んでくる友人たちに苦笑いしか返せないイヴである。相当すごいことをしたに違いない、という確信を彼女たちに抱かせた。

「イヴのしたいようにすればいいわ。わたしはなにも言わないから」
ギャリーさんに、娘の秘密を勝手にしゃべっちゃいけませんって言われたことがあるの。
母はそう言って、寂しげに笑った。

父は気のおけない遊び相手を失ってうなだれていた。
「また、時間をかければギャリー君は僕とも仲良くしてくれるかな」
寂しさを埋めるように彼は仕事を増やした。悪いことをしたと思う反面、やっぱり仲が良すぎる気がした。



ギャリーの情報の遮断は徹底していた。イヴが振り返ることさえしなければ、二人はそのまま幸せな恋人どうしでいられただろう。彼は、イヴの同意は求めるけれど意見はろくに求めずにたくさん振り回してきた。甘えぐせが案外強かった。知っている人なのにまるで違う人で、うまく返せないことをはがゆく思うことはあっても、やっぱりうれしくはあった。
それでも歪みが起きはじめたのは、やっぱりイヴのせいだった。

「忘れられない誰かがいるんでしょう」
彼は言った。そうだと答えた。10年間、守ってくれた、なんでもかなえてくれた、ずっと想っていた人がいた。
言葉にすると、それは目の前の彼の別人だという思いが強くなってしまった。優しい彼に、もう一度会いたいと思った。
けれどそうすれば、イヴは恋人を失うことになるだろう。


右に左に揺れる振り子の日々だった。欲しかったものを与えられながら、それでも足りないとあがく欲深さに泣いた。
秘密を抱え続けることに疲れはてた。「魔法使い」(10年分の彼のことをそう呼ぶことにも慣れていた)を思うあまり、このままでは「恋人」の彼も傷つけつづけてしまう。
ついにマグカップをきっかけにして、写真を見せた。けれど突きつけたにもかかわらず、彼はその被写体を認識しなかった。
とんでもないことをしてしまったのだと改めて思い知らされた。心を書き換えてしまった。
彼は歪んだ記憶の上になりたつ恋人だった。欠けたパズルのようだった。
(やっぱり、こんなの間違ってる。全部はなそう。それでわたしが、ギャリーの全部を失うことになったって)


そうして、彼は全てを思い出した。思い出させた。
許せないと憎まれたってかまわなかったが、彼はそれをしないだろう。イヴに憎しみをむけるくらいならば自分を憎むだろう。
目覚めた彼は、「魔法使い」にも「恋人」にも見えた。それは一言話すごとに、しぐさひとつのたびに切り替わるようでもあった。恋人のような目でイヴを見たかと思えば魔法使いのように線を引いた。
それでも、戻ってきたことに安堵した。彼に罪の意識を抱かせてしまった、ひどいことをした事実は残るが、部屋の全てを、写真を認識できるようになっていた。
このまま恋人でいようとギャリーは言ってくれた。
けれどその瞳に、恋人が持っていた熱が消えているのをイヴは見た。
優しい人。どこまでもイヴに優しい人だ。
でも、優しさだけではもう耐えられない。
だからさよならと言った。恋人の強引な手はひきとめなかった。

「……ギャリー」
苦しんでいる、だろうか。
そうでないわけがない。
ずっと妹のように大事にしていた女の子に、一度は裸を見てすら断った、彼のちいさな女の子に、言い寄って言い寄って、何度も抱いた。
(……)
思い出してしまった。いつも少しだけいじわるなところがあったけれど、それがまた。
(……だから、そうじゃなくて)
脱がせるのが上手かった。触れるのも。けれどそれだけじゃなくて、イヴのことを、好きで好きでしかたないのだと指先から肌に伝えてきた。堅くて長い指が肌に沈むように愛撫されるのも、
「だから……もう……」
愛された記憶を思い出す体に、イヴは深い吐息をついた。
しばらくは、思い出してしまうのだろう。それでも離れればいつかは忘れるだろう。
彼のように、魔法のようにはそうなれなくても、いっしょに過ごした時間とおなじだけ一人ですごせば、きっと歩いていける。
思い出だらけのこの街を離れれば、心だって、体だって、彼のことを「昔あったなにか」に変えてしまえるだろう。



いつものバーだ。
花の蓄音機が、今夜は甘いピアノの声で歌っている。
ギャリーは携帯を見ていた。ここでそうするのは珍しい。
電話帳のゼロ番にイヴのアドレス。あれほどほしがったものは、ずっとそこにあった。
誕生日を祝いそびれた。大事な二十歳の誕生日。
(というか……二十歳だったのね…… 「恋人」のアタシは、「彼女」のこと、25、6だと思ってた……)
データフォルダには写真もメールのやりとりもたくさん詰まっていた。もちろん10年分のすべてではないが、思い出のものはいくつか保護をかけてそこにある。
写真に主観は入らない。だから、9才と19才の彼女の写真を交互に見れば、今の彼女が大人の女であることは一目で知れた。実年齢より大人びているようではあるが。それはもともとそうだったのかもしれないし、ギャリーに追いつこうとした結果だったかもしれない。
(アタシは……彼女を、イヴを)
どう思ってきたのか、どう思っているのか、これからどうしたいのか。
考えて、考えすぎて、また熱が出て寝込むところだった。
けれど彼がどんな結論を出したってもう遅い。
彼女はあれほどの勇気を見せたというのに、逃げ続けた報いがこれだ。
イヴは穏やかに「さよなら」と言った。それがすべてだ。
すこし離れた席に、どこか初々しさのあるカップルが座っていた。
帰るとか、帰らないとか、そんなことをささやきあっている。
かわいいものだ。はじまったばかりの二人には、絡むものなどなにもないのだろう。
「やあ、こんばんは」
ドアベルが鳴って、男が入ってきた。橋の上でイヴと出会った日に出会った、チェス好きの男。身なりのいい壮年。先日は走ってギャリーを追いかけたが、結局ギャリーにまかれた。
「おや、元気が無いね。さては恋人となにかあったのかい?」
「……あんたって人は」
今や彼のことも全て思い出した。
「あんたの前で娘との交際がどうとか、べらべらしゃべれるわけがないでしょう」
「しゃべってたじゃないか」
「あれは、忘れてたからです」
珈琲に似た髪、穏やかな物腰。オーダーメイドのスーツに銀色の指輪、かすかに香るトワレは某高級ブランドのそれだが、まったくもって嫌みがなくそれらすべてを当然のものとして身につけている。
彼は、イヴの父親だ。
10年間、イヴと同じだけつきあってきた。はじめこそ娘に近づいている怪しい男、大事な友人のお父様、という壁があった。だがお互いそれまでの人生にいなかったタイプだったということもあり、二人は一度仲良くなれば意気投合した。彼の妻とイヴが妬いてしまうほど。
この店は彼のお気に入りだった。あまり人に教えたくないんだけど、と連れてきてくれたのはもう随分と昔だ。
「はは、うん。そうだね、見事に忘れてた」
マスターは彼の注文を受けると、チェス盤をカウンターに置いた。それはギャリーがかつて持ち込んだ盤だ。いつも車から店に盤を運び込んできたイヴの父親に、「じゃあここに置いてもらいましょうよ」と古美術店で見繕って買ってきたのだ。
初めてそれを見たときに彼はとても喜んだ。プレゼントへの喜び方がイヴに似ていると思ったものだった。
「チェスも思いだしたんだろう?打とうじゃないか」
「……ごめんなさい、今はそんな気分になれなくて」
「落ち込んでいるときほどチェスだよ」
「その理屈全然わかんない」
いやだと言ったのに、彼は駒を並べてゆく。
「あの子はずっと、君の恋人になるんだって言っていて、まあね、イヴが小さいころにはいろいろと考えもしたけれど」
ナイトの駒を手に、彼は笑った。
「僕も妻も、イヴの自主性を大切にしようってことになったんだよね。親より保護者らしい保護者というか、ナイトがいたものだから、自然と夫婦はそういう教育方針になってしまったというか」
「……ナイトなんて、そんないいものだったかしら」
ポーンがナイト気取りでうろうろしていただけのように思えて、ギャリーはナイトの駒をグラスの底で倒した。父親がそれを起こした。
「そういえば、お父様。あなたマスターに口止めしたわね?アタシがあなたたち親子を忘れてるってこと」
「してないよ。ねえマスター?」
「はい、されておりません。お客様のプライバシーを詮索しないのは、我々の仕事の基本です」
「ふーん……」
それならば、マスターはずいぶんと奇妙な会話を眼前で見せつけられつづけただろう。イヴという女性と出会った、など。よく耐えていたものだ。イヴはこの店に訪れたことこそ無いが、ギャリーと父親がさんざん噂をしていた。一番の共通の話題であったし、二人して「天使」と呼んでいた。
「僕と妻は、ギャリーくんとそういうゲームをしているんだとイヴに聞かされてたんだ。忘れたふりをしているって。協力してくれって」
どうも本当に忘れているらしいっていうのは、ここで話したときにわかったんだけどね、と続ける。
「ゲームが終わった、と僕らに言ったときのイヴの顔を見たら、君もこんなところで携帯ながめてられないと思うよ」
ばつが悪くなって、ギャリーはもてあそんでいた携帯をしまう。ちょうど駒も並べおわったようだった。
「さ、始めようか」
「だから、そんな気分じゃないって言ってるじゃないですか」
「言ったっけ?まあいいじゃないか。いやー、このところイヴの外泊多かったなー」
「う……そ、そんなには」
「ちゃんと帰ってきた日もそりゃ多かったけどあきらかにシャワー浴びてきましたって感じだったなー」
「…………す……すみませ……」
「今もなんだか思いつめた顔をしてるけど荷造りしてるんだよなー。僕も妻もイヴの自主性を大事にする方針だから止めないけどー」
「……え?」
ずっと父親と目を合わせられずにいたギャリーが、はじめてそちらを見た。
(荷造り?どこに?)
思い返す。イヴの行こうとする場所の心当たり。
「……修道院!?」
勢いをつけて立ち上がる。駒のいくつかがまた倒れたので父親がちまちまと並べなおしはじめた。
いつか、橋の上で「出会った」日に言っていた。修道院に行こうかと思っていた、と。そのときは面白い子だと好奇心を持っただけだったが、嵐の前の夜のことを思えば、すこし飛躍しすぎた極端な発想だがつなぎあわせられなくもない。
「修道院……? なんだいそれは」
「え?そうじゃなくて?」
「一週間ほど旅行に出るとは言ってたけど、まさか修道院ってそんな、いくらなんでも」
「そ……そう、そうよね、そうですよね、やだアタシったら」
「うーん…… いや、でも考えられなくもないな……僕と妻に黙って修道女になるつもりなのかも。あの子ならやりかねない」
「ちょ、っと、イヴ! 早まっちゃだめイヴー!!」
駆け出そうとするギャリーのシャツの背をひっぱって父親が止める。
「まあいいじゃないか、どうせ出発は明日以降だし。僕らだって久々に再会したんだから積もる話もあるし」
「再会、って」
肩越しに振り返って、ギャリーは何かを言い返そうとして、そうして結局やめた。おとなしく元通りスツールに座りなおした。
「……イヴは、どうしてるんです」
あらゆる意味で卑怯だと思いながらぼそぼそとした声で尋ねる。
「毎晩泣いてるね」
「う……!」
なぜか脳裏に、額の中の青い花びらが散るイメージが浮かんだ。右下の数字が減った。
「「はじめまして」って君がご挨拶に来るわイヴは思い詰めた顔をしてるわで妻は気が気じゃなかったようだよ」
「……その節は……本当に……」
「で、君はこれからどうするんだね」
とたん、店内を蓄音機の唄だけが満たした。ちょうどカップルたちの会話も途切れたところだった。おかしな沈黙になった。
「どう、って……どうって、イヴのしたいようにするまでで……イヴがさよならって言ったからには、さよならかなって……
いろいろ、絡まりすぎたから……」
もう彼女の魔法使いには戻れない。イヴは願うだけの存在ではなくなったから。
全てを忘れていたころのような恋人にだってなれない。あのときのように奔放に、捧げて、押しつけることは、守り続けてきた月日を思い出した今となってはできない。
離れたいわけではない。それは絶対に違う。
ただ、今の彼女になにを与えてやれるのかがわからないのだ。
父親は小さな子供にむけるような呆れたため息をついた。
「まったく自主性に欠けるな、ギャリー君は。イヴのほうが能動的だぞ」
「すみません……性分で」
まあ、性格だししかたないよなあ、と父親はうなずいた。全部忘れても結局、ギャリー君はギャリー君だったなあ、と。
「君は「お願い」がなきゃなにもできないのか?」
「性分でして」
「イヴは泣いてるぞ」
片方だけ見えている目から、ギャリーへ衝撃を与えることに成功したことを読みとった男は満足げだ。
「ものわかりのいいふりが得意な子だった。お願い、なんて、僕らにはしてくれなかった。君と出会うまでずっと。
出会ってからも、たぶんそうだったんだな。ギャリー君がうまく引きだしてやっていただけで」
離れた席のカップル達は、ささやきあいながらグラスを傾けている。
「一度くらい、君の「お願い」をあの子に押しつけてみたらどうだい。大丈夫、イヴは君のお願いならなんでも聞いてくれるだろうから」
イヴに「お願い」をしてみる、という考えの新鮮さにギャリーは少し呆然とした。
(アタシそういえばイヴに「お願い」したことなんて、一度も無い…… うん? あれ?)
ざっと思い返してみる。「恋人」をしていた間のことを。
「一緒に喫茶店行きましょう」「携帯の番号教えて」「うちに来て」「帰らないで」「メールしたい」「ケーキ食べさせて」「イヴのほうからキスしてほしい」「一緒にシャワー浴びたい」「一度でいいからチャイナ服着てくださいお願いします」
(あ…… あれー……?)
なんだかんだと要求していた。勝手に物事を進めたりもしていたし結果的に甘やかされたりもしていた。
あれらはつまり、「お願い」だったのだろうか。
そしてさらに思い至った。お願いを叶えられ続けていた間、どんな気持ちだったのかを。
こちらがしたいこと、してほしいことを述べて、相手がそれに応えるだけのもの関係。それはとても一方的だった。自分ばかりが彼女を好きでいる気がして、そうではないのだと確認したくてもっといろいろなものを投げて、それが返ってくることで安心していた。
それでも彼女は遠い河をながめていて、彼へなにかが返ってくるのはこちらが投げたときだけで。
どれだけ水を入れても満ちない花瓶のようだった。活けられた花はいつも飢えていた。愛されてはいるはずだと言い聞かせ続けながら。
「じゃ、ゲーム始めようかギャリー君」
「あのすいませんお父様、アタシ今なんか考えがまとまりそうな」
一方的。そうだ、それだ。ずっとそうしてきた。彼女の魔法使いとしての日々。彼がそうしたかったから。イヴにとってだって、悪くないだろうと自負もしていたのだ。
でも、イヴは何と言っていた?

『いっしょにいたかった。ギャリーが雨みたいにくれるきもちをわたしもかえしたかった、それを、受け取ってほしかった。
欲しかったんじゃないの、もらってほしかったの』

ガタン、と大きな音を立てて、もう一度ギャリーが立ち上がった。
「アタシ……やっぱり行かなきゃ」
「明日でいいじゃないか」
「でも」
「イヴの出発はどうせ明日だし」
「明日!?」
ならなおさら、と走りだそうとする彼のシャツのすそを、再度男はひっぱった。
「まあ明日の朝でも間に合うから。どうだい一局」
「今はそれより大事なことが、」
「僕に勝てたら、僕のいちばんたいせつなものをあげるよ」
いつかと同じことを彼は言った。そのときギャリーはとんでもない勘違いをして逃走したが、今はわかった。彼の一番たいせつなもの。
「……本人にきかないでそんなことしていいんですか」
「僕と妻はそれでいい、ってことで。あとはイヴに聞いてくれ」
走るそぶりは止めたが、座りもせずにギャリーは言った。
「アタシ……あなたに勝てたこと、一度もなかったでしょう?」
そうだ。何年も彼とチェスをしてきた。けれどいつも、一度も、勝ったことはなかった。
「そうだね。君は、僕に勝ってはいけないと思いこんでいたから。君は案外、ルールに厳格だ。誰も頼んでいないルールにね」
「そんな」
ただの実力差のはずだ。わざと負けていたつもりなんてない。だが男は静かに笑った。
「娘はそのルールを越えたがっていたし、僕は君の友人になりたいと思っていたんだよ」
まるで友人ではなかったかのように彼は言う。
「じゃあ、ゲームを始めようか。
君が勝ったら、僕のだいじなものをあげよう。
僕が勝ったら……そうだね。君を忘れてみようか」
ギャリーは男の顔をまじまじと見た。男は、あくまでなんでもないような顔をしている。
だが、これは。
(怒ってる…… いえ、そうじゃなくて)
つくづく、自分という人間の欠陥を思い知らされる。
きっと今までだって、そうだったのだ。
好意から逃げ続けてきた。誰よりもそれを欲しがりながら、対価となるものを差し出せる気がしなくて。
気付かなかっただけで、もっと、たくさん。捨てられているつもりで捨ててきた。
それはきっと彼ら親子だけではなかった。
臆病だった。どうしようもなく。
そして、もう逃げることは許されないのだと知った。守るために優しく離れるのでなく、踏み込んでいかなければならないのだ。その果てに混ざり合って、自分が自分でなくなるとしても。


あとは真剣勝負になったので、店内は静かになった。カップルたちは今夜の過ごし方を決めたらしく、少しだけ寄り添いながらつがいの鳥のように店を出た。
マスターは心中でこっそりと勝者の予測を立てたし、的中させもしたが、もちろん口にはしなかった。それが彼の仕事の基本だったので。





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mableはパパギャリを応援しています

2012/09/19
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