魔法より強く 8






目が覚めた。
よく知っている天井だ。
頭が熱い。こめかみが痛い。
(なにをしてたんだったかしら…… イヴの家から帰ってきた……? 料理を作ったからって、ご両親がいないけどって……そう、誕生日プレゼントを買ったんだったわ。でも三日も前だから持っていくには早いから、だから……ええと、雨に打たれて?いえ、違う)
ゆっくり起きあがる。額に乗せられていたタオルが落ちた。
ソファの上だった。ローテーブルに、イヴが伏せて眠っている。
窓から外を見れば、もうすっかり日が暮れていた。
床に倒れた彼を彼女がここまで運んでくれたのだろう。重労働だっただろうに。
「……イヴ」
知らず、名をつぶやいた。呼んだわけではなかった。だが彼女はゆっくりとまぶたを開けて、その柘榴色で彼を見た。それだけで、すべて悟ったらしかった。
「思い出した?ギャリー」
うなずいた。
10年の、ほとんどすべて。それを忘れて出会ってからのことも。

部屋の中が色彩を持ってうったえかけてきた。イヴの私物だけでなく、一緒に出かけた遊園地や、公園や、映画、そんなところで買ってきたもの。プレゼントされたもの。倒れるまで、それらはすべて道ばたの石のような存在だった。
イヴの手元に写真立てがある。今はギャリーも見ることができた。出会ったばかりのころに撮影したもので、ちいさなこどもが今より10才若いギャリーに抱き上げられて、二人で笑いあっている。撮影したのは、イヴの父親だった。
ぐらぐらする頭を押さえれば、イヴがあわてて近づいた。
「だ、大丈夫?」
「……さすがにちょっと負荷が大きいっていうか…… ええ、少し時間を置けば」
「うん……」
言ったこと、してしまったことに、めまいがする。知らず、大きなため息をついた。
イヴがこちらを見ている。
ほんの数時間前まで、謎めいた魅力の女性だった。絵画のなかから突然あらわれたような、星空のむこうからやってきたような存在だった。
だが今となっては、10年分の時間がヴェールのように何枚も重ねられ、その陰影は複雑になっている。
ずっと彼女を知っていた。女になる前から。なってからも。
それを感じながら、片手で顔を覆った。
「アタシ……なんてことを」
水の枯れた井戸の底から響くような声だった。涙すら出ない。
「イヴには、どれだけあやまっても足りないわ」
そのまま片膝を抱え込んだ。
「なにを、あやまるの……?」
投げ出された手に、彼女の両手が触れた。
「わたしは、ギャリーに触ってほしかったから、全部うれしかったよ。どうしてそんな顔するの」
示された選択肢すべてを誤った気分だった。彼女を守り続けてきたことも、拒んだことも、忘れたことも、抱いたことも。彼女は今だって、どうしてと言いながら胸を切り裂かれたような顔をしている。
きっとその全てで彼女を傷つけてきた。
イヴの細いゆびがギャリーの肩に触れた。そのまま、少し頭をかたむけて唇を寄せてくる。
とっさに、彼女の唇を手で覆った。
あ、と気づいたときにはすでにそうしてしまったあとで、指に涙がひとつ落ちた。
そのまま泣き出すかと思えば彼女は両手で彼の手をそっとはずした。声は凪いだ海のようだった。
「……ごめんね」
「イヴ」
「好きになってごめんね。わたしのせいだよね。ギャリーは、お願いをかなえようとしてくれただけなのに」
朝の光、夕焼け、月と星のかがやき、あらゆるうつくしいひかりで織りあげたような彼女の姿はただ胸をついた。
「わたしがいつまでも、ちっちゃいこどものままならよかったね。おとなになんて、ならなければよかった……
でもね、わたし、やっぱり出会ったときから、あなたのこと好きだった。あとからそうなったんじゃなくて、最初からずうっとおんなじものを持ってた」
やわらかな手が触れている。
「恋人になったし、キスもしたし、好きって言ってもらったし、言えたし、愛してるとか、あと、……もっといろんなこと、とか。したけど。
わたしがあなたとしたかったことって、きっとそれだけじゃなくて、もっと、いちばんしたかったことがあって」
ぎゅう、とイヴはギャリーを抱きしめた。今ではその服の下の感触まで知ってしまっている胸が胸に押しつけられた。
「いっしょにいたかった。ギャリーが雨みたいにくれるきもちをわたしもかえしたかった、それを、受け取ってほしかった。欲しかったんじゃないの、もらってほしかったの」
心からの告白だった。あたたかな体は、たぶん愛をそのまま形にしたものだった。
これほどに想われることは二度と無いだろうとギャリーは思う。思うのに、手が動かない。
腕の中の愛は、そっと離れて立ち上がった。とたんに空虚が胸をさす。
「わたし、行くね。たくさん困らせちゃったね……ごめんなさい」
扉へ向かう彼女の腕を、ぎりぎりのところで立ち上がってつかんだ。驚いた赤い瞳。赤いスカートがふわりと舞った。
「あー……その、ちょっと、待って。イヴ。帰らなくても、いい、わよ」
何を言いたいのか彼自身わからないまま、だらだらと話し出す。
「このまま、……恋人、で、いたって、別にいいじゃない……アタシ、だって、アンタのこと好きになっちゃった、もの」
イヴの告白に比べると稚拙すぎて消えてしまいたい。そこは混乱しているからということで許してほしい。
だが本当のことではある。長い時間をともに過ごした少女だという意識もあるが、短いながらも燃えるような恋をした女性でもあるのだ。そのふたつはうまくかさねあわせることができずにいるが、どちらかをとることはたぶんできる。
(そう……イヴが望むなら。望んでくれさえすれば、アタシはそうできる)
イヴは微笑んだ。ちいさなこどもに言い含める母親のような目で。
「ギャリー。ギャリーは、ほんとのほんとに、全部、わたしのこと、忘れてた?」
「え?」
「一番奥のところでは、わたしを覚えてたんじゃないの?それで、好きにならなきゃいけないって思ってたんじゃないの?だからあんなに情熱的で、ちょっと強引なくらいに、わたしを好きでいてくれたんじゃないの」
答えられない。違うと言っても証明する手だてはないし、彼自身、考えもしなかった可能性だった。
恋人だったあいだに彼女へ既視感をもっていたのかなんて膨大な記憶の洪水に押し流されてしまった。ただ、熱にうかされていたという感覚が残っていた。
「それでもいいって、わたし、最初は思った……きっかけがどうであれ、恋人どうしになれてるし、想いあえてるって感じられたから。でも」
目を伏せる。ローテーブルの上に、写真立て。
「あなたのこころをだましたままでもいられなかった」
そっと手をはずされた。
「ずっと、たくさん優しくしてくれて、ありがとう。
わたしのお願いも。たくさん叶えてくれてありがとう。
好きになってごめんね。……さよなら」
ドアの閉まる音。
動けずにいる彼の耳に、遠ざかる足音が響いている。





ギャリーという青年に出会ったときのことを、イヴは鮮やかに思い出せる。彼は覚えていないだろう。気づいてもいないだろう。

二度目の出会いなら、きっと彼も覚えている。それはあのワイズ・ゲルテナ展。
彼は「吊された男」というタイトルの絵の前で、足を縫いつけられたように動かずにいた。
はじめての出会いからずいぶん時間が過ぎて、イヴは9才になっていた。誕生日には、レースのハンカチだって買ってもらった。
あのときのわたしだと気づいてほしくてまわりを少しうろうろしたり、じっと見上げたりしたけれど、彼は絵から目をそらさなかった。だからあきらめてその場を離れた。なんて話しかけようかと考えながら。
(あの絵、さみしい絵。 あの人は、まだ、見つけてないんだ。……プロポーズしたい人)
少女の心に、プロポーズということばは神聖な響きで刻まれていた。それは一生に一度の大事な約束なのだ。
話しかける言葉をさがしだす前に、イヴは深海に引き込まれた。それから、彼も。


ギャリーはイヴと出会ったときのことを覚えていなかったけれど、名前を知ることができた。伝えることができた。お互いを呼びあうことができた。
話も、たくさんした。イヴは口下手だったけれどギャリーはよくしゃべったし、話を聞いているだけでうれしかった。美術品は恐ろしかったが彼が守ってくれた。
「アタシにしてほしいことがあればなんでも言って。イヴのお願いならなんでもできるわ!」
夢みたいだった。悪夢の中だが、ここだけは醒めないでほしいと思った。
ギャリーはイヴを助けたし、イヴだってできることはたくさんして、ギャリーを助けられるようにがんばった。
その甲斐あって、二人は恐ろしい美術館から出ることができた。そのうえ、イヴにとってはうれしいことに、二人でお出かけする約束までできた。
ギャリー、と名前を小さく呼んでみる。あのすみれ色の人の名前。
「……プロポーズ」
されたいなあ、と思った。
あのひとに、好きな人ができてほしい。
そしてそれが自分であってほしい。
理由らしい理由なんてなかった。ただ、願っていた。出会ってからずっと。


ギャリーを両親に紹介したのは失敗だったかもしれない、とちいさなころのイヴは真剣に思っていた。
「魔法使いみたいな人なの」と紹介したときは、あんなに渋い顔をしていたくせに。
母親はギャリーを女友達のように気に入ってしまった。母親の年齢はイヴよりずっとギャリーに近く、本当に仲がいい。二人とも大好きなイヴには、おもしろくない。
彼らが楽しげに交わすお化粧やドレスの話、ゴシップのほとんどはイヴにはわからないし、何かとギャリーが「イヴのお母様ってほんとに美人よねー」というのも気に入らない。
父親だってずるい。今までの交友関係にいなかったタイプだというギャリーにはじめこそ距離を置いていたものの、いつの間にか打ち解けては二人でビリヤードだとかカヌーだ釣りだとか、そういう大人どうしの外遊びにギャリーのだいじなお休みを使って連れ回すようになってしまった。

今日も男二人は射撃に出かけた。
「……はやくけっこんしたい」
頬をふくらませてつぶやいたイヴに、母親はスコップを落とした。さく、と先端が土に垂直に刺さる。
薔薇の植え換え中のことである。
「えっと、イヴ。どうして?」
「だって結婚したらギャリーの一番はわたしだもん。お父さんがギャリー連れてっちゃうの、やめてって言えるもん」
「あ、あー…… あらあら。イヴったら。おませさん!ギャリーさんのことだいすきなのね!」
「うん。プロポーズしてもらうの」
決意を秘めたまなざしに、その心意気やよし、と母もうなずいた。
「なるほどね。ギャリーさん、お母さんも、いいと思う。それじゃイヴはがんばらないとね」
「がんばる。……なにをがんばったらいい?おけいこ?お勉強?」
「律儀でおりこうね、イヴ。でもね、プロポーズされるためのがんばりは、そういうのとはちょっと違うところにあるのよ」
「そうなの?」
「ええ。礼儀作法とか、殿方の行動パターンの把握とか、甘え方とか、まああとは……バストアップとか……これは早いかしら……」
「……?」
「とにかくお母さんは応援するわ!」
「あ、ありがとう、おかあさん」
応援してくれるので、お母さんは味方、ということにした。
(でもおとうさんは敵!)
娘のまなざしが厳しくなったことに、イヴの父親は早めにやってきた思春期のせいだと涙にくれた。
よもや恋敵認定されているとは思いもしなかっただろう。



10才のときに「恋人」にしてもらったことは、忘れたい過去だ。
形だけをほしがった。恋人ということばのむこうにあるものの意味を、イヴは何一つわかっていなかった。ただその名札さえあればすべて手に入るのだと思った。
だから、彼女にしてというお願いは、断られすらしなかった。
少しずつ気づきはじめた。ギャリーのなにが欲しいのかを。なにをあげたいと思っているのかを。


ハイスクールに入ってしばらくした頃、ギャリーのアパートの前で女連れの彼とはちあわせてしまったことがある。
見なかったふりをできない遭遇で、きっとギャリーがいちばんうろたえていた。
イヴは完璧に「知り合いのお兄さんに仲良くしてもらってる妹みたいな子」の態度をとった。女性も、なにを牽制するでも隠すでもなく軽く応じてきた。
次に会ったときギャリーが浮気のばれた恋人みたいな様子だったのがおかしくて、「髪、切ってみようかな」なんて言ったりした。
実のところ、まったく気になってなんていなかった。安心すらした。ギャリーはまだ、見つけていない。
だから待ってて、とイヴは誓った。
(すっごい美人になって、ギャリーがわたしのこと好きで好きでしかたないって、そんなふうにしちゃうんだから。もうちょっとだけ待ってて、わたし、がんばるから)


「海辺の街とかさ、いいわよね。この街の夜も素敵だけれど」
月光の下、ふわふわの髪を風になびかせながらギャリーが言ったことがある。おすすめのレストランへ行ったディナーの帰り。夜のデートのためにドレスアップしたイヴに、ギャリーは「大人みたいよ」と誉めてくれた。つまりは子供だということだ。
本当はワインを飲みたかっただろうにイヴに合わせてアルコールを摂らなかった。恋人どうしには見えないだろうとわかってもいた。
それでも、二人で夜のお出かけには違いない。川辺には寄り添う男女も少なからずいて、恋人たちの時間だった。木陰でキスをしているカップルを見つけてしまってどきどきした。
あのひとたちみたいにギャリーに物陰に連れ込まれちゃったらどうしよう、と思ってみたが、もちろん彼はそんなことはしなかった。
「海は夜がいいのよ。星空のボウルの中みたいでね、月が海に映ったりなんかして」
彼が語るのは知らない街の話。ここへ来る前は、いくつもの街を渡り歩いたという。
「じゃあ、次に住むのは海辺の街?」
「そうね。当分は、この街にいるでしょうけどね」
当分かあ、と思う。
(ギャリーがこの街を出るとき、わたしはギャリーの恋人でいられるのかな)
夜の海に立つ彼の隣を歩いていられるだろうか。
そうなれたらいいと願った。


願い続けた「大人」に近づきはじめて、焦りが生まれてきた。大人にさえなれば、と信じていられる時期が終わりを迎えはじめたのだ。
悪くない外見になっているはずだと思う。美人とほめられる母によく似ていたし、学校でも、街を歩いても、異性の反応も同性の反応もそれなりに良い。
けれどギャリーは、ちいさな子供への態度そのまま。そのくせに気づいている。イヴの想いにも。そのむこうの欲望にも。
距離をとられることが増えた。それは体だけのものでなかった。「女」になりつつあるイヴを遠ざけている。いっしょにいても、ふとした瞬間におかしな空気が流れることが少なくなかった。そしてそれは、ほとんどがイヴのせいだった。なぜならば、想っているのも欲をもっているのもイヴだけだからだ。


「わたし……魅力ないのかな……」
沈痛につぶやけば、「「はあ!?」」と合唱が返ってきた。
ガールズトークというやつである。イヴの正面には二人の学友が身を乗り出すようにしていた。
「なにいってんのイヴ!あんたに魅力がなかったらうちの学校のミスコンがなんであんたを選んだのよ!」
「う……うらでおとうさんが選考会にお金を流したとか……」
「黒い!黒いよイヴ!そこまでする意味ないよ!実力だよ!」
「もーーあの紫色ってばなんでイヴの魅力わかんないのかなあ!実はゲイなんじゃないの!?」
「そ、それはないよ、彼女いたことあるし」
「わかった!バイだ!それで今イヴのお父さんと」
「ちょっとあんたそれはジョークにしたって悪趣味すぎ……ってイヴ!冗談!冗談に決まってるじゃない、目がこわい!すごい怖い!」
きゃあきゃあはしゃいでいる女の子たちだが、店内には今のところほかの客はいない。
そこに悠々と4人分のミートパイを持ってウェイトレスがやってきた。彼女もまた、学友である。
「ちょっとあんたら静かにしなさいよー、厨房まで響いてるわよ」
「いいじゃない今は、ほかにお客いないし」
「まあ、そうなんだけど」
言うと、彼女も空いているイスに座ってしまった。
「え?」
「ついでに昼休憩にしなさいって。だからあたしもまぜてね」
「え、うん、いいけど」
「で、イヴが、あれだっけ?年上の男に、うまく魅力が伝わらない、と」
「う……うん」
対面に座る二人は早くもパイをきりわけはじめている。隣に座るウェイトレスは、頬杖をついてにやりと笑った。
「そりゃあれだわ、色仕掛けしかないわ」
「い、色!?」
赤くなるイヴと、食い入るような視線の対面の二人である。
「どれだけ子供扱いしてきたってね、ちゃんとばっちり成長してますって見せつけてやれば、あっちもわかるって」
「で、でも、だけど、そういうのっておつきあいしてからじゃないの?順番が」
あわてるイヴだが、対面の二人のまなざしは、鷹である。
「……そーゆーお行儀いいこといってたら、ふつーじゃない条件で上手くいくわけないじゃない?」
ウェイトレスは、きちんとそろえた指で、左手の甲を三人に見せた。
一瞬の沈黙のあと。

「「えええええええ!?」」
厨房どころか通りにまで少女たちの声が響いた。

ふふふ、と得意げなウェイトレスと、驚愕する二人と、ぴかぴかと光る薬指の銀色から目が離せないイヴである。
「そ、れって誰から?やっぱり……」
「もちろん店長よ」
三人は、彼女がずっとこの店の店主に片思いしており、アルバイトとしてもぐりこみ、それから影に日向にアプローチを繰り返していたのを知っていた。まるで相手にされていないことも。
店長は彼女らより一回り年上だったし、当然そのうち彼女のほうが根負けするだろうと周りのだれもが思っていたのだ。
「それが……色仕掛けの効果……?」
ごくり、と誰かが唾を飲んだ。
「ま、そればっかってわけでもないけどね。……でもさあ、ちゃんと話を聞いてもらえるようになるには、多少はショックが必要ってこと。イヴの場合は、どんな方法がいいのかはわかんないけどね」
それが色仕掛けかどうかは知らないよー? と笑うウェイトレスだが、イヴの耳にはもはやそれは入っていなかった。


二十歳の誕生日を前にして、両親が仕事の都合で留守にすることになった。
「誕生日には戻るから」と旅立った二人を見送って、イヴはギャリーを呼び出した。

色仕掛けなんてするつもりは無かったし、そんなものが効くとも思えなかった。
ただ、わかってほしかっただけだ。もう、お願いをするばかりではなく、彼からのそれだって請けてみたいのだと。
魔法だって、きっと使えると。







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2012/09/18
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