魔法より強く 10







(潮のにおい。青がキラキラしてる)
少しの着替えと本だけを詰めた鞄を引いて、イヴはバスから降りた。
海辺では空の色と舞う鳥すら違う。大きな白いあれは、カモメだ。
地図を片手にホテルへ向かう。一週間の予定だが、その間によさそうなところが見つかったならしばらく住んでみるのもいいかもしれないと思っていた。
あの街には思い出が多すぎる。ほんとうに一人きりになるのなら、もっと早くこうするべきだった。
膝下丈のワンピースとチョコレート色の髪をひらめかせる赤い瞳のイヴは街へ降り立ったときから人目をひいていた。
(早く荷物置いてきちゃおう)
あからさまな旅行客然とした鞄がいけないのかもしれないと少し早足になった。
路地を抜けて、海のほうへ。突然、建物と木々に遮られていた視界が拓けて青が広がった。
絵筆でまっすぐに線を引いたような海の青。陽のひかりをうけて、きらきらとかがやいている。
果てまでも青が続く光景に、涙がにじんだ。
(青は、ギャリーの色)
彼の青は、海の青にとくによく似ている。実を言えば海を何度も見たわけではなかったが、それでも似ていると思う。
優しくて、広くて、気まぐれで、ときどき荒々しい。空をうつして穏やかなふりをしながら、底には黒に似た青を隠している。向かい合うと安心するのに、孤独。
砂浜に足を踏み出してみる。ヒールが砂にとられてぐらついたので、思い切って靴を脱いでみた。
悪くない感触だったので、鞄と靴を置いた。
裸足になって砂の上を、波打ち際を歩いてみる。
ずっとそうだったような気がして、少し沈んだ。波のふちに触れただけで海にさわったと思っていたのではないだろうか。
(……無理だったのかな)
忘れられる場所なんて、あるわけがなかったのかもしれない。何を見たって結局は彼を思い出すのだ。
ここに来たのだってそうだ。彼がかつて少しだけ住んで、また行きたいと言っていたところだ。
イヴはずっとギャリーを見上げつづけてきたから、「どこかの街」を漠然と思い描いたとき、彼が好きだと言ったここよりも良いところを思いつけなかったのだ。

(与えられるだけで満足できるならよかった)
波のように、途切れずに彼の魔法は降っていた。けれどそれではどうしてもいやで、だから別れを告げた。
きっとあの嵐の夜にだって、それでもと乞えば恋人と世間で呼ぶものになれただろうし、抱いてもくれただろう。
けれどそれはイヴが本当にほしかったものではなく、彼もそれを知っていたからこそ去ったのだ。
(でも、じゃあわたしはなにがほしかったの)
海を渡る風が髪を撫でていった。
ちらちらと、浜辺にいる青年たちがイヴを見ては小声で何か話し合っている。見るからに善良そうな彼らは、このあたりでは見たことのない女性に浮き足立っていた。
彼らは話し合ううち、特に純朴そうな青年をはやしたてはじめた。彼はとまどいながらも、友人たちに背を押され、耳まで赤くしてひとり歩きだした。
「……あのっ」
声をかけられてイヴは振り向いた。髪が海風に揺れた。
海辺の街では珍しい白い肌にガラスのような赤い瞳。その瞳に自分を映されただけで、彼はその瞳のように真っ赤になった。
「ひ、ひとりで来たんですか……? よければ、その、おなか、すいてませんか。食事。美味い店、あるんです」
きょとん、とイヴは彼を見る。一瞬、善意の観光案内だと思った。それから彼の緊張した様子と、遠くでにやにやと、だが親しみをもって見守る青年のグループに気づいた。
(……ええと)
これはあれだろう。きっと、たぶん、おそらくはあれだ。
目の前に立つ青年は、あきらかにイヴに好意をもって声をかけてきた。イヴはと言えば、いい人っぽいなあ、という実に凡庸な感想しか出てこないのだが。
(でも、食事してみるくらいなら、いい、のかな?)
いい人っぽいし。この青年となら、きっと辛い思いはしないだろう。
了承のために口を開こうとしたところで、後ろから突然腕を掴まれた。
息を飲んだ。けれどそのすぐあとに、力が抜けた。この腕を間違える訳がない。頭より先に体が警戒を解いてしまった。
「ごめんね、坊や。彼女、アタシの連れなの」
のんびりした声だ。これだって、聞き間違えるわけがない。
「……ギャリー?」
坊やと呼ばれた青年は一瞬怯んだが、目を見開いてそれきり言葉も出ない様子のイヴに何かを感じたようだった。
「彼女、いやがってませんか」
「いやなの?イヴ」
「え」
いやかと聞かれれば、いやなわけがない。でも困る。
身じろぎすらできないイヴに、青年が少し強気になって言い募ってくる。
「ほら、離してくださいよ」
「なんであんたにそんなこと言われなきゃなんないのよ。
そもそもねー、こんな美人に彼氏いないわけがないでしょばっかねー」
「っ、でも、」
「彼氏よ。アタシは、このコの彼氏。コイビト。そうよねイヴ?」
腕の中で体が反転させられ、そこでようやくイヴは彼の目を見た。
そして、見なければよかったと思った。
それは熱に浮かされていた「恋人」の目ではなく、静かに従うようですらあった「魔法使い」の目でもなかった。
もっと、ただそのままのイヴを見る、そのくせ澄んだ水晶のぬくもりと、その向こうに、恥ずかしい名前で呼ばれることもあるなにかをひそめていた。
あんな目で見られたことは一度もない。つまり、イヴを今までとは別の存在として見ているということだ。
でも、それは、なんだろうか。
(だけど)
そんなことより、ギャリーがここにいる。
ここにいて、抱きしめて、わたしを見ている。
指先が頬をとらえて耳のふちに触れてきた。あ、キスされるな、と思った。予測は当たって、長いまつげが青を覆って、視界が影に覆われる。唇の熱が唇に近づいてきた。


浜辺の青年たちは、短すぎる恋を終えた青年を囲んで肩をたたいてやったりなぐさめたりはげましたりしながら砂浜から離れた。「美味い店」にはいつもどおり男だけで行くことになった。まあ早くわかってよかったじゃないか、とか、そんなようなことを言いながら。


唇が離れて、ふは、と息をついた。酸素は足りていたけれど、もっと濃厚ななにかを飲まされて、息継ぎしたかった。
ようやく心が戻ってきた。それまで、ここが海辺の街であることも足下の波もすぐ近くに青年がいることも街を離れる前になにがあったのかも、すべて忘れていた。まるでイヴとの10年をすべて忘れていたギャリーのように、なにも頭に入ってこなかった。彼のこと以外は。
「……信じられない」
イヴの、再会の一言目がそれだった。
「なにが信じられない?」
「いろいろ……」
ギャリーの親指が、彼の口の端をぬぐった。
それから、海に似ていると思った目で彼女の目を見た。
(やっぱり似てない。ギャリーは、ギャリーだ)
どれにも何にも似ていない。イヴにとっての彼は、彼だ。
(ギャリーにとってのわたしは?)
「やらしい顔。ほんとに修道女になんてなれるつもりだったの?」
意地悪い顔で笑われて、なんのことかと記憶を探る。
そういえば、そんなことを口にしてしまった気がする。
イヴも、らしくなく「意地悪な顔」で応える。
「……逃避のために別のものになろうなんて、うまくいくわけないじゃない」
実際、いろいろ調べはしたのだ。そのうえで、甘い考えだったとわかっただけだったが。
そして意地悪な顔のつもりで作った表情は、そのわかりやすさを含めて人形めいた顔立ちに人間味を加味して魅力的なばかりだった。
だからギャリーは肩をすくめた。
「ごめんね。待たせたわ。もっと早く、同じバスで来るつもりだったんだけど。勝負が長引いたの。でも勝ったわ」
近くに旅行鞄が転がっているのが見えた。彼のものだろう。イヴを抱きしめたときに放り投げたのだろう。
ギャリーの革靴のつまさきが波に濡れかけている。脱いだほうがいい。あるいは、波打ち際から離れたほうがいい。
イヴは背を向け、そのまま歩きだした。かかとに波がまとわりつく。彼が追ってくる気配もした。
「別に、待ってなんて」
この街に来ておいて説得力が薄いことはわかっていた。それでもそう言えば、違うわ、とギャリーが緩く首を振る。
「十年、待たせたわ。アタシがコドモだったせいで」
「……こども?」
子供だったのはイヴのほうだ。ギャリーは、出会ったときからずっと大人だった。
「あなたがちいさいころ、アタシに、恋人になってって言ったの、覚えてる?」
覚えていないわけがない。忘れたいいくつかの思い出のひとつだ。10才の、バイオリンの発表会の日のこと。
「忘れた」
誰にでもわかる様子でイヴは嘘をついた。ギャリーが笑う声が背中から聞こえた。
「ほんとは、あのときにだって、あなたと想い合うことはできたんだわ。アタシがコドモじゃなかったら。
イヴはちゃんとわかってた。アタシだけが、ずっとわかってなかった」
想い合う、という言葉がイヴの耳に残った。なぜかそれが波の音のように響く。
わかっていた。何をだろう。
「……どうしてここに来たの」
考えていたどれとも違う言葉が出て、イヴはとまどった。
言いたいことがたくさんある。言いたくないこともたくさんある。そしてそれはどれもまとまるより先に滑り出ていった。
「宿泊先のことは、お父様に聞いたの。この砂浜に来たのは偶然よ」
「そうじゃなくて、……そうじゃなくて」
風を切ってカモメが飛んでいった。
こんなに澄んだ空なのに曇っているような気がして、イヴは目を伏せた。
「どうして来ちゃうの……」
「どうしてって」
「わたし、せっかくギャリーのこと、あきらめてあげたのに」
伏せたまつげの下から、涙がひとつぶ、真珠のようにこぼれた。ひどく悲しい声だった。
「……よかった」
聞かせるためでなく、考えていたことが口から出てしまったというようなギャリーのそのせりふに、イヴは顔を上げた。彼は笑っていた。
「あんたまだ、アタシを好きなのね。いいかげん愛想つかされたと思ってた」
一瞬で視界がぼやけて滲んだ。
ぱぁん、と海辺に破裂音が響く。
イヴは人を平手で打ったのなんて初めてだったが、おそろしく綺麗に入ったことに自分で少し驚いた。ギャリーはおそらくよけられたが、そのまま受けた。
「も……バカ。ギャリーのバカ!」
イヴはもともと、涙だけをはらはらと散らして泣く子供だった。大人になってもそうだった。
だからこんなふうに、幼子のようにしゃくりあげながら泣くのをギャリーが見たのははじめてだったし、イヴにとってだって物心がついてから記憶になかった。
「好きだよ、そうだよ、ずっとそうだったしこれからだってそうだよ!ギャリーが好き、ずっと好き、ひとりぼっちはいやなの、そばにいるだけじゃだめなの、なんでかわかんないのに、どうしたいのかもわからないのにずっと、ずっと、わたし、」
愛されてはいたと思う。それは間違いがないだろう。
一番であったとも思う。それも間違いはないはずだ。
なのに、まだ足りないと、ほんとうの望みはそれではないと心が叫び続けていた。でもそれがなんなのかもわからないまま、欲しがり続けた。
波が跳ねて、抱きしめられた。革靴は海水に浸って、もう元通りにはならないだろう。
「うれしい。ありがとう」
「……っ、」
腕の中で、イヴは両腕でどうにか逃れようとてのひらや拳で胸を押した。けれどそれはまるで力が入らなくて、逃れたいと思う気持ちは本物なのに、そう思っていないようでますます泣けてきた。そしてたぶん、やっぱり、そう思ってはいないのだ。
「ちいさなあなたに出会って、アタシはじめて好きな子のためにしてあげられることがあるのがうれしいって知ったのよ。おんなじことをするんでもね、イヴのためなら何倍も楽しいの」
あきらめて、胸に頬を寄せた。波は変わらずに打ち寄せている。
「おとなのあなたにもういちど出会って、また知ったわ。
あなたがそこにいるだけで、胸の奥からいくらでもあふれてくるものがあって、それを感じているだけでも幸せだった。あとは、まあ、いるだけでもよかったんだけど、様子を見ながら手を伸ばしたりするのも、楽しかったわ」
それはイヴもわりと楽しんでいたことを否定できなかった。今だってそうだ。だから背中に腕をまわして抱きしめた。
「それでね、イヴ。考えてみたの。
アタシこれからどうしたらいいかって。
いろんなこと、たくさんあったけど。たぶんこれがいちばんいいと思ったの。聞いてくれるかしら」



蓄音機をメンテナンスに出したので、その日はバーも休業にするつもりだった。
だが常連客がやってきたので特別に開けることにした。今夜は貸し切りだ。
できれば休業にしたかったところだが、店主個人がこのごろなりゆきを気にかけている客のひとりだったため、職業上の誇りとしてはあるまじきことだがほんの少しの好奇心が混ざっての開店となった。
「はー……」
「天使」の父親であり、すみれ色の常連客の友人の男は深くため息をついた。
娘が恋人と長いバカンスに出ているという。年頃の娘を持つ父親の嘆きとしては害のないものだったので、
「娘というものはいずれ嫁ぐものですよ。幸せになれるように願ってやりましょう」
と、職業の矜持を少しだけまげて親身に声をかけた。彼自身にも覚えのある感情で、らしくもなく同情的になっていた。
「ああ、うん。そっちはもうとっくに覚悟決めてたっていうか、もう十年前に嫁に出したような気分だったんだよ。
そうじゃなくて。そうじゃなくてさあ……」
ここで深くもういちどため息。
「これでもうギャリーくんは僕とあんまり遊んでくれなくなっちゃうのかなーー。せっかく友達になれたのに、今後はイヴが最優先になっちゃうんだよなあ、あーー寂しい……」
何そのクラスメイトの悪友に彼女ができたのを嘆く小学生みたいな状態。ていうか今後も何も彼の最優先はずっとイヴってお嬢さんだったんじゃないのか。
思ったが、もちろんマスターはそれを口はもちろん表情にも出さない。
あのすみれ色の常連は、娘の交際相手を威嚇する父親に悩まされることはないだろう。
だが、かわりにイヴというお嬢さんは、父親のことで苦労しそうな気がした。
ドアベルが鳴って、男が待ち合わせていた人物が訪れた。
珈琲色の髪を結い上げた、赤い瞳の女性だ。男は妻に軽く手をあげた。
「まあ、いい雰囲気ねえ。すてきなお店」
彼女は夫のとなりに座った。
「おまたせ。イヴがお誕生日プレゼントにギャリーさんからいただいた靴、新品みたいにきれいに直してもらえたわ。もとがいいものだから、パーツさえあればきちんと直せちゃうみたい。
靴屋のおばさま、イヴとギャリーさんが旅行に行ってるって聞いて「あのふたりはそういうことになるんじゃないかとずーっと思ってたのよねえ」なんて言ってたわ。ついでだから送ってきちゃった」
「送る?」
「ええ、あの子の泊まってるホテルに」
「ああ……結局あの子は」
「そうみたい。もう一ヶ月、滞在を延ばすそうよ。そのあとは、どうかしら……一度顔を見せにいらっしゃいとは言っておいたけど、ねえ」
彼女のオーダーは「おまかせするわ」だったので、マスターは何を作ろうかとボトルの棚に目を走らせた。赤い瞳には薔薇のリキュールが合うかもしれない。いつも使っているものではなく、とっておきが裏にあったはずだ。彼は奥の倉庫に消えた。
「ねえ、あなた」
そっと腕に触れる指先に、男は顔を上げた。
「こういうところでデートするのって、結婚してからはじめてじゃないかしら?わたしたちも、旅行、行きましょうよ」
少しはにかんだ様子の、二十年連れ添った妻の姿に、男はそれでようやく友人と娘のことを意識から追いやることができた。
マスターが薔薇のレリーフの浮き出た瓶を手に戻ってくると、夫婦は腕をからめながらそれはそれはいちゃいちゃと旅行計画を練っていたので、やはりお客様に助言のようなことができるというのは思い上がりである、今後はもうほんと絶対踏み込むのはやめようと固く誓った。



海辺の街の朝は、海面がきらめいて宝石を蒔いたようだった。ホテルの食堂で早めの朝食を終えたイヴは、旅行鞄を持ってフロントへ向かう。すっかり馴染みになった受付に、延泊はしないと伝えて鍵を返した。
「残念です。お客様がいらっしゃると、我々も仕事に精が出たものですが。でも、しばらくこの街にはいらっしゃるんですよね?」
「はい」
近距離でのほどけるような笑顔に、この一週間で免疫ができたつもりでいた受付はまぶしいものを見たように目を細めた。
「……お食事はぜひ当ホテルで。ディナータイムのテラス席、優先してご用意させていただきますよ」
「ありがとう」
海辺は建物の背が低い。イヴが七日間のいくらかを過ごしたホテルがほんのすこし背伸びしているように見えるくらいだ。高台や背の高い建物が多い、生まれ育った街とは反対だ。遠くまでよく見える。
のんびり石畳を歩けば、初日にイヴを海岸でナンパしてきた青年たちとすれ違った。いくらかうちとけて過ごすようになっていたので、軽く手を振って挨拶する。
お気に入りの靴で、すっかり慣れた道を歩いて、小さな家にたどり着いた。白い壁に煉瓦色の屋根。イヴの実家の馬小屋程度の広さだが、ここが。ここで。つまりは。
ドアベルを鳴らそうとして、ためらった。恥ずかしい。そのまま扉の前でうろうろとおちつきのない猫のように歩き回るイヴを、けげんな目で見ながら早朝散歩の老婦人が通り過ぎていった。
深呼吸をする。意を決して、ドアベルを鳴らす、鳴らそうとしたところで、内側から開いたドアにしたたかに額を打たれた。
軽いような重いような音が響く。
「きゃっ!? ご、ごめんなさいイヴ! え、イヴ?なんでもう来てるのよホテルまで迎えにいくって言ったわよね、まだその時間より前よねっ?」
すかさず額をさすってくれるギャリーは、いろいろなことにあわてているようだった。
もちろん彼はイヴにドアをぶつけるつもりではなかっただろう。外へ出ようとしたそのタイミングで、ちょうど彼女がいただけだ。それにしたってやっぱり、昨日決めた時間よりは早いのだけど。
「……待ちきれなくて、早くきちゃった」
上目遣いで見上げれば、「ぐぁっ」とギャリーが野太い声で、何かが刺さったかのように胸をかきむしった。
「ギャリー……?」
「ふふ、うふふ、なんでもないのよー。 さ、鞄貸して?重かったでしょう?」
ギャリーが鞄を軽々と持ち上げて家に戻ったので、イヴも続いた。
部屋の中は初めて来たときよりもいくらか生活感が増していた。もともと彼の知り合いがあまらせていたというこの家には一通りの家財はそろっていたものの、人が暮らす上でのこまごまとしたものが抜けていたのでどこかよそよそしかったものだ。
たった一週間で、どこがどうとは言えないが「ギャリーらしい部屋」になっているのが不思議だ。これからは、どうなるのだろう。
大きな窓はすべて開けられて、一番大きな窓は海をうつして一枚の絵のようだった。
冷蔵庫から水を出してきてグラスについでいるギャリーに、あらためて部屋をひととおり見てきたイヴが問いかける。
「ねえギャリー、ベッドは?まだひとつしかないけど、今日来るの?」
「イヴ、水に入れるのレモンとライムどっちがいい?」
「ねえ、わたし今日どこで寝たらいいの」
「……ベッドで寝たらいいじゃない」
「ギャリーは?」
「アタシもベッドで寝るわよ」
うわあ。なんかこの人、うわあ。
背中をむけたまますねたような声の彼に、イヴは、もう言葉にならない感想と、その背中に抱きつきたい衝動にかられた。
「……オトモダチなのに同じベッドで寝るの?それ、変じゃない?」
「変じゃないわよ、よくあることよ」
「ていうか今日までに手配してくれるって言ってたから任せたのに」
部屋を見てまわったときに気づいたが、彼は、二台目のベッドを入れる気がそもそもない。それらしいスペースを片づけた様子がなかった。
「どうせ使わなくなるもの、入れたってしょうがないじゃない」
(なんか……なんかもう、ギャリーって……)
二度目の衝動には逆らわなかった。背中からぎゅっと抱きついた。




七日前。砂浜で、彼が「これからどうしたらいいか」と考えたというものを聞いた。
緊張して手足すら強ばらせてそれを待つイヴに、彼は、あっさりと言った。
「それがね、結局よくわかんなかったのよね」
波の音が静かに響いた。
打ち寄せては返す波は、彼らふたりの大事など知らぬ顔でただ満ち引きを繰り返した。
イヴは、がくりとへたりこんだ。
「きゃっ、イヴ、濡れちゃうわ!」
もう遅い。このまま波に溶けたい。泣けてきた。さっきからいろいろと泣いているが、この涙はなにかそれらとは根本的なところで違う気がする。泣きたい。ギャリーも膝をついておろおろしているが、もうなにもかも投げ捨てたい。
「だ、だってね、考えれば考えるほどぐるぐるしちゃってね、あんたは大事なお姫様だし、ずっと大切にしてきたし、したいし、やっぱりあなたのお願いをかなえてあげたいっていう気持ち、捨てらんない。でもやっぱり全部忘れてた間のね、そうそう、あんた「ほんとは覚えてたんじゃないか」って言ったけどあれ違うわ、あんたのお願いだったんだもの、アタシ完璧に忘れてたわ!ええとなんだっけ、そう、忘れてた間ね。あれはあれで楽しかった。全部きれいに忘れなきゃ、ああいうの一生できなかったかもしれない。どうやって口説きおとしてやろうかとかどうすれば自然にさわれるかとか、寝てもさめてもあんたのこと考えてた、好きとかなんてものじゃなくてとにかく欲しかった、そう、それで、それが、」
そこでようやく彼は言葉を切った。イヴはへたりこんだおしりに波が打ち寄せているのを感じながら、続きを待った。
「それが…… 今も、続いてるのよ」
顔が赤い。ギャリーの顔が赤い。とても恥ずかしいことを告白するような顔だ。
それがイヴには不思議だった。彼女はもうずっとその気持ちといっしょだったから。
「でも、ひとりで考え続けても、わからなかったわ。
今までいろいろあったけど、やっぱり水に流して恋人どうしになりましょう、なんて、ちょっと、言えない」
だから、とギャリーはイヴの右手をとって、両手でつつんだ。真摯な青の目に、どきりとした。
「お願い、イヴ。アタシといっしょに、考えて。これからのこと。きっとふたりでなら、答えが見つかるわ」
からだの中から、波のようになにか熱くてあたたかいものがわきあがってきた。
それは喉の奥にこみあがって、目の裏をぐっと押して、溢れ出ようとした。イヴは全身をうつ痺れのような、甘いような衝撃に震えた。
はじめて唇を重ねたときより、ベッドの中で素肌どうしで触れ合った夜よりも熱い。
(いっしょに、考える……)
星がちかちかとまたたいて、降ってきた。
たぶん、それだった。イヴがずっと欲しかったもの。
その正体もわからないまま、ずっと好意を与えられながらも欲しがりつづけてきたもの。
甘やかすのでもなく、押しつけるのでもなく。ひとりのままで、互いのまわりをまわりつづけるのではなく、いっしょに。
ずっとずっと、そうしたかったのだ。いっしょになにかをしたかった。彼と彼女は、一度たりとてそんなことが、そんな簡単なことが、できなかったのだ。
そして、彼が今、心からそれを望んでいるのだということもわかった。
与えられるよりも求められるよりも心をしびれさせる提案に、涙すらながれずに、はじめて世界を見たこどものように、イヴは答えた。
「うん…… わたし、いっしょに、考える。ギャリーと、考える」
声が震えた。
ギャリーは手をとったまま、明日も楽しいことしかないというこどものように笑った。
彼は気づいているのだろうか。
稚拙な想いと恋の期間が終わったのだということに。今ここから、ようやく、ほんとうに「ふたり」が始まったのだということに。


濡れた服をギャリーとその上着でかばわれながらホテルに行った。下半身を海水に浸してフロントへ現れた美貌の来客に、従業員内で人魚説が流れた。その後人魚説とUMA説にわかれて激論が繰り広げられた。
イヴが自室で着替える間、きちんと背中を向けていたギャリーは言った。
「昔下宿してたところの知り合いがあまらせてる家、借りられそうなの。よければ来ない?」
レースの下着をはきかえて、イヴは問い返す。
「いっしょに住むの?」
「住……!? ち、ちがうわよ、アタシこんなホテルに一週間も滞在できないから、だから、まあツテを安く借りられたらラッキーかなって、」
「なんだ。残念」
「だけど、そう……そうね。しばらく、ここに住むのも、いいかもしれない。だってここって海がきれいだし、新しいことを考えるのにも、」
その先の言葉は無かったが、イヴも無言で同意した。新しいことを考えるには、きっと思い出の薄い場所がいい。それに、海は、とてもいい。
「イヴさえよければ、だけど……」
当然のようにその滞在予定に組み込まれているのを知って、笑みがこぼれた。
ワンピースを着て、テラスから海を見ている彼の隣に立った。並んで、海を見た。
「あのさ……あのさあ、イヴ。アタシって、わりとけっこう臆病で」
「知ってる」
「さっきは、つい、かっとなって彼氏とかいっちゃったんだけど」
さっき。なんだっけ。と思い返す。
そういえば、ナンパされたときにギャリーがそんなことを言っていた。アタシはこのコの彼氏、コイビトよ、と。
「でも、あの、その……なんかまだ、心の準備ができてないっていうか、えっと、」
「うん」
「その……言いづらいんだ、けど。何言ってんのって思われるんだろうけど」
「うん」
「…………オトモダチからはじめない……?」
思わず、まじまじと横顔を眺めた。ぽかんと口をあけなかったのは、わかりにくいと評判の表情のおかげだろう。
本気だ。この大人は、本気で言っている。なんだこの大人。
オトモダチって。なんだそれは。あんなこと言ったりやったりさんざんしておいて。
ていうかいくつだあんた。
イヴは、口をあけて、閉じて、また開けて、を何度かくりかえしたあと、ようやく、呼んだ。
「ギャリー」
「……はい」
「それって、このさきずっとオトモダチって意味?」
「そ、それはない!ないわ!絶対!」
そのあんまりにも即座に全力で否定するさまに、噴き出した。おかしくなって、笑い続ける。涙がにじんできたし、おなかもいたくなってきた。
「イ、イヴ、あの、あのね、アタシ」
「……いいよ、うん、いい」
目のふちをぬぐって、どこまでもきまじめな「おともだち」に、彼女は言った。
「ふたりで、考えるんだもんね? いいよ。
オトモダチからはじめよう。いちばんさいしょから、ゆっくり歩こうよ」
ギャリーが安堵のためいきをついたので、イヴはその肩にぴったりと寄り添った。本当はキスのひとつでもしてやりたかったが、それは、あとにとっておくことにした。
「……イヴ」
「オトモダチだってこのくらいするよ」
「でも……でも、その」
いやがっていないことはイヴにはお見通しだった。くっつかれて困っているのは、たった今あんなことを言ったくせにそれ以上のことをしたくなるからだ。背後のベッドを意識しているのがわかる。イヴが手を引けばそれでなしくずしになることはわかっていたけれど、この葛藤をもうしばらく眺めるのも悪くないかもしれない。我慢しているギャリーはかわいい。
(この先ずっとオトモダチでいるつもりのないオトモダチなんて、それってほんとにトモダチなわけないじゃない。かわいいなあ、この人)
かつてまったく同じ感想を抱かれたとは知らず、イヴは笑った。
ギャリーが消極的に肩を寄せてきた。イヴは微笑んだ。
今この瞬間は、これで、じゅうぶん。
答えなんてほとんどもう目の前にある。
ふたりでいれば、それを見失うことは無いだろう。
とおくないいつかに恋に気づいて、その先は、ここにあるものを愛と呼ぶようになるだろう。









イヴがその青年にはじめて出会ったのは、8才のとき。
バイオリンのおけいこの帰り道だった。かわいい仔猫に誘われて、つい横道に入ってしまった。公園の植え込みのなかで少し遊んでもらって、それからこれが「寄り道」であると気がついた。
あわてて植え込みから道路に戻ろうとして「最低!」という女性の鋭い声、それから破裂音に驚いた。寄り道をした自分を責める声かとおびえて、そんなわけはないと気づいて、こっそりと葉のすきまからむこうを見た。

長いふわふわの髪の、とてもきれいな女の人と、やはりふわふわのスミレ色の髪の男の人だ。
女の人が、男の人に怒っている。
「もういいわよ!あんたはずっとそうして誰も好きになれないまま、一人っきりで生きていけばいいんだわ!」
きれいな女の人は怒りに顔を歪ませて、ヒールの音も高く走り去った。
あとには男の人だけが残った。
彼は少しだけ彼女の後ろ姿を見送ると、赤く腫れた頬を気にしたように頬に手をあてた。
けどそれだけで、なにもなかった顔で近くのベンチに座った。
女の人は、とても怒っていた。あんなに怒った人をイヴは見たことがなかった。そしてそれをまっすぐにぶつけられた男の人の、まるで気にしていないふうなのがイヴには気になった。
(……でも、かなしそう)
公園の時計を見上げる。遅れたらお母さんは心配するだろう、けど。
彼女は駆けだした。

「……あの」
声をかけられて、怪訝な顔で彼は見下ろした。
「これ、冷やした……です。ほっぺに、あててみて?」
濡らしたハンカチをしぼって差し出すイヴに、彼は目をぱちりとまたたかせた。白目の多い、青い瞳。尖ったライン。
「…………ありがとう」
その、どちらかといえば冷たい印象を与えるパーツが。ふにゃ、とやわらかい笑顔に崩れて、彼はハンカチを受け取った。

「ほっぺ、痛いです?」
「んー? あは、ぜーんぜん? 派手に腫れてるだけよ。ちっとも痛くないわ」
話し方が男の人なのに女の人で、イヴはおどろいた。おどろいたが、なにしろ8才だったので、知らない話し方や見た目の人が目の前にあらわれることがまだまだたくさんある時期だった。だからあまり疑問にも思わなかった。
長い脚が、公園のベンチでは窮屈そうだった。隣に座るイヴは、足をぷらぷらしている。
「かのじょさんと、けんかですか?」
「んふ、気になるぅ?オンナノコねえ」
イヴは男の子には見えないはずだ。意味がよくわからずに首を傾げた。
「けんかじゃないわよ。あと、彼女でもないわ」
「えっと…」
「なんかね、アタシのことが気に入らないんですって」
「ど、して?」
「誰のことも好きにならないから」
びっくりしてイヴは彼を見上げた。優しそうな彼は、誰も好きにならないなんて、そんなふうには見えない。
「好きとか恋人とか、正直、なんかぴんとこないしよくわかんない……あの子たちが言うものがそうだなんて、アタシには思えない。
縛り合うのが好きってことなら、この先ずっと、誰も好きになれなくたっていいわ」
イヴには彼の言葉は半分もわからない。
けれど、なんだかさみしそうだったので、思わず彼の袖をつかんだ。ここにわたしがいるよと伝えたかった。
青年は少し驚いたように目を見張って、それから、柔らかく目を細めた。
「ふふ。変わった子ねえ。アタシって子供には距離置かれること多いのに」
声が花をくるむ雨のように優しくなったので、イヴはそのまま、長い腕にくっついてみた。青年は動かないままだった。だからイヴも動かず、ただ二人でぼんやりと雲を眺めた。
不思議な時間だった。
何もしゃべっていないのに、目も合わせていないのに、おんなじものを見ているとわかる。ぬるいお風呂に入っているような、ふわふわのベッドの中のような気分だった。
鳩が一羽飛んで行って、それで、青年はぽつりと語りだした。
「でもやっぱり、いつか、誰かを愛してみたいわね」
一羽を追いかけて、他の鳩も飛ぶ。
「それってどんな気分なのかしら…… 今のアタシとは別のアタシになっちゃうのかしら。
第一、そんなこと、ほんとにあるの?
好きだとか愛してるとか、一生を約束してもいいなんて人に、本当に、みんな出会えているのかしら」
遠くにあるきらきらしたものを見る目だ。ショーウィンドウのむこうの宝石、空の果ての星。
そしてそれをきれいだと思いながら、手に入わけがないと思っている目。
「いっしょうを……やくそく?」
「ええ。ずっとずうっと一緒にいようねって、約束するのよ。愛し合ってるふたりがね」
「……あいしあってるふたりが」
「アタシには、たぶんできないけどね」
その目が、あんまりにも悲しげだった。大事に書いた絵をびりびりにされたような目。
だからイヴは、自分まで胸がきゅうっとなって、袖にしがみついた。
「だ、だいじょうぶ! 約束できる!きっと出会える、から!だって、お兄さん、えっと……えっと、」
そこで言葉が見つからずにあうあうしてしまう8才児だったが。彼にはなんだか、伝わったらしい。
「あははっ。 ありがと、おじょーちゃん」
うりうり、と頭をなでられる。おとうさんにもおかあさんにもされたことのない、少し乱暴なそれは、でも、悪くなかった。
指先が離れてからも、ぽかぽかするようなくすぐったいような気持ちがいつまでも残って、イヴはなんだかどきどきした。
「そうね。通りすがりのこーんなかわいい女の子に優しくしてもらえるくらいだもの。まだまだチャンスはあるわ、きっと」
元気が出たようだった。男の人は、「そうよね?」と微笑んだ。イヴは、こくこくうなずいた。
「……あら」
お行儀が悪いと知りながら、イヴはベンチのうえに膝立ちになってふわふわの頭を撫でてあげた。撫でられることだって慣れていないのに、大人の、しかもしらない人の頭を撫でるなんてイヴには考えられないことだった。猫やうさぎにだっておそるおそる触るのに。
でも、なんだかそれがとっても自然なことに思えた。胸のおくにばらの花が咲いたようなきもち。彼も目を閉じてじっとしていた。
(……ずっとこうしてたいなあ)
寄り道の途中なのに、イヴはそんな風に思う。思っても、時間は過ぎる。青年が、ふと目を開けた。
「あなた、おうちに帰らなきゃいけないんじゃないの?」
答えたくなくて、イヴはうつむいた。そうだと言えば、終わってしまう。
彼は立ち上がってよし、と気合いを入れると、ふたたびしゃがみなおしてぬるくなったハンカチをイヴに差し出した。
「これ、ありがとう。ほっぺすっかりなおっちゃった」
「え……あの、えと」
「かわいい、うさぎさんのハンカチ。お気に入りなんじゃないの?」
「……うん」
なんだかこどもっぽいそれが急に恥ずかしくなって、うさぎのキャラのプリントのハンカチを彼から受け取って、ぎゅっと握った。
「ほんと、ありがとうね、おじょーちゃん。もう寄り道せずに、まっすぐお帰りなさいね?」
もう一度頭をなでて、彼は立ち上がり、手を振りながら行ってしまった。
それを見送ったまま、イヴはぼんやりしていた。
日々新しいものに出会い続ける幼い毎日だった。
けれど今の出来事は、すごく、とても、おおきなことだった気がする。
(また、会えるかな……?)
そのときは、もっと大人っぽいハンカチを渡せるといいな、と思った。




その夜は、自分でハンカチをきれいにあらってかわかしてみた。なんとなく、おかあさんやメイドさんにおねがいしないで、自分でそうしてみたかった。

「ねえ、おかあさん。いっしょうをやくそく、ってどうしたらできるの?あいしあうふたりがするんだって。どうしたらあいしあうふたりになるの?」
「……子育てって不意打ちの連続だわ…… プロポーズは、イヴにはちょっと早いかしら」
「ぷろぽーず」
「ええ、だいすきなひとと、ずっといっしょにいようねって約束をすることよ。おかあさんは、おとうさんにしてもらったのよ」
「ふうん……」
「イヴもおとなになったらしてもらえるわよ。そのときは美人さんになってるでしょうから、たくさんね?」


おけいこ帰りに、少しだけお話しした、名前も知らないお兄さん。
スミレ色の髪と、にこにこ笑っているのに寂しそうな青い瞳のお兄さん。
(あの人に、もういちど、会いたいな。そしたら、もっとほっぺさすって、また頭もなでてあげたい)
寂しくないよ、わたしがいるよ。そう言ってあげたい。

それは、欲求を自発的に抱くより先に与えられてしまうイヴが初めて持った想いであり願いだった。
(あいしあう。ずっと、いっしょに)
言葉の意味はイヴにはわからない。ただ、あのひとの探す「誰か」になりたいと思った。



窓の外で星がひとつ、またたいた。









「魔法より強く」おわり。



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2012/09/22
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