春中旬// 2、布と布のあいだ








発育とは生命力と同等であるともいえる。子孫を残そうとする肉体の意志が、少年を男らしく、少女を女らしくする、の、かも、しれない。


「日向クゥンおはよぉ〜!希望の朝だね!18時間ぶりだね会いたかったよぉ〜!」
風でへなへなと揺れるティッシュのような風情の狛枝凪が、ふわふわと日向に吸い寄せられていく。もはや接触もすっかり平常運転となって久しい。彼女はその逞しい腕に抱きついた。
桜の木はすっかり青々とした葉を茂らせて、このごろでは半袖でも過ごせそうな陽気の日も増えた。その日も大分暖かかった。だから日向は、ボタンとネクタイこそきっちりと留めてはいたが上着は鞄とまとめて片手に持っていた。
「なあ、狛枝」
「なあに?日向クン」
朝の教室はざわついて、やはり挨拶やら雑談やらでにぎやかだ。もはや彼らがくっついている程度では周囲はなにも言わない。罪木が転んで見事な開脚を決めているのと同じくらい、始業前だというのにさっそく菓子パンを二つばかり開封している十神の姿と同じくらい、この教室ではよくある当たり前のこととして流している。
狛枝凪は、湖のような瞳をきらきらさせて日向を見上げた。その彼は、眉間にしわを寄せて何か思案している。ややあって、言いづらそうに日向が切り出す。
「実は以前から訊きたかったんだが……お前、お前ってさ、その……」
切り出したとみせて、まだなにか言いあぐねている。
「日向クン? ……ボクの個人情報の何かがキミの興味を惹いたのかい? キミが知りたいことなら、ボクは何でも話すよ?」
心から狛枝はそう言った。
あまり口にしたくない過去も少なくはない。忘れた、割り切った、対価を受け取った、だからもう消化したのだと無理矢理言い聞かせた血だまりがよみがえってくるようだから、口にしたくない。
けれど日向の望みは全て叶ってほしいと考えているし、それが単なる好奇心であろうと、空白のままのクロスワードを埋める程度の義務感であろうと、日向のわだかまりを打ち消せるならば是も非もなかった。
日向がもしも自分ごときに望むことがあるのならばなんでもする、必要なものがあるのならばなにもかも捧げる、そんなふうに決めていた。おそらくは、入学式で再会したときに。あの金色の瞳と再会したときに。
「日向クン」
どんなことを言ってもいいんだよ、という気持ちを込めて、狛枝は、きゅっと彼の腕を抱きなおしてその瞳を見つめた。日向の眉間の皺が深くなり、なにか痛みをこらえるように奥歯を食いしばった。
「……狛枝」
「うん」
「お前、お前ってさ」
「うん」

「どんなブラジャーしてるんだ?」


しん、と静まり帰った教室に、日向のその苦悩を帯びた声が響きわたった。
ほんの一瞬前まで、にぎやかだったのだ。日向のそのたった一言にスポットライトが当たったかのように、偶然、その瞬間に、全てのグループの会話がとぎれたのだ。
日向以外のほぼ全員が、何かの聞き間違いだと思った。狛枝ですら思った。
だから、問い返した。
「ごめ……日向クン、ちゃんと聞こえなかったみたい。もう一回言ってくれるかな」
こくり、と日向は凛々しい顔でうなずいた。そして改めてまっすぐな瞳と刀のような声で告げる。
「お前いまどんなブラジャーつけて」
「最っっっ低!!!!!!」
ぱぁん、とそれはそれは見事な平手打ちの音が響いた。あーあ、と左右田がニット帽の上から額を押さえた。狛枝は、目の前で突然起きたことにびっくりして目をぱちぱちとまたたかせた。
そう、罵倒も平手も、それを言われた当の狛枝が行ったものではない。
「日向、あんた朝っぱらからなにいってんの!?夜でもだめだけど!日寄子ちゃん離れて!こいつ危ない!」
「日向おにぃってせっそーないね!狛枝おねぇのゼツボー的にまったいらな絶壁にまで興味持ってるんじゃあたしも危ないね!あーヘンタイってこわーい」
フルスイングの平手を見舞ったその動きで西園寺をかばう小泉である。まっかな髪が炎のようで、クラスの女子を守護する戦いの女神さながらである。
「そ……それは違……」
頬を思い切り打たれた日向はうまく舌が回らないらしく、アンテナもへなへなしている。日向に害を加える存在を狛枝は許せないが、その相手も「希望」、かつ日頃からなにかと寮で世話になっている小泉となると報復もできない。というかなぜこんなことになったのかわからない。とりあえず、痛々しく腫れてきた頬を「冷たい」とたびたび評された指先でさすってやった。
「いくら狛枝さんが日向のこと好きだからってね、そこにつけこんでなにしてもいいってわけじゃないんだよ!?」
「え、ボクは日向クンにならなにされてもいいよ?」
「日向だってそのへんちゃんとわかってるって、あたし信じてたのに!見損なったよ!」
「わあスルーされた」
その後も続く小泉のマシンガントークを、狛枝は他人事のように聞き流した。それでも要点らしいものはうっすら見えてくる。この激昂は、下着の話題を持ち出した制裁、という潔癖さとは少し違う。小泉は日向のことをひそかに高く評価しており、それが先ほどの日向の問いかけで覆されたのが許せないらしい。裏切られたような感覚と、その苛立ちがそのまま彼に向かっていると考えてよさそうだった。
(……うーん)
なんとなくおもしろくない。日向の腕にくっついて胸に頬を寄せ、嵐が過ぎるのを待つことにした。
「小泉」
嵐のなかに、静かな日向の声が一言響く。それだけで、小泉はぴたりと口をつぐんだ。
「な、によ。……きゃあっ!?な、なにする気よ、ちょっ、あたしは狛枝さんじゃないんだからねっ、触られたって懐柔されないよ!?」
なにかひどいことを言われている気がする狛枝のその背に、日向がぐいとつかんだ小泉の手首の、その指先が触れる。
「え?え??」
日向によって、小泉の手のひらが狛枝の背中に軽く押し当てられた。小泉も、狛枝も、なりゆきを見守っていた生徒たちも状況がわからないまま、日向は無表情に小泉の手で狛枝の背を何度か撫でさせた。
わけがわからないといった顔をしていた小泉が、はっと何かに気づいた。そして自分の意志で狛枝の背を何度か撫でる。信じられずにいたものに確信を得て、戸惑いながら日向を見上げる。日向は無言でうなずいた。小泉は、きゅっと唇を噛んだ。
「……ねえ、狛枝さん」
「なあに?小泉さん」
「その……ええと、なんて言ったらいいかわからないんだけど」
小泉は言葉を選んで、選んで、告げた。
「……今どういうブラつけてるの?」
奇しくも、日向と同じ発言になった。小泉が平手を見舞うことになったその発言と。だが、それでもせいいっぱいぼかした問いかけだったのだ。そう尋ねるしかなかったのだと、小泉は今ならわかる。なぜならば、問いの答えを確信しているからだ。
狛枝は、小泉が予想したとおりの答えを、にっこりはっきり口にした。
「つけてないよ。ボク、ブラジャー持ってないもん」


ブラジャーとは、下着である。
思春期および成人女性の乳房のサポートをする下着である。
その主な目的とは、支える、保持する、整形する、そういったところであろうか。女性の胸を固定するための布としてはその起源は古代ローマ時代までにさかのぼり、現代において一般的にブラジャーと認識されるそれの原型ができてからはおおよそ200年ほどである。これが長いか浅いかは難しいところであるといえよう。


「だってブラジャーっておっぱいに対してつけるものでしょ?ボク、ないもん。さっき西園寺さんがゼツボー的に絶壁って言ったけど、ほんとにないもん。必要ないものをなんでわざわざ身につけないといけないの?
えー、それは違うよぉ、いらないよー。誰でもつけなきゃいけないなんてそんなことないよー。ほら、十神クンだって日向クンだって、おっぱい大きいけどブラジャーつけてないでしょ。へえ、花村クンはときどきつけてるの?そっかあ。え、貸してくれるって、ありがたいけどサイズ合うかなあ。花村クンってCカップくらいありそうだし……」


「そういうことじゃないのよ!大人の女の人はお化粧するものでしょ、それと同じ!共同生活を送るうえでの礼儀!マナーよ!」
あと花村は服を着て!ブラジャー見せてこなくてもいいから!
そう言いながら机に手のひらを叩きつけた小泉に、日向は胸中で喝采を送った。言いたかったことをだいたい言ってくれる小泉に、日向はこの問題を心情的には全て預けていた。
「高校生にもなってブラジャーつけてないなんて社会性の欠如よ!大きさとかそういう問題じゃないの、狛枝さん!」
「んんんん……そう、なの?ごめん、ボク、あんまりこういう話したことないから……そんなに見苦しい行為なら、付けようかな……でもつけてもつけなくても見た目ほんとにかわんないとおもうよ?」
「そんなことない!ないから! よかった、じゃあ狛枝さん、よければ今度、ううん、今日の放課後にでもいっしょに買い物に」
「はよーっす! おう、にぎやかだな!何の話だ?」
がらり、と扉を開けて朝のトレーニングを終えた終里が教室に入ってきた。日本人離れした谷間をさらしながら。


「ぶらじゃあ? うーん、いらねんじゃね?
昔はバイト先のねーちゃんが用意してくれたりもしたけどさー、オレのサイズってバカ高ぇやつしかねえんだよな。ちょっと走ったらすぐぶっこわれるし、洗うのややこしくてめんどいし。そんなもん買うより弟や妹のオヤツ買ってやるほうがいいし。
つけないと見苦しい? それも言われたことねえな。オッパイ見えてっとだいたいよろこばれるぜ。いろいろ楽だし。オレも締め付けると苦しいんだよな。ほらブラジャーなんていらねーだろ!」

終里による論破である。小泉は頭を抱えた。一部男子生徒は「洗うのがややこしくてめんどいのか、そうか」と心のノートにその情報をそっと記した。
「だよねえ、うんうん!必要な人だけ使えばいいよね!ねっ日向クン!……日向クン、どうしてさっきから距離とってるの?ボクさみしい……」
体ひとつぶんきっちり間隔を空けている日向は、狛枝が一歩近づくと一歩退いた。
「狛枝」
「うん」
「俺に触るの禁止」
狛枝の背中に雷鳴が轟いた。衝撃だった。偶然、蛍光灯がばちりとショートしてはじけ、落下したそれが左右田のニット帽に直撃した。
よろり、と狛枝は崩れおち、椅子にすがりついた。
「な……なんで?え?なんで?なんでさわっちゃいけないの?や、それはそうだろうけどこんな生ゴミみたいな、ううん、コンポストにでも入れれば堆肥になるぶんゴミのほうがまだ役に立つ生ゴミ以下のボクにさわられるのなんておぞましいに決まってるよねそうだよね今までだってずっといやだったんだよねあははははボクときたらどうして許されてるとおもってたんだろうあは、あはははは」
狂気めいた淀みない口上と淀んだ瞳で乾いた笑いを壊れた人形のように繰り返す狛枝に目線を合わせるため、日向は片膝をついてかがんだ。涙をまとった白い長いまつげと灰緑の瞳をじっと見つめる。
「頼むから。小泉と、ええと、下着、買いにいってくれ。……そしたらまた、くっついてきてもいいから」
「日向クゥン……」
瞳を潤ませて捨てられた子犬のような様子の狛枝に手を伸ばしかけた日向は、ぐっと引っ込めた。触るなと言ったばかりなのだ。ブレザーの袖で涙をぬぐった狛枝は、問いかける。
「日向クン、高校生にもなってブラジャーつけてないような社会性のない女は嫌いなの?だからさわっちゃだめなの?」
「いや嫌いってわけじゃ」
すぐ後ろで十神の菓子パンを強奪している終里の気配を感じながら日向が答える。とはいえ終里はまるで気にしている様子はない。
「じゃあ、べつにつけなくたっていいじゃない。なんでそんないじわるいうの」
「いじわるなのかこれは」
「いじわるだよ!ブラジャーなんてつけてたってつけてなくたって何の変化もないんだよボクは!」
「俺が違うんだよ!」
「日向クンが、違う……」
はっ、と狛枝が何かに気づいた顔をした。とうとう、というかようやく彼女がそれに思い至ったことに、日向は安心と罪悪感が半分ずつ混ざったため息をついた。
「もしかして日向クン」
「……ああ」
「ブラジャーが好きなの!? だからボクにつけていてほしいの!?」
「それは違うぞ!?」
「違うの? 日向クンが好きならつけようかと思ったんだけど……」
援軍を探そうと日向は周囲を見回した。男性陣は、さっと目をそらした。終里は敵軍だ。小泉の目は「任せた」と語っていた。誰も、頼れない。決めるのは自分しかいない。そう悟った。
だから日向は、小さく息を吸い込んで、覚悟を決めた。
「ああそうさ!俺は、ブラジャーが!好きだ!だからお前にもつけていてほしい!」
「なんか髪が白っぽくなって目が赤かった気がするけどたぶんきのせい」と後に西園寺が語る。狛枝は自分の体をぎゅっと抱きしめ、恍惚に目を輝かせ、なぜかよだれまで流してふるえはじめた。
「日向クン……! なんて希望に満ちあふれた姿なんだ!」
「お前の目、意外と節穴だな!?」
「もう一度言ってくれたらボクはその言葉を希望にして、ランジェリーショップのおねえさんにこの身をゆだねることができそうだよ!」
「ブラジャーが好きだ!」
「日向クン……!」
ちょうどそこへ朝のホームルームのためにやってきた担任が「なんなんでちゅかこれ……」と呆然とつぶやいた。


さて、翌日の朝である。
「おはよう日向クン!17時間ぶりだね!希望の朝だよ!そして日向クンへの接触は実に24時間ぶりだよ!」
胸の中へ飛び込んできた狛枝を抱き留めて頭を撫でてやりながら「そうだな24時間ぶりだな」と相づちをうつ日向である。彼とて、休日でもないのに接触禁止が丸一日敢行されて寂しくないこともなかったのだ。
「昨日の買い物は楽しかったか?」
「うん!女子みんなで駅ビルお買い物ツアー、楽しかったよ。おいしいケーキ屋さんも教えてもらったよ、今度いっしょに行こうねぇ」
「良かったな、それで、その、ちゃんと買った、んだよな?」
メインとなるものを、である。思春期の男子ゆえにあまり積極的に口にしたい単語ではないのだ、本来は。狛枝は、にっこり笑った。
「もちろんだよっ。ほらっ」
日向の右手を両手で導き、そのてのひらをぺたりと自分の胸に乗せた。
「……!!!!!?????」
年頃の女子の胸に触れたという出来事そのものへの衝撃に、日向のアンテナがまっすぐに伸びる。
「ね、ちゃんとつけてるの、わかるでしょ?ほら」
言いながら、てのひらを胸の上でさすらせるように動かす。あまりのことに言葉すら発せなかった日向だが、少しずつ、冷静になってきた。
なぜならばそこは絶壁だったからだ。
確かに堅い布はブラジャーのそれだったのだろうが、それと、胸骨の感触が伝わるばかりでやわらかさのかけらもないのだ。十神の胸のほうがまだ触りがいがあるに違いない。などと十神の胸を引き合いにだして冷静になってしまうほどに、本当に、なにもない。
(狛枝の言うとおり、必要なかったかもな……)
アンテナまでもしんみりしてきた。あまりにもしょっぱい感覚に。
(や、でも、うん、必要だった、うん)
「うん……ありがとうな、狛枝。わかったからもういいぞ」
「見なくてもいいの?」
「あ、うん、いいです」
そっかあ、とどこか残念そうに言いながら、それでも狛枝は納得したのかいつもどおりにくっついてきた。
「はよーっす!」
扉が開いて、元気な終里の声が響く。おはよう、と挨拶を返そうとした日向は、そこで固まった。
「やー、今日もあっちいなー!なあなあ花村、今日の昼メシなに?」
男子だけでなく女子も、終里の胸を凝視している。きょとんとしていた終里は、「あ、これ?オレも昨日小泉に薦められたんだよ」と言ってニカッと笑った。
「弐大のおっさんも、ちゃんとしたブラなら運動にはむしろ補助になるって言ってたしさ。な、おっさん!」
「お……応…… 正しい補正下着による固定は機動力を上げるんじゃ……」
弐大が、目をそらしている。あの弐大が。
一同に静かな衝撃と納得が広がる。
いつも豪快にはだけている終里の胸だが、今日はかわいらしいピンクのブラジャーをしていた。なぜ色がわかるかといえば、いつもどおりにシャツがはだけているからである。つまり、へそまで見えそうなほどに開いたシャツの間から、リボンのついたかわいいピンクのブラジャーが見えているのである。
いつもよりも露出面で言えば確かに下がっている。揺れる動きも抑えられている。だがしかし、なぜだろう。ずっといけないものを見ているような気分になるのは。
「終里さん……シャツ、閉じようよ……」
「あ、これ、ボタンしまんねんだよ」
「へえ……」
小泉の言葉にもキレがない。
鼻血を床に滴らせるまま、花村が厳かに告げた。
「エロスとは、肌ではなく布と布のすきまからやってくるものだ。そんな偉人の格言……思い出させてもらったよ。完成されていたと思っていた終里さんの新たな可能性の地平にボクは感動している」
「あ?よくわかんねえけど、おお」
その日の授業は、生徒も教師も落ち着かないままで過ごした。
彼女のピンクのブラジャーは昼休みに終里が食堂ダッシュを決めるまでの短い命ではあったが、誰もがその最後に安堵したという。


「ブラジャーって水着みたいにかわいいのがいっぱいあるんだねえ。ボク知らなかったよ。日向クンにも似合いそうなのがあったよ」
「あってたまるか」



少し先の話。
絶望的な絶壁と評された彼女の胸は、二年後にEカップに届き罪木と並ぶ。「日向はいったいどういう育成をしたんだ」と周囲にさらなる畏怖を抱かせることになるが、それはまだ誰も知らない未来である。



布と布のあいだ/おわり。 



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2013/03/03



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