春中旬// 1、42kgの猫




「え、やっぱり入学を辞退したい!? 狛枝くん、入学式まであと一週間だよ、何が気に入らないんだい?制服かい?まあうちの制服が地味なのは認めるけど、それはあえてみんながカスタマイズしやすいようにしているんだよ。完成型じゃなく素体なんだようちの制服は、着崩し前提なんだよ。あ、制服じゃないのか。じゃあなんでまた……
……ああ、うん。 君は、本当に賢いね。何故だろうね、君の賢さは悲しい。
確かにそういう意見も、研究チームの中にあった。君の「幸運」は効果が大きすぎる。この学園においてもおそらくなんらかの悲劇を巻き起こすだろうし、その際に被害に遭う可能性が高いのは二人といない才能を持つクラスメイト、及び研究員だ。
宇佐見学級には入れず、研究棟登校だとか、地下施設寮だとか、そういう隔離をしたほうがいいという意見は、確かにあったんだよ。
なぜそうしなかったかわかるかい? それはもちろん、希望を信じているからさ! ……はは、おもしろい顔だね。こういうの好きかと思ったんだけど。やっぱり納得しないか。
うん、根拠は、ある。
先日はち合わせた「日向創」くんを覚えているよね? 彼が正式に本科への編入を了解した。それならば狛枝凪も宇佐見学級へ入れて、その経過を観測すべきだということになったのさ。むろん君の「幸運」への懸念が消えたわけではないんだけれど、それでも、研究員にとってはこれほどに魅力的な状況は…… 日向くんの「才能」が何かっていうのは、まあ、来週わかるよ。だから入学式においで。あとよだれふいて。
狛枝くん。
君がもしも本当の本当に、普通の高校生になりたいのなら、日向くんのそばにいることだ。
それは研究チームの願望でもあるし、学園長としての依頼でもあるし、君と年の近い娘を持つ父親の、ささいな……うん、そうだな。おせっかい、かな」



甘い雨のようなコンサートピアノの音色が、春の日差しの満ちた音楽室に響く。部活に励む生徒の声も遠い。昼と夕暮れのちょうど真ん中の時間だった。
日向創がピアノを弾く姿は、どこか武道のなにかのようにも見えると狛枝は思った。指先は繊細に動いているのに凛として、きれいなのに強い印象がある。
入学して日も浅いころ、クラスの何人かで学校中を回った。研究棟や予備学科の校舎にはもちろん行かなかったが、実技教室の集まる棟でこのピアノを発見して、どういった会話からだったか、放課後に彼のピアノを聴く一人だけの聴衆となれたのだった。
「久々に弾きたくなってさ、昔習ってたんだ。やめた理由?……ツマラナイから、かな」
そんなふうに言っていたわりに、口振りからするとブランクもあるわりに、日向の演奏は巧いほうだろうと狛枝は推測する。
残念なことに彼女の情報摂取の手段は読書に偏っていて、音楽や映像のたぐいはそれほどインプットされていない。
音楽は本と違って媒体ひとつあればいいというわけにはいかなかったので、あまり聞き込んではこなかった。だから日向の腕前が一般的にいってどれほどのものなのかは判断できないのだが、普通に、巧いのではないだろうか。
それに彼の音はとても心地いい。それを告げたことで、こうして時折、日向はピアノを弾いてくれるようになった。
実は自分は音楽が好きだったのだろうか、と狛枝は自問する。
他のものをやはりあまり聴かないままだからその判断は保留だが、日向のピアノはいつまでも聴いていられたし、「音楽室行こう」と誘われるときのかすかに胸の奥をくすぐられるような感じも、この音楽室も好きだった。
ピアノを聴くときの定位置になった、窓際に寄せてある予備のピアノ椅子に座り、かすかに紅の混ざる白い髪を春風にくすぐられながら狛枝はその音に耳を預けている。
曲目は、「美しい破滅」だったか。物騒な名前のわりに平穏な日常にも聞こえる曲で、だからこそ破滅なのだろうか。
金にかすかな緑の混ざる猛禽類めいた瞳は、まっすぐに鍵盤を見ている。
少しだけ、不満になった。
(確かに、日向クンのピアノを聴くのは好きだし、弾いてる日向クンを見るのも好きだけど)
狛枝は椅子から降りて、軽い足音で日向に近づいた。そのことで演奏を止めた日向の怪訝なまなざしに言葉では答えず、黙って彼の椅子のわずかな空きに座り、「んーーー」とかなんとか言いながら体の側面でぎゅうぎゅう押した。
その力自体は日向にはなんの影響もなかっただろうが、意図を察した彼は少しずれて狛枝のぶんのスペースを空けてくれた。もともと連弾用の椅子である。
おさまりの良い場所に落ち着き、ぎゅっとその肩に肩を寄せた。日向の体温と視線と意識を得たことで狛枝は満足した。
「えへへ」
「??? なんだ、どうしたんだ?」
要求がまったくわからないと顔にも声にも出しているくせに、一瞬前まで鍵盤に触れていた手は狛枝の頭を撫でてくれるのだ。しっぽでもあればちぎれんばかりに振っていただろうが、しっぽがなかったので肩口に額をすりつけた。
「ピアノは、今日はもういいのか?」
「うんっ」
「……ごきげんだな?今日の曲、そんなに気に入ったのか?お前のツボはよくわからないな」
「んー?んふふふ」
頭と、背中にかかった髪も撫でられて、小泉おすすめのトリートメントをしてきた甲斐があったとひっそりと誇らしくなった。
初めて彼に髪を触れられたのも、この音楽室だった。日向は狛枝の髪の感触が好きだと、見て思ってたときよりも気持ちいいと髪束を手のひらに流してそう言ったものだった。

入学して日の浅いうちは、狛枝は日向への距離をつかみかねていた。学園長に言われたから、というのをいいわけにして日向の近くをつかずはなれずでうろついていたものの、もっと踏み込みたいような、いっそ離れてしまいたいような、どうしたいのかもわからないもどかしさを抱えたまま、とりあえず薄いガラス一枚を隔てて、笑顔をはりつけて彼のそばにいた。
ききたいことはたくさんあったし、問いかけもした。
けれどたぶんどれも本当に彼女が知りたいことではなくて、ただひたすらに「何か」が起きるのを待っていたのだと後に思った。
その「何か」は何度目かの音楽室で訪れた。
陽気と甘い音色に誘われて、つい窓枠にもたれて少しだけ眠ってしまった。ふと目が覚めるとすぐ近くに日向がいて、それはいつも隔てていたガラスの内側で、だから、そっとのばされた指をそのまま受け入れた。
どこか遠慮がちにおそるおそる撫でてくるその指のほんの先だけじゃ足りなくて、手のひらで撫でてほしかったから「もっとして」と夢うつつにぼやけた視界で舌たらずに要求した。
指先はとまどったように固まって、それから、彼女ののぞみどおり、もっと、大胆に。指先で地肌をなぞるような、手のひらで髪をすくうような動きになった。長い指が体温を伴って触れる。動作は大きいくせにゆっくりしていたものだから、狛枝はうっとりとそれを受け入れた。そして徐々に意識からもやが晴れていくにつれ、ようやくなにが起きているのか認識した。
すっかり夢から覚めた狛枝の瞳に、日向は気まずそうに手をひっこめてしまった。
薄いガラス越しだと思っていたものは、もっと分厚かったのだと知った。それがとりはらわれたことで。
遮るもののない日向は、鮮やかだった。
「……日向クン」
「……なんだ」
「ボクにも日向クンの髪、撫でさせて」


日向創と狛枝凪の二人は、たいてい連れだっている。本科生ならばたいていがそう認識している。
誰が言い出したか「草餅と桜餅のペア」というのは妙になじんだ言い回しで、二人は恋人どうしには見えなかったが他人ではなく友人でもなかった。つまりはそういうペアなのだろうということで納得されていた。少なくとも、その当時は。


教室内はざわめいて、そこかしこで適当なグループになって雑談が繰り返されている。
「ミナサーン、今は遠足のための学級会でちゅよー。クラスのみんながらーぶらーぶなのは先生もうれしいけど、個人情報の交換は休み時間にやってほしいでちゅ、今は一応授業中でちゅよー!」
担任の声もどこ吹く風である。いつもならばリーダーシップをとる十神ですら、パンフレットを広げ、澪田や左右田たちと楽しげに、どこかおさない様子ではしゃいでいる。狛枝もパンフレットを手にとった。
「日向クン、日向クンは遊園地ってどの乗り物が好き?」
困ったように日向はパンフレットを適当にもてあそび、それからいつになく小声で言った。
「行ったこと、ないんだ。だから何が好きかわからない」
ぱっ、と狛枝の顔が輝く。
「そっかあ、ボクもだよ!じゃあいっしょにいろんなの乗ってみようねぇ、ふふ、楽しみだねっ」
邪気のない狛枝の笑顔に、少し日向は何かを探そうとして、それから安心したように「ああ」と微笑んだ。
「それにしてもこのネズミ、かわいくないな……狛枝、こういうの好きか?」
「ボクは日向クンが好きだよ!」
「猫とかのほうがかわいいと思うんだがなあ」
「わあ、スルーされた」
しかしアンテナがそわそわしているので、狛枝は言うほどは無視されたとは思っていない。アンテナの先端をちょんちょんと撫でてやると、「ひ、人前でそんなところ触るな!」と怒られた。
「猫といえば日向よ」
隣のグループでなんだかんだと騒いでいた田中が、くるりと振り返ってきた。
「貴様がこの異世界へ召還されて右も左もわからずにいたあの時、俺にうちあけた魔獣ケット・シーとの接触は順調か?」
「入学したばかりのころに相談した野良猫との話だな。ああ、田中のアドバイスのおかげでうまくやれてると思うよ」
「そうか、それはなによりだ」
「野良猫、ってなあに?ボク、日向クンと入学してから学校の中ではだいたい一緒だったけど、猫なんて見たことないしそういう話も聴いたことないよ?」
「ん、まあ、うん。ほら狛枝、メリーゴーランドの写真だぞー、きれいだなー?」
「破壊神暗黒四天王を統べる田中キングダムの王、田中眼陀夢クンなら教えてくれるよね!」
「むろんだ白き暗黒妖精よ!」
「それ白いの?黒いの?」

田中独特の言い回しをまとめると、つまりはこういうことだった。
日向は入学したばかりの頃、野良猫に懐かれていた。その猫は、近づいてくるくせにどこか警戒した様子も見せていた。一定の距離を空けたままだった。日向もその猫に好意を持っていたので、もっと仲良くなってみたいが、無遠慮に距離をつめては猫に嫌がられるかもしれない。超高校級の飼育委員ならばどうする?日向はそう尋ねたのだった。
田中の答えは、こうだ。
獣というのは本質的な意味では飼われることのない生き物だ。まず、所有しようとしてはならない。あちらから近づき、そしてここが自分の居場所なのだと確信する、そういうふうにしなければならない。
あちらが近づこうとしているのならば、日向へ興味と好意があるのは間違いない。だから、もっと近づけるようにしてやるべきだ。
たとえば他人の気配を遠ざけた場所に行く。そのうえでエサだとか、居心地のよい何か、寝床だとか、そういうものを用意して、待つのだ。
触れてもいい頃合いは、その時が来れば必ずわかる。

「へー、野良猫の餌付けなんかしてたんだね日向クン!」
「いや、うん、野良猫っていうか餌付けっていうか軽い気持ちでそんな言い回しにしちゃったというか」
「なんで目が泳いでるの?」
「ふはははは!日向よ、今更なにを恥ずかしがるのだ!俺に誇らしく「やったよ田中!お前の言うとおりにしたら撫でられたよ!」と報告してきたではないか!」
「まあ田中さん、今の日向さんの声真似、あまり似てはいませんでしたがすごくさわやかでしたね!もう一度お願いします!」
「よかろう!「最近は俺の作ったものも食べてくれるようになったんだ、あいつ痩せてるからなあ、もうちょっと太ってくれるといいんだけど」」
「うあああああ!田中!田中たのむ黙ってくれ!!」
真っ赤になってアンテナもまっすぐに立てた日向が田中を押さえ込もうと立ち上がる。
「いいなあその猫。日向クンのごはんもらって、撫でてもらえるんだ」
「……おい狛枝。テメエ、今日の昼飯は何だ」
「え?九頭竜クンも知ってるじゃない、今日は日向クンの作ってくれたお弁当の日だよ?」
「ああ、うん……そうだな……」
日向、と辺古山の静かな声が彼を呼ぶ。なんだかごちゃごちゃした騒ぎがそれでいったん静まる。
「その猫、痩せ型だそうだが目方はいくつだ」
日向は目線を泳がせた。教室の隅を見て、天井を見て、それから、観念したというように、言った。
「…………42kg」
西園寺が電子生徒手帳を開き、なにかの項目を見たのちに「うげえ」と言いながら狛枝を見た。なぜそうなるのか狛枝にはわからない。
というより、42kgの猫というのは。
「へえ!でっけえ猫だな!」
屈託のない終里の声に、狛枝もうなずく。それは、猫ではなく山猫とか虎とかそういうものではないだろうか。
そんな猛獣に懐かれて、日向は大丈夫なんだろうか。
「でかい猫さらに太らせてどーすんだよ? あ、わかった! 太らせて食うんだな!そうだろ日向!太らせて!食っちまうつもりなんだろ!?ぺろっと!なあ!」
日向は床に「orz」の状態でへたりこんでいる。
なんだかひどく脱力しているようだったので、狛枝は近づいてしゃがみこみ、撫でてやった。
終業のチャイムが響く。
「ああー……ホームルームが……もう遠足の班分けとか席順とか提出しないといけまちぇんのに……」
担任の嘆きは誰も聴いていない。かわりに、
「一言でいいから否定しろよ」という西園寺の言葉が響き、教室内のほとんど全員がうなずいたのだった。

うなずけなかった側の少数派である狛枝は、ふと気付いた。
クラスのみんなと、こうして騒ぎあっている。編入前には考えられなかった世界だ。それまで、狛枝にとって「教室」とは、ナイフが敷き詰められた床と空気いっぱいに満ちた針でできた場所だったのだ。
これはもしかして、普通の高校生の生活なのだろうか。
入学式の一週間前、学園長との面談を思い出す。
「君がもしも本当の本当に、普通の高校生になりたいのなら、日向くんのそばにいることだ」
学園長は、そう言った。そして今、まさに普通の高校生のような学園生活を送っている、気がする。
学園長の言葉があったから日向にまとわりついた、それも事実だ。でも、今は、いや、おそらくは出会ったときからずっと。
ただ近くにいて、彼を知りたい。
わきあがる欲求はそれだけで完成していて、理由は無かった。たとえ普通になれなくたって、ナイフと針に血を流し続けることになったって、やっぱり彼の近くに行こうとしただろう。
狛枝自身がそうしたいから、そうしているだけだ。
ここはとても居心地がいい。謎はまだあるし、それらをすべて知る日がたとえ訪れないのだとしても。

42kgの猫は、ひだまりで笑っている。





42kgの猫/おわり。



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2013/03/03



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