春上旬// 3 普通について




「はい、学園長。俺……僕を、本科に、という申し出は、本当にありがたく思っています。でも、どうしても、予備学科ではだめなんですか?
「超高校級の普通」って、それはつまり才能が、……才能が、ない、ということでしょう。そんな身で本科に入るなんて、希望ヶ峰の汚点です」
「いいや。評議委員の満場一致で、君には才能があるという判断が降りた。「超高校級の普通」は、紛れもなく才能だ」
「それは評議委員じゃなく、アイツがごり押ししただけでしょう」
「評議会は入学基準に関しては厳格だ。……どうあっても本科には転入したくないのかい?」
「仮に。仮に、その「超高校級の普通」という才能が本当に僕にあったとして」
「あったとして」
「その…… 普通、って。どういうことですか。入学後もしも「普通」でいられなくなったら、希望ヶ峰の判断が間違っていたということになってしまうわけで、そんなことになったら俺は希望ヶ峰にどう償えばいいんですか」
「君はマジメだなあ」
「学園の望む「普通」で居続けるなんて、どう努力すれば」
「日向マジメくん」
「……はあ」
「ううん。どうしたら納得してくれるのかなあ……」


希望ヶ峰学園第一図書館は、ちょっとした騒ぎになっていた。つねならば超高校級の図書委員が図書館の平穏を守るのだが、その図書委員すらも騒ぎに興味津々ゆえに、騒ぎは騒ぎのままだった。
第一と言うからには第二も三もある。
ほぼすべての生徒が例外なくなんらかのプロフェッショナルであるこの学院では、生半可な書籍ではデータベースとしての役割を担わない。それゆえ、図書館の蔵書は膨大なことになる。


「マジでふつうだ」
「うおお、すげえ、ふつうだ」
「ねえねえ、キミ、好きな食べ物って何?」
「……草餅、デス」
「ふつうだー!!!!」

らーぶらーぶな読書体験をしてほしいんでちゅ。すてきなご本を探してきてくだちゃいね。読んだら読書感想文にして先生に教えてね。
そんな担任からの課題により、放課後、宇佐見学級の生徒たちはぞろぞろと図書館にやってきた。
そして図書館に来るやいなや、日向創はたちまち上級生たちに取り囲まれたのだった。
「あ!ねえねえキミ、新入生の!「普通」くん!」
「うわ、まじだ、近くで見ても普通だ!」
「……どうも……」
「ふつうだ!」
超高校級はそれだけでも芸能人レベルの扱いを世間から受けるものだし、実際に芸能活動を行う者も少なくない。
が、そこにのこのことミーハー心丸出しで近寄るのはなんというか自身も超高校級である以上はプライドが許さないというか、不作法であると彼ら自身にストッパーがかかっている。
しかし「超高校級の普通」にそれは適用されなかった。
もともと噂にはなっていたのだ。
図書館に現れたその存在に、居合わせた上級生たちはこぞってむらがった。
遠慮のない態度はそもそも下級生だからか、「才能」がないからか。すっかり包囲される直前、日向は伴っていた狛枝の背をそっと押して、それはそれはさりげなく彼女を遠ざけた。

苦笑いしながら、先輩たちの悪意のない不躾な質問に応じる。その日向の姿に、十神は「やれやれ」とため息をついた。たっぷりとした肉が揺れる。
「まったく。超高校級の御曹司がここにいるというのに先輩方ときたら」
「うひゃー、ハジメちゃんモッテモテ☆」
楽しげな澪田に「静かに」と一言告げれば「お口チャックするっす」と聞き分けのいい猫のように口をぴたりと閉じてみせる。うなずき、十神は再び先輩方に囲まれた日向を観察する。
「だいじょぶっす」
チャックしたはずの澪田が、わざわざお口チャックを開くジェスチャーのあとに言う。
「すごく困ってるけど、嫌がってはいないっす」
いつもどおりの突拍子もない「遊び」を提案するのと、なんら変わらない表情でそんなことを、この超高校級の軽音部は言う。
「……そうか」
「そうそう」
「ならば俺も課題図書を探すことにしよう。行くぞ」
「はいっす」
そうしてどすどすと歩く十神の後ろを、身軽な澪田がひょこひょことついていった。
ややあって、そこから少し離れた席で、じっと日向を見ていた、白いふわふわの髪の少女も立ち去った。騒ぎに背を向けて、書架の奥へ。

(つまんないの)
狛枝凪は本棚を眺めるともなしに眺めて歩く。
日向と図書館に訪れた瞬間は、膨大な蔵書にわくわくした。どんな本があるんだろうどこから探そう、日向クンはどんなものが好きだろう?そんな気持ちがあとからあとから押し寄せ、本のすべてが宝石か花か、そういうきれいなものに見えた。とうてい食べきれないケーキの山を前にしたこどものようだった。
(つまんないよ)
今、彼女の前のそれらはすべて、印字されたただの紙の束だ。どこかの工場だかで製造された、世界のどこかに数百は存在するものたちの集合体だ。つめたく、なんの温度も持たず、ただそこにあるだけ。
先輩方のはしゃいだ声は照明の差さない書架の奥にまで聞こえてきて、耳障りでうっとうしい。入り口ホールの大きな天窓の下、ああして彼らは日向を独占しているのだ。
狛枝凪は棚から一冊の本を抜き出した。なんでもよかった。耳からなんの情報も入れないためだけに「自然界の毒物について」と書かれたその本の文字を追っていると、手元がふとかげった。

「キミ、今年の「幸運」なんでしょ? 今年のはずいぶんかわいいんだね」
振り返るとにこにこした黒髪の男が、影で狛枝を覆うように立っている。
才能持ちの大多数のルールにのっとって、美形、である。背も高い。日向と同じくらいだろうか。
「俺、「超高校級のプレイボーイ」なんだけど。知ってるよね?モデルやってるし本とか出してるしテレビにも出るし」
照明を落としたあとにうろつきだす蚊を見る目で狛枝は彼を見るが、鈍いのか慣れているのかまったくこたえた様子は無い。
「今年も新入生ってかわいい子ばっかりだったけどさあ、キミ、いいよね。ねえ、なんか探してんの?手伝う?それともどっか遊びいかない?」
少し前までの狛枝なら、喜んでついていっただろう。それは彼がイケメンだからでもひとあたりのいい笑顔だからでもなく、つまりは「超高校級」だからである。彼のことはもちろん知っていた。狛枝凪の脳内には、この学園の生徒すべてのプロファイルがある。
ただ一人、日向創以外は。
(どっかいってよ)
言葉にするのも面倒で、受け入れるつもりはないと目で告げる。
人形のように整った容貌の少女の、冷えきった翡翠の瞳にひたりと見据えられ。それだけで並の男ならばしっぽを巻いて逃げるところだ。だというのに、彼はへらりと笑って彼女の腕に手を伸ばした。
「ねえ、カラオケとかさ」
「悪い。待たせた、狛枝」
ひらひらした芯のない声を、真逆のきっぱりとした、竹のような声が貫く。
「日向クン!」
パァアアアァ、と顔を輝かせ、狛枝は先輩の脇をなんなくすり抜け彼のもとへ駆け寄る。日向は少し乱暴に、ぐいと狛枝の細い薄い肩を抱き寄せた。おもちゃをとられまいとする子供のように。
「……どーも、先輩」
「どーも。普通クン」
強い日向の眼力にもやはりひるむことはない。超高校級のプレイボーイとは、つまりそういうことである。いちいち人の感情に怯んでいてはつとまらないのである。
「ふうん」
プレイボーイはわざとらしく日向のつま先から顔立ちまでを検分した。
「……普通、だね。なるほど、ここでは俺よりもてるだろうね。モテってのはつまり需要と供給だ」
「俺が望んだ肩書きじゃありません」
「みんなそうだよ。 幸運ちゃん、コイツが変わってみえるのは、この学園の中だけだってこと、忘れちゃだめだよ?」
白い髪を一筋すくうと、彼はそのまま振り返らずに去っていく。通り道にいた女生徒の何人かがはしゃいだ声で駆け寄った。
「……ちくしょう」
その背中を見送った日向が、らしくもなく乱暴な言葉をつぶやく。それから、片腕のなか、胸板にぴったりと頬を寄せている狛枝に意識を戻した。
「すまん。つい」
「なにが?」
「なにがって」
もちろん衝動的に抱き寄せたことだ。離してやろうとしたが、狛枝はふにゃふにゃとマタタビをかがされた猫に似た、とろけた表情で胸にすりよっている。
「日向クン、おっぱいおっきいねえ」
「おまえはなにをいっているんだ」
「初めて会ったときにもね、ここ、きもちいいなーっておもったんだよ。あったかいね」
心底きもちよさげな少女に、日向はいろいろとあきらめた。そうして、頭を撫でてやった。


学園長との面談は平行線だった。
「超高校級の普通」として本科へ転入してほしいという学園側は、日向を納得させることはできなかった。
学園長はなおも説得を試みたかったようだが、次の面談の予定があるということで彼は解放された。
(結局、俺に選択権がないのはわかってる。いつもそうだったし、これからもそうだ。俺は影だから)
覆らないだろうとあきらめながらもあがくのは、つまりはただのわがままだ。
日差しがまぶしい。逃れたくて、木陰に身を寄せた。
葉と枝の作る影は心地よく、つまり自分は日の当たる場所にはいられない存在なのだというようなつまらない妄想が訪れる。
ふと、額に水滴が落ちてきた。
(……雨?)
空は晴れている。そのうえ、ここは樹の下、多少の雨なら届かないはずだ。
見上げた樹上に、日向創は少女を見た。
それが彼女との出会いだった。


「日向クンは、どういう本が好き?」
狛枝凪はごきげんにきょろきょろとあたりの本棚に目を走らせている。
第一図書館は最も蔵書数のある図書館で、そのジャンルも最大である。
「ボクはねえ、いっぱい読むのは推理小説だよ。本のなかで謎と解決がきちんと完結するのは安心するし爽快だよね。やっぱりそのなかでも古典かな、王道ってかんじで」
「俺は……」
言いかけて、気づく。周囲の生徒たちが、興味のないふりをして日向の返答に聞き耳を立てている。
被害妄想と言うこともできるだろう。だが日向は、それを確信してしまっていた。
どんな「普通」の答えがでてくるか期待しているのだ。
「……日向クン?」
すぐそばで、心細げな声がした。
狛枝が、銀色のまざった緑の瞳で彼を見上げている。
視線をさまよわせた日向は、少し離れたところに目立つピンクの頭を見つけた。なにかを熱心に読んでいる。
「左右田だ」
「あ、ほんとだ。 ……ずいぶん真剣に読んでるね。しかもにやにやしているね。図書館にえっちな本なんてあるのかな」
「いやそういう本って決めつけるもんでもないだろ」
「えー、あの顔ぜったいそうだって」
「……見に行くか」
「いこう」

二人で迂回しながら、忍び足で左右田の背後に回り込む。集中していた左右田にはそこまでせずとも気づかれることはなかったかもしれないが。
目をきらきらさせながら興奮気味の表情で左右田が読んでいた本は、狛枝が推測したようなものではなかった。
「うわ……なんだこれ」
思わず日向が口にしたのも無理はない。
ザ・一色印刷。紙は薄く、文字は明朝体で小さいうえに文章でぎっしり、ところどころの図もイラストの体をなさない設計図そのものである。それを見開き数秒ていど、マンガ雑誌をめくるペースでぱらぱらとめくっていくのだ。
座り込む左右田の横には同じ装丁の分厚い書籍が積みあがっている。狛枝がその一つを手にとり、タイトルを読み上げた。
「機械工学講座、全30巻。第13巻、「機械製図」改訂版」
「……え、これ、読んでるのか?」
「みたいだね」
「嘘だろ、こいつ国語の教科書でも文字が多いってダレてたのに」
「専門分野のことなら読めるんじゃない? ほらごらんよ日向クン、彼のこの顔。まるで河原でエロ本を発見し、それを服の下にかくしてもちかえったのちベッドのなかで読みふける小学生男子のように輝いてる」
「おまえ左右田嫌いなの?」
二人のやりとりも一切耳に入らないままページをめくっていた左右田は、はふ、と幸せなためいきをついて本を閉じた。読み終えたようだ。それからうきうきと続きの「内燃機関・第2版」に手をのばしたところで思いがけず近くにいた日向と狛枝に気づき、「うお!? なんだお前ら声くらいかけろよ!」と後ずさった。
「あはは。ごめんね、左右田クンがあんまりにも楽しそうだったから。これ、おもしろい?」
「あ? ああ、すげーわかりやすいぜ!」
いきいきと答える左右田の後ろで、日向はたった今彼が読み終えた「ボイラ及び蒸気原動機」をぱらぱらとめくって渋面になった。意味がわからなさすぎて目と脳が解読を放棄する。英語のほうがまだわかる。
「図書館ってこんないいもんあるんだな! このシリーズ読みおわったらロボ作れるぜ俺!てか構想はできてきたんだ、ウサミロボとかどーよ!?」
「宇佐見先生が提出してほしいのはロボじゃなくて読書感想文だよ、左右田クン。
もういいや、いこ、日向クン。えっちな本読んでたならソニアさんに告げ口できたのに」
「あ、ああ」
「おい狛枝てめー! ……つーか!」
「うん?」
どうかした?と狛枝は首をかしげる。日向も立ち止まる。
左右田はうろうろと目線をさまよわせ、「あー」「うー」と意味のない言葉をいくつか発してから、切り出した。
「……おまえら、つきあってない……んだよな?
俺の知らないうちにつきあいだした、のか?」
「なにいってんの左右田クン。日向クンがボクごとき相手にするわけないでしょ」
「知り合って日も浅いのにそういう関係になるのは軽率だと俺は思うぞ」
二人の答えは方向がずれてはいるが、つまり結論としては同じだった。つきあっていない、と。
変な左右田クンだねえ、と立ち去る二人を見送って、彼は思う。
じゃあなんで狛枝は日向のブレザーの袖口をつまんでいるのかと。そして日向はとくに疑問にも思っていないのかと。
「あいつら…… つか、どっちかってと、日向…… おかしくね?ふつうの奴って、ああいうもんか?」


初めて彼女を見たときに沸き上がってしまったたとえは、とても恥ずかしい。だから一生口にしないと決めた。
樹の上で泣いているなんて、まずはまっさきに猫にでもたとえそうなものなのに。
抱き止めた彼女は、落下の勢いこそあったものの予想よりもさらに軽かった。
すぐに離してやるのが礼儀だとわかっていた。それでも、今まで抱えたもののなににも似ていないくせにひどく馴染む既視感のある柔らかな体を抱いたままでいた。
日向の両手に小さな手をあてて、彼女は森のうつった湖の瞳で彼を見上げている。花びらにそっくりの唇がゆっくり動いた。
「……キミは、誰?どうしてここにいるの」
彼女にとっては現状把握のための純粋な疑問だっただろう。
だがそれは日向創に彼女の思う数倍の、そしていくつもの刃となって突き刺さったのだった。
どこか浮き世離れした容姿に、その中性的な声はあつらえたように似合っていた。
まばたきすらできずにいる日向に、少女は反対に、長い白いまつげをはたはたと蝶のようにまたたかせた。鱗粉のかわりに星くずがちかちかと落ちるのを見たようで、つまり、それは星くずが落ちているわけではなく、落ちたのは彼女でもなく、要するに、日向だった。


日頃書籍から遠そうな顔をしながら、専門書に関しての異常な読解力を見せたのは左右田だけではない。弐大もまた運動理論の本を少年マガジンでも読むかのように楽しんでいたし、罪木が医学書を読む姿は恋愛小説にのめりこむ少女そのものだった。澪田はバンドスコアを読みながらそれらを「聴いて」いたし、花村に至っては様々な言語で書かれたレシピ本を読みあさっていた。言語はわからなくともレシピ本に限定してはおおよそ把握ができるという。
七海は中世武器やケルト、ギリシア、インド、その他神話関連の書籍をやはり山積みにして「ゲームやるにはこのへんの知識は必須だからね」と鼻息を荒くしていた。一回りしたあともう一度見に行ったら眠っていたが。

「……なんだかんだ言ってあいつらって超高校級なんだな」
日向はため息をついた。奥まった書架と書架の間に鉄の扉があって、その上には「非常口」のランプが光っている。
扉は立地の問題か構造上なのか床より50センチほどたかいところについていて、小さな階段が床までの高さをカバーしていた。
日向はその階段に座っており、隣には当然の顔をして狛枝が座っている。
「俺だけツマラナイ奴だな」
はは、と笑ってみせる彼のその声は空虚だ。狛枝は衝動のままに大きな手を両手でぎゅっと握った。
「つまんなくないよ。ボク、日向クンのこと知りたいよ」
「狛枝、」
日向は目をみはり、何かを言いかけて、それからうつむいた。
皆の「能力」を目の当たりにして、常ならば感動するはずである狛枝だったが、少しずつなにかを削らせながらそれを見せまいとする日向の姿に胸が痛んだ。
自分が極端なのは自覚している。「いちばん」を知ってしまうと、それ以下には興味を持てなくなる。
クラスの皆に興味がないわけでもないが、狛枝のいちばんは日向だった。だから感動よりも心配がさきにたった。
小さな階段は二人で並んで座ると隙間がない。通りかかる生徒もいない。ただ非常灯であることを示す緑のランプが、昼だというのにやけに煌々としている。
「……俺、自分が超高校級かどうかなんて今でもわからない。でも、普通なのは間違いない。このクラスのみんなとは違う。俺にだけなにもない。これまでなにもなかったし、これからだってないんだ」
狛枝は、なぐさめてやりたいと思った。それと同じくらい密やかで甘い独占感に心臓を浸していた。ついさっきまで先輩がたに囲まれて、いつもクラスの真ん中にいて。そんな彼にくっついて回ることを許されてはいるし二人きりになったのだってこれがはじめてというわけでもない。
(ああ……そうか。弱音、はいてるから)
苦しさとは違ったなにかに、狛枝は気づかれないように息をはいた。
それから迷った。こうしたい、ということを思いついてしまい、そんなことをするわけにはいかないとすぐに却下した。けれどそれはしてはいけないと思えば思うほどしたくなるばかりで、もうそれをしなければ呼吸だってできないとまで思えてきた。
「お前はさ、「超高校級」が好きなんだよな。生徒のプロフィール全部暗記してるってうれしそうに言ってたの覚えてるよ。
狛枝は……いつも俺といてくれるけど、だけどさ。それでいいのか? 俺、お前の思ってるようなものとはたぶん違う。珍しいから実は想像もつかないすごいなにかを持ってるんじゃないかって、それを見たくて、だから俺といるのなら、それは…… なにもない。
俺にはなにもないよ、狛枝」
(もうだめ、がまんできない)
だから、狛枝はそうした。
嫌だったら日向はきちんと拒否してくれるはずだというのが最後のいいわけだった。
ゴト、と狛枝が借りるつもりだったミス・マーブルのハードカバーが落ちた。大きな衣擦れの音と、日向の狼狽した声は誰にも聴きとがめられなかった。

「……こまえだ?」
戸惑った声とかすかなみじろぎに、狛枝はぎゅうっと抱きしめた。日向の頭を、両腕で抱きしめた。嫌なら振り払ってほしいと一瞬前まで思っていたはずなのに、そうされるのがいやだったから。
「ひなたくんには、なんにもなくないよっ」
「ちょ、こま、こまえだ、」
日向がもぞもぞ動いているのは胸に顔を埋める形になりかけているからだ。今は鎖骨に押しつけられているが、それだって十分に体温と匂いがやばいし狛枝の腕の力が少しずつ強くなっている。
「ボクにはわかるもん、だってボクは希望の気配がわかるんだから!」
「わかった、わかったから一旦、」
「……初めて会った日。ボクを、助けてくれたでしょ?」
「あれは……あれは、たまたま通りかかっただけで」
「でも、通りかかったのはキミだったんだ」
戻ることも進むこともできずにいたところへ現れた彼には、意味があったのだと狛枝は信じている。狛枝は己の才能と、その因果を信じている。
それと、日向のことも。
ひとめ見たときから、ずっと思っている。結末のわからない推理小説を読みすすめるような、止まれない欲求で。
「俺、ここにいてもいいのかな」
つぶやいた日向に、あたりまえじゃない、と狛枝は返す。
「希望ヶ峰が日向クンに来てって言ったんだよ?それに」
「それに?」
「キミがいないと、ボクがつまんないよ」
優しく抱きしめなおした狛枝に、とうとう日向は力を抜いて体を預けた。
(だっこしても、日向クンはあったかいなあ)
つむじに頬を寄せてみる。
「……ねー、日向クンは、どういう本がすき?」
いつもどおりの声にするつもりが、妙に甘くなってしまった。気恥ずかしさをお互いに感じながら、日向もまた普段どおりの声で答える。
「今は料理本とか……一番読んだのは時代小説だな。特に、江戸とか幕末とか、そのへんの」
「へえ」
「……普通だろ?」
「さあ。ボク、普通って実はよくわかんないから。でも、なんか、日向クンっぽいね。
……ふふ、日向クンっぽい、だって。そんなのわかるくらい、ボク、日向クンのこと知ってるんだよ」
「狛枝……」
「ふつうなところも、全部まとめて日向クンっぽいんだよね、きっと。それでボク、日向クンの日向クンっぽいところが好きなんだ」
「……俺っぽくないところ、これから見つけちまったらどうするんだよ」
「キミがすることは、どんなことだってキミらしいよ。これからボクの想定してなかったことをするかもしれないけど、ああ、こういうのも日向クンなんだなあ、って思えるから。だから想像つかないことも、もっとしていいよ」
彼と出会った意味を知りたい。ページをめくるように時間を重ねていけば、きっといつかたどりつく。
日向が腰に腕を回して鎖骨に顔を埋めなおしたので、狛枝は、そっと抱き直した。



風呂上がりの日向は、髪をタオルで拭いながら机の上に置いたままのそれを見た。
「希望ヶ峰学園 編入届」と書かれたそれは白紙のまま。今も提出期限が刻一刻と迫っている。
樹の上にいた少女を思う。狛枝凪。「幸運」により学園に選ばれたのだという。だから高いところにいたのか、と反射で思って、はずかしすぎる例えを封じ込めきれなかったことに少しあきれた。
学園長室に送り届けるまでの短い道行きだった。
「日向クンも転入予定なの? じゃあ、転入したら来年の春にはまた会えるのかな」
うまく答えられずに口ごもったのをどうとらえたのか、なぜか「ごめんね」と謝られた。
「ボクね、転入、迷ってるんだ」
「え?」
「ずっと憧れてたから。希望ヶ峰はね、遠いところでキラキラしてる星だったんだ。
その星の中にボクがいても、それって、そのままなのかなあって」
肝心なところをぼかす言い方は、あえてのものなのか、言葉が見つからなかったのか。
「そうか。俺もだよ。迷ってる」
日向もどうとでもとれる返しをした。聞きようによってはぞんざいな相づちだっただろう。
それでも彼女には、どんな言葉よりも間違わずに彼の気持ちが届いただろうと、返事の代わりの視線ひとつでなぜか確信した。
何故だろう。彼女とは、同じなにかを探している気がする。
「狛枝は、希望ヶ峰に入ったほうがいいよ」
なんの根拠もないが混ざりけのない本心だった。狛枝は立ち止まった。言葉の意味を少しずつ飲み込むように、考えている。彼女が顔をあげると、ふわりと白い髪も揺れた。
「……日向クンは?」
問われて日向も立ち止まる。
「日向クンってどういう「才能」で希望ヶ峰から声をかけられたの?」
「俺は……まあ、なんでもいいだろ」
「よくないよ」
歩き出す日向のあとを狛枝が追う。
そこでちょうど。本当にちょうど、学園長室の扉の前に辿り着いた。
重厚な扉に、狛枝も目的地がここであると察したようだった。
ノックのあと、扉を開ける。学園長はついさきほど辞したはずの日向が現れたことをいぶかしんだが、その影から現れた狛枝を見ただけで状況を把握した。
案内してきたことと二度目の退室の挨拶をして、そのまま背を向ける。
入り口から一歩も動かないまま、心細さをうつした瞳で日向を見上げる狛枝にも何か声をかけようとして、なんと言えばいいか考えた。考えて、告げた。
「春になったら、会えるといいな」

日向はタオルを置いて、髪も濡れたまま机の前の椅子に座る。
それから筆立てからボールペンを取り出して、編入届の項目を埋め始めた。
春になれば、会えるだろうか。



ところでまともな読書感想文を提出したのは日向と狛枝だけであった。
クラスメイトの半数は感想文ではなく読んだ本に基づくレポートだったし、残り半数は成果物の提出をもって達成、と本人たちはなんの疑いもなく信じていた。比較的常識人である小泉すらそのありさまだった。
ちなみに終里は絵本を弟妹たちに持ち帰っており、なぜか感想文は彼らが書いてきた。輝かしい笑顔でちいさな子供たちがチラシの裏にかきつけた作文の束を渡され、担任も「これじゃだめ」とはとても言えなかった。
「もちろんあちしはミナサンの自主性を大事にしてまちゅ。だからこれはこれでスバラシイ結果なのでちゅ、ミナサン図書館をめいっぱい活用して、読書を楽しんでくれまちだから。
でも、でもね? やっぱり、読書感想文、っていう課題なんだってこと、もうちょっとくらい、覚えててくれる人、いればよかったなー、なーんて……」
はふ、と泣き笑いになって、日直として返却物をとりにきた日向と狛枝にそんなふうに語ったのは、たった二人だけの読書感想文提出者だったからだろう。ちなみに狛枝もけっこうギリギリなラインで、題材にした小説のトリックに関する反省点と改良について述べられたレポートに近いものであった。
「日向クンがいてくれると、とっても安心しまちゅ。ふつうの生徒サンのありがたみがしみいるでちゅ」
狛枝は、ちらりと日向の顔をうかがった。彼は穏やかな様子だったので、ほっと息をつく。
日向は言った。
「普通なのが俺ですから」
な?と笑いかけられて、狛枝も笑った。




3 普通について 終



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2013/02/28



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