春上旬// 2 はるはあけぼの




狛枝凪は、迷っていた。
希望ヶ峰学園の中で、ふたつの意味で迷っていた。
一つは、この学園に編入すべきか否か。
これに関して言えば、感情では文句なしに編入したい。彼女は「超高校級」の存在に憧れていた。ネットや雑誌で彼らの情報を集めるだけで幸せだったし、その中で学校生活を送れるなんてまさに夢のような話だ。
理屈では、やめるべきだと知っていた。
希望ヶ峰学園が認定した狛枝凪の「才能」は、学園の中でもおとなしくしてはいないだろう。人類の希望が集まる学園の中で、大惨事を引き起こすだろう。
希望ヶ峰学園という存在を、狛枝凪は愛している。希望の価値を知り、それを集めて育成するという思想はすばらしい以外に形容できない。
(でも、だからこそ、近づいちゃいけないんじゃないだろうか)
そんなふうに迷っていた。
もうひとつの意味での迷いは、現実の状況としての迷いである。迷子である。
編入通知を受けて、入学に関して迷っているとメールで伝えたところ、学園長から直々に「少し話をしよう」と言ってくれたのだ。
入学するにしろしないにしろ、これを受けない話はなかった。希望ヶ峰学園の学園長に面会できるなんて、これはもう憧れのスターと会話するに等しい。
が、校舎の中で、迷った。
きちんと受付で入館証明をもらい、どきどきしながら案内板のとおりに歩いていったはずなのに、どこをどう見ても校舎とは言いがたい、なにかの研究施設のような場所に迷い込んだ。
狛枝は知らなかったが、そのとき彼女が歩いていたのは校舎とは少し離れた研究棟、その3階であった。そしてそんなところに迷い込んだのは、たまたま、のちに「超高校級のギャル」として入学する少女が希望ヶ峰学園に忍び込み、ちょっとした遊びをしていたからである。
(ど、どうしよう……約束の時間、どんどん近づいてるよう、学園長先生を待たせるなんて最低だよ! ああ、しかも携帯の電池もきれちゃってるし誰もとおりかからない!)
泣きたい。ぐるぐる歩いているのに階段も見つからない。もときた道をひきかえしても、ここから学園長室までは遠い気がする。窓の外にはこの無機質な建物と違う、いかにも校舎といった様子の茶色の建物が見えて、できることなら今すぐあそこまで飛んでいきたい。
(見えてるのに、行けないなんて)
そして狛枝は、ふと気づく。
窓の近くに、木の枝が張り出している。
窓枠に足をかけて木に飛び移るのは簡単なように見えた。
そこから降りることも。
(……よし)
狛枝は窓を開けた。



昼休み、である。
希望ヶ峰学園にはもちろん学食もあり、そこでは超高校級の料理人が腕をふるった料理が超高校級のギャルソンやらメイドやらにふるまわれている。
学費らしい学費をほとんど払わない本科生たちにはそれらの食費も破格で提供されるのだが、家庭の事情、ポリシー、宗教上の関係、暗殺回避などの目的で弁当を持参する生徒もいる。
日向創は弁当派である。家庭のしつけの関係だかで、食費も含めた生活費をやりくりしているのだという。
「普通の高校生ってそういうことあんま考えないもんじゃねえの?かーちゃんが作った弁当もたされるとか、昼メシ代渡されるとかでよ」とは左右田の疑問だが、そんなことを言われても日向も困るし、もともと料理は嫌いではない。
「今日も日向クンのお弁当おいしそー」
日向の席の前に座って、明太フランスパンの封をきり、紙パックのいちご牛乳にストローを刺した狛枝が日向の弁当をのそきこんでいる。
昨夜の残りだという煮物、唐揚げ、卵焼き、ほうれん草のおひたしなどが入っている。ありふれた、それこそ「普通」の弁当だが、これを男子高校生が制作したとなれば、左右田ではないが「普通」とは言いがたい。
「お前は今日も昼、それだけなのか?」
これは日向ではなく、日向に引きずられて一緒に席を囲むことになった「超高校級の極道」九頭竜である。
彼の昼食は、昼休みになると構成員が運んでくる。どこぞの料亭の松花堂弁当だ。敵対する組に薬を盛られるのを防ぐためだそうだ。
「うん。今日はちゃんといちご牛乳と明太フランスパンが買えて幸運だったよ。いつもどっちかしか買えないから」
「それ、食い合わせとしてどうなんだ?」
入学式からやたらに周囲を威嚇していた九頭竜は極道というよりチンピラ、むしろ鉄砲玉の風情だったが、日向になんとなく声をかけられては応じるようになって一週間。早くもなんとなくクラスになじみつつあった。
小学校、中学校と、級友と昼食をともにすることが一度もなかった九頭竜が、弁当の中身はどうあれ教室の一角でクラスメートと弁当を食べている。これは普通のことに見えて実はとんでもないことだった。
よかったですねぼっちゃん、と、手製の弁当を少し離れた席で食しながら九頭竜にはじめて友人らしい存在ができたよろこびを噛みしめる存在がいるが、彼女と彼の関係がおおやけになるのはもう少し先のこと。
ちなみに超高校級の極道、九頭竜冬彦が日向の普通の友人になる、これはのちに「日向無双」といわれる伝説のほんのプロローグである。
「日向クンて卵はおさとう入れる派?」
「砂糖は入れない。しょうゆと出汁だ」
「へー。ふふ、今日も日向クン情報をいっこ増やしたよ」
にこにこ笑う狛枝が九頭竜にはおもはゆく、居心地が悪い。パンと牛乳(のようなもの)だけの少女のまえで、贅をつくした弁当を食べているのも、どうにも仁義に反する気がする。しかし弁当をわけるというのは年頃の男女としては破廉恥だ。
(ペコ…… ペコ、来い!そしてできれば狛枝に食い物をわけてくれ!)
九頭竜の念は「届くわけがない」と本人が感じながらのものだったが、辺古山がぴくりと動いた。彼女が迷うあいだに、日向は狛枝に話しかける。
「……腹へらないのか?いつもパン一個とジュースだけで」
「ボク、あんまり食欲ないみたいなんだ。2、3日食べなくても平気なんだけど、そのまま数日過ごすと倒れちゃうから一応なにか口にする、って感じかな。
今も食べなくたっていいんだけど、さすがに手ぶらでボクが近くにいたら日向クンも食べにくいでしょ?だから入学してからは、平日のお昼は毎日食べてるよ!」
「待て。お前、朝は何食ってるんだ」
「朝から食事するのってしんどくて」
「夜は」
「あはっ。寮の食堂に行くこともあるよ」
「行かないこともあるのか。それはつまり部屋の簡易キッチンで」
「本とか読んでるとつい忘れちゃって」
「……料理は、するのか?」
「刃物と火の凝縮したエリアなんて、おそろしくて近づくのもごめんだよ! ボクがキッチンに立ったら、血の惨劇か、爆発事故か、人肉入り料理になるに決まってるもの!」
食ってるときにえぐい話すんなと言いたい九頭竜である。
というか彼女はそこまで不器用なのだろうか。まだ知り合って一ヶ月も経ってはいないが、多少どんくさいような気もするものの、どちらかといえば小器用な印象なのだが。
「狛枝」
「なあに日向クン」
「ん」
ずい、と箸でつまんだ唐揚げを口元に運ばれて、狛枝は、目をまたたかせた。
それから何の抵抗もなく、まるで何度もしたことがあるかのように、はく、と唐揚げを食べた。
「……(もぐもぐ)」
「うまいか?」
「(こくこく)」
「そうか、偏食ってわけでもないのか」
「(ごくん)日向クンがくれたものを無碍にするわけないよ! この唐揚げおいしいね日向クン!」
「気に入ったか、そりゃよかった。漬けダレにコツがあるんだ、作り方教えてやろうか?」
「遠慮しとくよ、ボク、料理は一生しないって決めてるから!日向クンの時間が無駄になっちゃう。……あれ、九頭竜クンどうしたの?」
「ん? おいおい、どうしたんだよ九頭竜」
金色に緑がかすかにまぶされた瞳と、銀色まじりの緑の瞳が見る「超高校級の極道」は、真っ赤になっていた。茹で蛸のように。
日向はのんびりと唐揚げを自分の口に運ぶ。
「お、お、おま……」
「「?」」
「おまえら、何破廉恥なことしてやがるんだ!!!!」
はれんち。
教室内のいくつかの視線が三人に集まる。いちばん騒ぎ立てそうな花村は、もちろん厨房にいる。
見に覚えがないというような顔をしていた日向と狛枝が、数瞬前までの自分たちの行動をトレースし、そして同じタイミングで顔色を変えた。
日向は唐揚げを飲み込んでわずかに頬を染めた程度だったが、狛枝は真っ青になってあわあわと慌て出す。
「すまん、狛枝…… なんかすげー自然にやらかしちまった……なんだあれ……」
「ボ、ボク、ボクのほうこそごめんね、なんであんなふつうに食べちゃったんだろ、床に転がしてくれればそれでよろこんではいつくばったのに、あああ、ごめんね、お箸洗ってくるね、あ、ううん、もう使いたくないよね、ほんとにごめんね、ちょっと購買部いってあたらしいの買ってくるからまってて!」
「あ、いや、いい……もう使ったし……」
「なんだと!?」
この激昂は九頭竜である。彼はわなわなとふるえながら、
「て、テメー……! そりゃあ、アレか!?」
「アレ?」
「結婚もしてない男女が、そんな、そんなことを……!」
「お、おい、アレってなんだよ九頭竜」
そわそわいそいそとやってきたのは食堂での食事を終えて教室に戻ってきた左右田である。
九頭竜は真っ赤にさらに真っ赤を重ねた顔で、羞恥に耐えながらその単語を口にしようと奮闘する。
「かっ…… か、かっ……」
「か?」
「間接キッスだ!!」
そこでとうとう、辺古山が鼻血を噴いた。



(どうしよう)
木の上で、狛枝凪は途方に暮れていた。
見たときは、すぐに降りられそうだと思ったのだ。だが順調にいけたのはほんの数本分だけで、地上までは二階より少し下、くらいの高さのところで立ち往生になってしまった。
三階には戻れそうもない。最初に飛び移った枝が窓枠より少し低いところにあり、木から窓に行くのは困難だ。
二階も難しい。二階の窓に接した枝は無く、そもそも窓が閉じている。おそらく施錠もされているだろう。
骨折覚悟で飛び降りる、という、避け続けていた選択がぐるぐる回る。降りた先は中庭のような場所だから、あの人気のない建物の中よりは発見されやすいだろう。
結局、遅刻はするだろうが。
(せっかく時間つくってもらったのに、ボクは最低だ。つまり、これは、希望ヶ峰学園がボクを拒否してるってことだろうか)
黒い雲がぐるぐると彼女の心臓にまとわりつく。いつも希望は手の届きそうなところをちらついては去っていくのだ。
希望ヶ峰に編入するのは、やっぱりやめよう。学園長先生には、後日メールしよう。
じわじわと滲む視界。ここしばらく、泣くことなんてなかったのに。やっぱり希望ヶ峰には期待していたのだ。だからこんなに悲しい。
(ひょっとしたらもしかしたら、ボクも、普通の高校生みたいに学校を楽しむことができるんじゃないかなんて)
でもやっぱりずっとひとりぼっちなんだろうか。
ぽろり、とついに涙が落ちた。
そのままぱたぱたと涙が落ちるままに木の上で泣いていたところへ、彼が現れたのだ。
「おい」
最初は、気のせいだと思った。
「おいって。お前、そんなとこで何してんだよ」
少年の声だ。下のほうから聞こえる。
狛枝は見下ろした。
まず、体が反応した。
その姿を見たとたん、ぎゅっと心臓が締め付けられた。それからどくどくと全身に血が巡り、ぶわっ、と、光が降ってきた。目が、ちかちかする。
「……降りられなくて泣いてたのか?」
少年は、戸惑っている。狛枝はぱちぱちと瞬きした。長いまつげに絡んだ涙が落ちて、それからは、泣くことを忘れてただ彼に見入った。
少しずつ戻ってきた理性が彼を観察する。
あれは小高高校の制服だ。少し幼い印象、おそらく一年生。ということはこの学園の生徒ではない。自分のように編入予定の生徒だろうか?
とりたてて目立つ特徴は、頭のアンテナのような髪以外にない。だが、しかし、なんだろう。なぜだろう。
(……どきどきする)
編入予定ならばなんらかの超高校級の才能の持ち主だ。だからどきどきするのだろうか?「希望」を間近で見るのは、はじめてなのだ。頬が熱い。秋口に入って涼しくなってきたというのに、お気に入りのモッズコートが暑い。
少年は、少しだけ困ったようにあたりを見回してから、なにか決めたようだ。(あ、今の顔かっこいい)と狛枝は思う。
それから彼は、樹上の狛枝を仰いで、両腕を広げた。
「そのくらいの高さなら大丈夫……だと思う。お前、軽そうだし。ほら」
飛び降りろと、飛び込んでこいと。
彼のその動作は示している。



「もうね、その時に! ボクは確信したんだよ、ああ、この人は間違いなく超高校級の希望、それも大きな希望だって!」
クッションがわりに置かれていた魔法少女マジカル☆ウサミのぬいぐるみをぎゅうぎゅう抱きしめて抱きつぶさんばかりにして、狛枝凪はハートマークを大量射出しつつよだれまでながしながら力説している。ハートマークにぶつかった西園寺はハトのフンでも頭に落ちてきたような顔をしている。
ちなみにここは学園寮、通称「希望ホテル」のカフェテラスである。昼時に間接キッスうんぬんの騒ぎを起こした狛枝を放課後になるやいなや、小泉、そこにくっついてきた西園寺、によりケーキと紅茶をかこみ、「あのさ……狛枝さんと日向って、つきあってるの? ていうか入学式のときには顔見知りだったよね、どういう関係なの?」という尋問大会が開催されたのだ。
その答えとして、狛枝が述べたのが入学前の出会いだ。
研究棟に迷い込んだ狛枝を、助けてくれた。そのときに、全身を駆け抜けた感覚で確信したという。
「だからね、小泉さん。つきあってるかとか、そういうんじゃないんだよ。ボクは日向クンの大きな希望の気配にどうにも惹かれているだけで、おつきあいしたいなんて滅相もない、夢にも思わないよ。むしろ彼に好きな人ができたなら全力でバックアップするし。それ以前に彼がボクごときにそんなふうな感情は抱かないだろうけど」
小泉には、よくわからない。あれほどまでに懐いておきながら恋愛感情は無いと嘘を含まない瞳で言い切る彼女が。それに。
「……希望の気配ってなに?」
小泉が尋ねる。ぱっ、と狛枝は瞳を輝かせた。
「よく聞いてくれたね! あのね、ボクは、自慢じゃないけど「希望の気配」がわかるんだ。終里さん風に言うなら、戦闘力がわかる、ってかんじで希望の大きさがわかるんだよ!なんなら数値化だってできるんだ!」
そんなバカな、とつっこめる人物はここにはいない。何より狛枝の自信満々な態度には、納得させられるものがあった。西園寺は、少し飽きてきているようだ。
「もちろんボクごときがみんなの優劣をつけるような真似、おこがましいから絶対に口にはしないよ。みんながみんな、特別なオンリーワンだしね」
「狛枝、うさんくさい」
西園寺の表情は嫌悪に限りなく近い。
「みんなは、光がキラキラして見えるんだ。その輝きが違うんだよ。白くて強い光の人もいれば、銀色だったり赤だったり青だったり、あとは才能を発揮しているときに強く輝く人もいるし、点滅している人もいる。弱いんじゃなくて覆い隠してる人もいる。とにかく視覚として見えるんだよ!」
本当ならば、それはそれで何らかの才能でありそうな話だ。少しその光を写真にしてみたい、と小泉は思う。
「……でも、日向クンは、なんだかちょっと違うんだ」
ふ、と狛枝はトーンダウンした。
と思ったら今度は何か別方向にトリップしだした。自分の体をぎゅっとだきしめてよだれをながしつつ。なんだかハアハアしている。妖精めいた美少女だからぎりぎり許せるが、これが男だったらと思うと小泉はぞっとする。
「才能の種類がみんなとは少し違うからかな? 日向クンもきらきらしてるよ。金色と緑がまざった、日向クンの瞳みたいな色。でもそれだけじゃなくて、彼の場合は、胸が」
ふわ、と頬を染めた狛枝に、小泉は不覚にもどきりとした。紅潮ならばずっとしていたが、そうではなく。どうにも、「可憐」としか言いようのない。
「……胸がね、ぎゅっとなるんだ。苦しいんだけど、気持ちいい。見てるだけでシアワセになれるみんなのとは違って、近くに行きたい、もっと知りたい、たくさん話したい、って思ってしまうんだ。見てるときもそばにいるときもそうだけど、ひとりのときも、彼に出会ってから日向クンのことばかり考えてる。
あんな引力を持った「希望」、きっとこの学園に日向クンだけだ」
切ない顔。見ている側まで同調させられるような表情。それは、と小泉は思う。
(それは…… つまり、希望に反応してるんじゃなくて)
だがなぜか口にできない。首をつっこむべきではないことだと理屈で考えているからだろうか。それとも、別の理由が?
彼女は少し頭を降って、「ところでさ」と話題を切り替える明るい声を出す。
「希望が見える、って。狛枝さんは、自分がどういう光なのか、見えるの?」
とたん、狛枝の気配が暗くおちる。スイッチを切った照明のように。
「……見えないんだ」
「へ」
「ボクには、ボクの希望が見えない」
うつむき、狛枝凪はつぶやいた。
「でも……日向クンがいれば、ボクは、ボクの希望が見えるのかもしれない」



「是非転入してほしいと考えているよ。希望ヶ峰学園としても、私個人としても」
希望ヶ峰学園長、霧切仁は、狛枝凪がすすめた紅茶に口をつけないのでまず自分が一口飲んだ。
「このクッキーもおいしいよ。娘が好きな店のものなんだ、君も気に入るといいんだが」
「……はい」
それにしても、と霧切は狛枝凪を観察する。
調査部が集めた彼女の経歴とメールの文面からは、もっと閉じた少女だろうと予想していたのだが。
白いふわふわの髪のせいだけでなく、なにか、こう、ぽやぽやとしている。うっとりと、夢を見ているような。
思い返せば、学園長室へ彼女を送り届けてきた日向創の後ろ姿を、ずっと目で追っていたような。
(……ああ、そういうこと、か?)
霧切のシナプスが推測とそれに基づく戦術をたてはじめる。
「日向くんは、来年の春に編入予定だ。君が編入してくるなら、同じクラスになるね」
がちゃん、と狛枝のカップが派手な音を立てる。ようやく持ち手に手をつけたところだったのが、とりおとしてしまっただけだ。幸い落下距離は数センチだったので割れることもこぼれることもなかった。
「……そ、そ、そう、なん、ですか……」
「編入には前向きになってもらえただろうか」
狛枝は、ゆっくりカップを傾けた。それから静かにソーサーへ戻す。そのあいだに考えと言葉をまとめているのがわかったので、霧切は、待った。
ぽつりと狛枝はつぶやく。
「学園には、もちろん、編入したいです。でも…… 先生はボクのまわりに起きたこと、ご存じだと思いますが」
「ああ」
「ボクは、ボクが好きになってしまったものが壊れるのを見たくないんです。
希望ヶ峰学園という希望の集まりが、ボク一人ごときでどうにかなるとは思わないし、思いたくもないんですが。でもやっぱり、怖い」
怖い。
本音はつまりそれだろう、と霧切は考える。誰だって、未知も、裏切られるのも、怖い。
「君は、この学園の存在理由を知っているかい」
「希望の保護と、育成、ですね」
「それもある。もうひとつの役割は、異常な才能の研究だ」
狛枝は驚かない。おそらく彼女なりにある程度予測していたことだったのだろう。
賢い少女だ、と思う。それゆえに哀れだ。なんの理由も理屈もルールもない「運」に振り回されるには、聡明すぎるのだ。
「人ではないなにかが与えているとしか思えない、突然変異すら越えて存在している、二次成長期に開花するその異常な特化型能力を「超高校級」と呼んでいる。その研究と解析をすることで人類の明日に貢献するのも、この学園の役割であり使命だ」
もともと生徒相手にごまかしの類を行わない彼だが、狛枝の聡明さに敬意をもって、本当のところを説明する。それでなければ、きれいごとだけでは納得しないし伝わらないだろうと感じたのだ。
「なかでも「運」という要素は、うちの研究者たちが強い興味を持ちながらなかなか研究が進まない分野だ。
率直に言って、君が入学してくれると、学園としてはとてもありがたい」
研究サンプルである、という宣告とそれは同義だ。少女は静かに聞いている。
「私個人の願望としても、君には是非入学してほしい」
「それは、どういった……?」
霧切は、娘を思い出す。おそらく二年後にはこの学園の生徒になるであろう娘を。彼女と狛枝は、どこか似ている。
ただ、娘の前に現れる謎はすべて真実と理由を見つけることができる。
彼女のそれは、理不尽なくせにそこにはなんの理由もないのだ。きっと、おそらくは。それは彼女にとってどれだけの負荷なのか、想像するだけでもつらい、とてもつらいことだ。
そしてその才能は、つらさをわけあう存在すら奪うのだ。たった一人でかかえてきた。今までは。
「異能とは、異常ということだ。それは、そうでない群れのなかではどうしたって孤立したり、適応するために転がる石のように削れていったりしてしまう。君のような才能に限った話ではなく。
「超高校級」の才能を持ってしまった少年少女が健やかに学校生活を送れる場所は、この学園だけであると自負している。この学園の生徒は一人の例外もなく、全員が異常だからだ。だからこそ異常な存在が「普通の高校生」でいられる。君もまた、そうなれる」
沈黙がおちる。狛枝凪は、考えている。霧切は、待った。彼女が大きな決断をしようとしているのを知っていたから。
紅茶が冷めきって、それからさらにしばらくしてから。
狛枝凪は、つぶやいた。
「ボクは、普通の高校生になれるんでしょうか。普通の、……普通の、毎日を」
震える声に、希望ヶ峰学園学園長、霧切仁は穏やかにうなずいた。
「もちろんだとも。望む毎日を得る権利は誰にでもある。我が学園は、君のその希望を助けよう」


さて、昼休みである。
弁当組は今日も仲良く机をくっつけあっていた。日向、九頭竜、狛枝、それに今日は辺古山が一緒だ。
辺古山は緊張していた。今日はぼっちゃんによる密命を受けていたからだ。
「なにげなく俺らと飯を食いつつ狛枝に弁当わけてやれ」という、それはそれは高難度のミッションを。
どこぞの海外マフィア日本支部に乗り込んで皆殺しにしてこいとでも言われるほうがよほど楽だ。
(しかしぼっちゃんは私を信頼して、この超難易度の使命をくださった。この辺古山ペコ、命にかえても期待にこたえてみせます!)
どうにか自然な流れで「今日はわたしも同席していいだろうか」と卓に参加することは叶った。ひそかに目配せしてくる九頭竜に、かすかに、だが力強くうなずく辺古山である。
いつものように弁当箱を並べる彼らだが、今日はしかし狛枝がそわそわしている。
朝はどうにも落ち込んでこの世の終わりでも見たかのようだったのに、二時間目には妙にテンションが高かった。
そして今ははにかみながらそわそわしている。
「……狛枝、今日はパン買ってこなかったのか?」
九頭竜のパスに、さすがぼっちゃん!と喝采を送る辺古山である。ここからうまく流れを作れば、自分がおかずをわけるのはぐっと容易になる。
そして狛枝は、ぱあっと顔を輝かせた。よくぞきいてくれました、と顔に書いてある。
「あのねあのね、今日はいつも使ってるコンビニが改装中だったんだ。だからその近くにいったらそっちも直前に来たご近所で工事中のドカタのおにいさんたちに食べ物ぜんぶ買い占められちゃって、なんとかスーパーでお弁当買ったらこんどは黒猫がとびだしてきて、びっくりしておっことしちゃったんだ!そのうえ今日は購買部もお休み!」
それは目をきらきらさせながら言うことなのだろうか。
(というか、彼女は「超高校級の幸運」なのではないのだろうか。聞くかぎりは不運ラッシュなのだが)
辺古山の疑問をよそに、「でね、でね」と続ける狛枝である。ちょっとかわいい。
「でもそんなの幸運のための序章だったんだ!今日はなんと!」
さっ、と両手で示されて、少し照れながら日向が弁当箱を取り出す。二つ。
(……二つ?)
いつも日向が使う真四角の大きなそれと、ひとまわり小さいサイズのそれ。
「なんと今日は日向クンがボクのぶんのお弁当も用意してくれましたー!!」
な ん だ と。
辺古山のメガネにぴしりとヒビが入る。
これではぼっちゃんからのミッションが困難になる!という危惧からである。まともに一人分の食事を摂取するのであれば、辺古山の用意したシナリオから大きく展開が異なる。
急いで九頭竜に目配せすれば。
(……ぼっちゃん)
あるじである九頭竜は、驚いてはいるようだが、どこか穏やかに、かすかに笑みすら浮かべていた。本人は自覚していないかもしれない、かすかな笑みを。
「ほう、そりゃよかったな。いつの間にそういうことになったんだ?」
「俺が勝手に用意してきたんだよ。……やっぱなんつーか居心地悪いだろ」
「まあな」
「金を払うとは言ってくれたんだが、そういうつもりでやたことでもないし。一人分増えたところでたいして変わらないからな。飯代として勉強見てもらうことにした」
「んうううううううう日向クンにお弁当用意してもらえるうえに放課後にまで一緒にいる時間を得られるなんて、ボク、ボク、なんかもうがまんできないよ!」
「よくわからんがそれはがまんしろ、狛枝」
「はぁいっ」
そういえば狛枝の学力はかなり高かった、と辺古山は思い出す。本人いわく「ほかに趣味らしい趣味も持てなかったから」とのことだが、もともと頭がいいのだろうと思わせるものはある。
その日の昼食は、辺古山の記憶にあるかぎりもっとも騒々しいものだった。
狛枝はいちいち感動していつも以上に日向をほめちぎるし、こぼすし、それをいちいち日向が拭いてやっては「いちゃいちゃすんなら人目のないところにしろやコラァ!」と九頭竜が凄み、「「いちゃいちゃ?」」と二人できょとんとするものだから脱力し。
狛枝があんまりしあわせそうに唐揚げを食べるものだから、辺古山もなんとなく、使命だからでもなく、本当になんとなく、自分の唐揚げを一つわけてやった。
狛枝はびっくりしてまばたきしたあと、桜のように笑った。
「ありがとう、辺古山さん! なんだか、ボクたち仲良しのトモダチみたい……うれしいな!」
きゅんとした。はじめて。ぼっちゃん以外に。



弁当を作ってもらうことになったという顛末とその喜びとときめきをマシンガントークで聞かされた小泉は、疑惑を確信に変えた。
変えたが、心から「大いなる希望に反応している」と自分の体の反応を信じている狛枝に、言いそびれた。
どうせ遠くないうちに自覚するし。
「それってつまり、恋ってやつじゃない?」と。






2、はるはあけぼの 終



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2013/02/28



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