「今はここで…この道をまっすぐ行けばいいはず!!」

35番道路で、地図とメモ帳を見比べて呟く少女がひとり。雫は下宿先に向かうべく移動中である。職場の場所は覚えたのだが、下宿までの道はまだ知らない。持参したタウンマップと、母の皐月が描いてくれた案内図だけが頼りである。皐月はエンジュ出身である。実は方向音痴な娘のために、詳しい説明付きの案内図を描いて持たせていたのだ。皐月お手製の地図のおかげで、雫は迷うことなくエンジュに到着することができた。エンジュの建物はみな似たような佇まいをしているのだが、目指す家は思いの外あっさりと見つかった。歌舞練場のすぐそばの、小さな釣瓶井戸がある家。そこが#雫の下宿先となる有川家である。

「こんにちはー。昨日電話した雫です!」

そっと引き戸を開けて顔を覗かせる。広い土間の向こうに、3人分の靴が並んでいるのが見えた。

「あれまぁ。雫ちゃん、しばらく見いひん間に大きゅうなったねぇ。ささ、早くお上がりえ。」

しずしずと現れたのは叔母の弥生である。皐月の姉にあたる彼女は、母と目元がそっくりだった。彼女は歌舞練場で舞踊の師範として勤めている。それゆえ、普段から和装で過ごしていることが多い。今日の弥生は、淡い萌葱色の着物に鮮やかな青の帯を締めている。

「…何だかんだで3年ぶりぐらいかな?母は相変わらず元気ですよ。あ、兄もよろしくって言ってました。」

ゆっくり靴を脱ぎ、向きを揃えてから部屋に上がる。翔平と奈緒が待つ座卓に腰を下ろすと、弥生が熱いお茶を煎れてくれた。最後に弥生たちに会ったのは、雫の旅が終わった記念に一家がマサラの自宅に遊びに来たときである。それ以来はお互い行き来することが少なくなったので、本当に久しぶりの対面となった。

「今回は、ほんとに有り難い申し出に感謝してます!…今日からよろしくお願いします。」

雫は有川家一同に向かって深く頭を下げた。親戚の中では仲の良い相手ではあるが、けじめはしっかりしたいと思うが故の振る舞いだった。

「まーそないに堅くならんとき!!…今日からは、ここが雫の実家と思うて過ごしてくれりゃあエエんやからな。」

「雫はんと一緒に暮らせるなんて夢みたいや。こちらこそよろしゅうねぇ。」

ガハハと豪快に笑っているのは、この家の主である有川翔平。ラジオ塔で働く敏腕プロデューサーだ。…ボケツッコミともノリノリでこなすのは仕様である。その傍らでふわりと微笑んでいるのは娘の奈緒。彼女とは同い年のため、幼いころは会う度に一緒に遊んでいた。今彼女は舞妓見習いとして、歌舞練場に通う日々を送っているという。お茶を飲みながら、雫と奈緒はたわいもない話で盛り上がった。元々仲の良かった2人は、3年の空白も無かったように楽しげに語り合っていた。

「雫ちゃん、お家から持ってきた荷物はそれだけなん?部屋にそれ置いたら、明日奈緒と買い出しにでも行ってきたらええんやないの。」

「あ、はい。ありがとうございます。服とか自転車は、こっちで揃えたいなって思ってたから。」

「なんや。雫自転車買うんか?…ならこれ使いぃ。わいな、こないだ店のくじ引きしたら当たってん。」

「【ミラクルサイクルの商品引換券】?…い、良いんですか翔平さん!?確かにめちゃくちゃ助かりますけどっ」

「エエってエエって。わいの職場はラジオ塔やけど、いつもこのネイティオとテレポートしとるから平気なんや」

翔平は膝の上に乗せたネイティオをぽふぽふと撫でる。隣に座った弥生も、微笑みながら雫を見つめている。

「そやね、雫ちゃんなら自転車で15分も掛からへんと思うわ。貰うてくれるとうちらも嬉しいさかい。…あと、今日からはそこの真ん中の部屋を使うてな。」

「翔平さんも、弥生さんもありがとうございます!せっかくなのでお言葉に甘えさせてもらいますね。…じゃあ、一旦荷物置いてきます。」

雫は翔平から引換券を受け取り、弥生から案内された部屋に荷物を運び入れた。
そこは畳敷きのシンプルな和室で、とても日当たりの良い部屋だった。備え付けの押入とたんす、小さな卓袱台と座布団、そして姿見が置いてある。南側の障子を開けると、長い縁側によって、両隣の部屋とつながっていることも見て取れた。

「雫はんちょっとええ?渡したいものがあるんやけど」

「んお?どしたの奈緒ー。まぁ入って入って!」

雫がしばらく荷解きや収納をしていたところに、奈緒が紙袋を下げて部屋を訪れた。ちょうど作業も一段落着いたところだったので、奈緒に座布団を勧め自分も腰を下ろした。

「これな、うちが部屋着にしとるやつの色違いなんやけど。…雫はんも着物好きやろ?良かったら使て欲しいと思うたんよ。」

「うわぁ、綺麗な浴衣!しかもピンクと水色はあたしの好きな色なんだー。2着もありがとねっ」

「雫はんは淡い色がよう似合うからねぇ。うちのは紫とオレンジなんよ。」

「あー、それ分かる!奈緒は大人っぽい色が似合うよ。羨ましいなぁ。」

「雫はんも、たまには濃い色も着てみるとええよ。あと、寒いときは言うてな?羽織るもんも貸したるさかいに。」

「はーい。じゃあ、今夜早速着てみようかな!」

その後も2人は華やかな笑い声を響かせながら、ずっと語り合っていた。あまりにも夢中になっていたため、弥生が夕食ができたと呼びにくるまで時間にも全く気付かなかったそうな。



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