しとしという形容詞がぴたりと当てはまるような雨が、朝からずっと降り続いている。雨の日の学校は、いつもよりずっと静かだ。3年のこの時期は自由登校になっているというのも、まあ原因のひとつではあるが。
そんな3年の廊下を、詩音は若干緊張して歩いていた。学校の中で優等生という部類に属する彼女が、この時期に家で勉強していないなんて珍しい。一人の生徒が、詩音の横を訝しげな顔をして通り過ぎていった。



「先生、」



国語準備室、と書かれたプレートの前、扉をノックする。はァいどうぞー、なんて、間抜けな声が聞こえた。詩音の姿を見ても、この部屋の主ー坂田銀八の表情は変わらない。



「どーしたの、栗屋。家で勉強してたんじゃないの」
「少し、わからないところがあって」
「えー、栗屋にわかんねーのが俺にわかるかねェ。ちょっ、見せて」



少しの嘘は、大丈夫だ、ばれてない。椅子をくるくると回して近寄ってきた銀八に、こことここなんですけど、と志望大学の過去問を見せる。
ひとつめは本当、ふたつめは、ちょっと嘘。銀八は問題を手に、真剣な表情を見せる。普段がちゃらんぽらんだからかあまり生徒は銀八のところにやって来ないが、国語はこの学校でこの人が一番教え上手だと詩音は知っていた。特に現代文は。



「んー、あー、これは、アレだよ。ここの文がー・・・」



一言も聞き漏らすことのないよう、耳を傾ける。勿論解説を真剣に聞いているに違いないのだが、銀八の声が詩音はすきだ。解説が終わり、成程、という顔をすると銀八は少し笑った。



「やっぱ栗屋が持ってくんのは骨があるわ。あー、疲れた。糖分摂取してェ」
「っあの、」



鞄の中から、包みを取り出す。その手は僅かに震えていた。ちいさく深呼吸をする。



「これ、いつもお世話になってるので、」
「・・・おー、ありがとな」



ピンク色の包みが、無造作に机に置かれる。
言うんだ、今しかない。
この機会を逃してしまえば、きっと臆病な自分は卒業まで何もしないままだ。さっきよりも深く、音をたてないよう深呼吸をする。



「先生、あの、私、」
「あれ、うわヤベェ、これ今日の朝提出の書類じゃん」



言葉の最初を遮られて頭の回転がうまくいかない詩音に、銀八は悪ィ、ちょっと行ってくるわと声を掛けてがたがたと席を立つ。



「お前も早く帰って勉強しろよー、受験生。まァ落ちるとは思ってねーけど。これ、ありがとな」



くしゃりと頭を撫で、銀八は足早に国語準備室を出て行った。一人取り残された詩音は、血が出る程強く唇を噛んだ。わかるかわからないかぐらいに薄く塗った色つきのリップクリームも、もう意味はない。



(・・・ずるい)



言わせてもくれないなんて。いつもそうだ、いつも先生は決定的な一言をするりと避けて何も知らない振りをする。わかっているのなら、こっぴどく振ってくれる方がどんなにか。知らない振りは残酷だ。
目を乱暴に擦り、詩音も準備室を後にする。廊下の窓から、荷物を置いている教室にぼんやりと人影が見えた。


*******************


(ずりィな、俺)


プリントを抱え、銀八はのろのろと準備室に戻る。書類なんて、勿論嘘だ。午後の授業で使うプリントが、やけに重く感じた。
気づいている。気づいているけれど、だから何ができるというのだ。教師と生徒という関係である以上、詩音のそういった感情は倫理的な観点から許されるものではない。



がらがらとやけに大きな音を立てる扉を開けて準備室に戻ると、机上のピンク色の包みが目に入った。小腹が空いていたのもあって、すいよせられるように包みを開ける。



(・・・っ!これは、反則だろ・・・)



ハート形のクッキーに、一枚だけ「LOVE」の文字。深く深く溜め息をついてみるけれど、口元が緩むのは抑えきれない。ああ、本気になってしまったんだなあと、頭の片隅で思う。



(俺に、どうしろっつーんだよ、)



さくり、クッキーをかじる。甘い筈のココアクッキーは、何故だか少しだけ苦かった。


****************


雨は、まだ止まない。
沖田は一人、教室の窓を伝うその水滴を眺めていた。
推薦をもらい入学が内定した沖田は、もう学校に殆ど来る必要がない。それにも関わらずこんな雨の面倒くさい日に何となく学校に来た自分に、沖田は内心驚いていた。
いや、違う。何となくなんかじゃない。
詩音が、来るだろうと思ったから。きっと泣いていると思ったから。



(・・・気持ち悪ィ)



いつから、こんなに入れこんでしまったのだろう。自分は淡白だという認識は、どうやらとんだ間違いだったらしい。報われない想いなんて柄じゃないと思っていたのに。



がらりと扉が開く。突然のことでびくりと震えた。何でもない振りを装って、ゆるりとそちらを振り返る。



「総悟・・・?どしたの、こんなところで。別にもう学校来なくていいんでしょう」
「来ちゃいけねェわけじゃねーだろィ」
「そうだけど」
「帰るんですかィ?」
「うん。ちょっと質問に来ただけだからね。総悟、今日うちでお昼食べる?おばさん仕事でしょ」
「そうしまさァ。行きやすぜ」
「あ、うん」



二人、ぱたぱたと階段を下りる。雨はさっきよりもいくらか勢いを増していた。雨は嫌いだ。濡れるし、臭くなるし、傘を差すのは面倒だし。いつか買ったビニール傘をばさりと開く。隣で水玉のそれが開いた。特に会話もなく、黙々と歩く。



詩音と沖田は、同じマンションに住んでいる。いわゆるお隣さんというやつだ。そのマンションのエントランスに着いてやっと、沖田は傘を畳んで口を開いた。



「なあ、詩音ー」



ぎょっとした。
沖田のすこし後ろ、詩音の傘は動かない。目を凝らすと、傘の中からぽたぽたと雫が垂れているのが見えた。



(ああ、)



やはり、泣いている。きっと傘の中で、涙を堪えようとぶっさいくな面して。泣くのだろうなと、わかっていた筈なのに心臓の辺りがきりきりと痛い。
俺なら。
俺なら、そんな顔はさせないのに。
陳腐な台詞が浮かんで消えて、その頃には一歩踏み出して詩音を腕の中に閉じこめていた。水玉の傘が地面に落ちて空を見上げている。



「っ総悟、」
「泣きたいならさっさと泣きなせェぶさいく」
「・・・っ」
「俺ァなんも見てねェ。雨が降ってるだけでさァ」
「・・・うっ、そーごっ・・・!」



大粒の雨が世界を濡らしていく。それでも肩に流れる詩音から生まれた雫の生温さは消えない。学ラン濡れちまうな、なんてどうでもいいことを考えた。



世界よ沈めと願った日

(そうすれば君と僕の頬を伝う雫も)

(知らない振りして笑えたのに)



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