「おい、歩けるか、」

深い淵に沈みかけた意識を掬いあげたのは、副長の無愛想な声だった。屯所の前に乗りつけたパトカーを降りて助手席に回り、ドアをひらいてくれている。

「平気、です」

脂汗がこめかみを伝うのがわかったけれど、なんとか涼しい顔をつくって頷いた。正直歩ける気はしないのだけれど、副長に甘えるなど、一介の平隊士である私にはあまりにも恐れ多かった。気力でなんとかなるだろう、だいいち足が悪いのではなく、傷めたのは肩である。シートに手をついて身体に力を入れ、ゆっくりと足を地面に降ろす。副長の肩を借りて歩きながら、自分の至らなさに瞼の裏が熱くなって、そしてこんなところで泣きたくなっている自分に更に腹が立った。いけないと思えば思うほど瞳が潤みを持ち、視界がゆらりと水面のように揺れる。悲劇ぶって涙を流す資格などなく、すべては私の不注意だ。見廻りの途中で浪士と一対一で銃撃戦になり、手足に数発撃ち込んで捕らえたかわりに自分も肩を撃たれた。真選組に入って以来、初めての怪我だった。

橙の海に沈みつつある屯所の廊下を、ほとんど副長に担がれるようにして進んでいく。方向からして私の自室に向かっているはずだけれど、今日は歩いても歩いても辿り着かないくらい遠く感じる。こんな姿をひとに見られたくないと思いながら視線をあげた瞬間、廊下の先にいちばん逢いたくないひとの影を見つけてしまった。

「あ、」

びくりと身体を震わせた私に気づいて、副長が困ったようなこわい顔をした。

「痛ぇのか?我慢しろ」
「ちが、あの、副長、」

そうしている間にも彼はどんどん近づいてくる。今度は痛みからではない冷や汗を流す私に眉をひそめ、副長は構わず歩を進めようとする。必死に視線で前方を見るよう促すと、ようやくその姿を視野に認めて足を止めてくれた。逃げ場はなく、彼はすでに目の前である。

「よお栗屋、見廻りさぼって副長さまと逢い引きかィ?いい御身分だなァ」

ポケットに両手を入れたまま、私の直属の上司は顔を歪めていやな笑みをつくった。意地の悪いのはいまに始まったことではなく、これくらいは慣れきっているから別にどうということもないのだ。このひとに逢いたくなかったのは、日頃言われていた言いつけをことごとく破ってしまったからである。

「ちょうどよかった。総悟お前、部屋まで運んでやれ」
「なんでおれなんですかィ」
「お前の部下だからだ」
「いやだなあ、おれのものは土方さんのものでさァ」
「こんなときだけいい子になってんじゃねぇよ」

いつもどおりの真顔で副長をからかってから、沖田さんはようやく私の方を見た。怪我に気づいたのだろう、視線を私の肩の上に止めているのがわかる。気まずくて直視できなくて、上目遣いにその表情を伺う。どんな嫌がらせを言われるのかと思ったその瞬間、彼はいままで見たこともないような、おそろしく燃えるような目をして私を見た。息もつけずに身を凍らせる。いつもの加虐趣味からではなく、このひとは本気で怒っている。しかしそれも当然かもしれなかった、彼は私のような足手まといが、この世でいちばん嫌いなのだから。

「肩を撃たれてる。医者は呼んであるから、部屋で休ませてやれ」

沖田さんの変化を見落とした副長は、担いでいた私の腕をおろして彼の方へ押しやった。彼はもうさっきの表情を引っ込めている。凍てつくような凪いだ目をして、私の腕を持ち上げ自分の肩に回した。

「ええ、しっかり休ませますよ」

もう片方の腕で強く背を抱えられ、引きずられるようにして部屋に向かう。副長のような気遣いなどなく足早に歩き、しかも腕も腰も大変な力を込めて押さえつけられているので、傷だけでなく身体中が痛い。抗議しようと口を開いても、沖田さんはこちらを見ようとしないどころか、お得意の嫌味のひとつもよこさない。いつもの悪趣味なこのひとの態度としては却って不気味だった。ずかずかと私の部屋に入るなり沖田さんは黙って布団を敷き、箪笥から寝間着を引っ張り出して着替えるよう促した。いつもなら勝手に箪笥を開けるなとか着替えるから出て行ってくれとか文句を言うこともできるけれど、今回ばかりはそんな状況ではない。少しでも気に触ることをすれば即刻斬られるのではないかと思う。

一応気を遣っているのか、沖田さんが障子の方を向いて微動だにしないのを確認し、なるべく音を立てないようにして着替えを始める。肩を刺激しないよう、ゆっくりと寝間着に袖を通して布団に潜り込もうとすると、沖田さんの目がぎょろりと動いて私を睨みつけた。やさしくあたたかいはずの落日の光が、彼の白い頬を燃やすように熱く舐めている。

「お前」

低い声に思わず動作を止める。いままでにないくらいの激昂にどうしていいのかわからず、とりあえず謝ってしまおうかと逡巡しているうちに沖田さんは畳を軋ませてこちらに近づいてきた。布団に座る私の目の前にしゃがみ込み、暗く濁った瞳でゆっくりと瞬きをする。本来、澄んで美しいはずの瞳である。ごくりと唾をのむ。真一文字に結ばれた薄いくちびるがひらく。

「ひとりでやるなと散々言ってあったはずだぜィ」

地を這うような声が身体をよじ登り、おそろしくて彼の目を見ることができなかった。ひとりでの斬り込みを止められていたのは事実である。しかし今回の場合、すぐには応援を呼べる状況ではなかったのもまた事実だ。剣の腕が充分でないかわりに、銃撃には長けているという自負もある。

「でも隊長、」
「脱けな、お前」

遮るように言われたその一言に血の気が引いた。このひとはもう、私を仲間として認めていない。この真選組において、脱退はすなわち死である。しかし彼は声音を僅かに和らげて、子どもに言いきかせるように続けた。

「なにも、組から脱けろとは言ってねぇ。一番隊から外れろと言ってるんでィ」

私の左肩に手を乗せる。怪我をした場所である。脅しのつもりかもしれないけれど、そうそう簡単に退くことはできない。

「……いやです」
「お前が決めることじゃねぇ。おれがいらねぇと言ったらいらねぇんだ」

黙ったまま睨み合う。彼の瞳は奥底で焔のように揺れるくせに、触れれば指が凍って崩れてしまうような冷徹な光を宿している。気圧されそうになったけれど、屈するわけにはいかなかった。私には私の決心があって、いままでやってきたのだ。

「私は、脱けません」

言い終わるより早く、傷に置かれた手に激しい力が込められた。なにをされたのか理解する間もなく、視界が白く弾ける。

「ッ、あ、」

微かに湿った音がする。傷口を広げるように沖田さんの指がゆっくりと動いて、まだ乾いてもいないそこから再び血が滲み出る。逃れようと身体を引いても、もう一方の肩まで押さえられてびくともしない。身体が痛みに追いつかず、必死に彼の腕を掴む指が震えている。

「っく、……隊、長っ、!」
「お前ひとりでなにができるんでィ。自分の身ひとつ護れねぇやつはここにはいらねぇ」

身体のなかを直接触られているようだった。息を吐いたきり吸うことができず、咽喉が引きつって掠れた悲鳴が漏れる。

「やめるよな?」
「い、や」
「使い物にならなくなるぜィ、この腕」

拒否の意味を込めて緩慢に首を振る。やめたくないと強く思うのに、どんなに力を込めても彼の細身の腕を振り払うことすらできない自分の無力さが歯痒かった。力の面で不利になる刀をあっさりと捨てて銃に乗り換えたのは、真選組で、そしてなにより彼の一番隊で戦力になりたかったからである。けれど私は戦力どころか、隊長にとって迷惑な存在でしかなかった。惨めな気持ちを押し殺すように強く目を瞑った、その拍子に涙が眦から押し出され、いけないと思った時にはすでに頬を滑りおりていた。慌てて拭ったが、無論このひとは気づいている。また私は、やってはいけないことをやってしまった。彼は足手まといと同じくらいに、すぐに泣く人間を嫌っている。私はこの瞬間に彼のなかで世界でいちばん嫌いな人間になっただろう。だから逢いたくなかったのに。近くも遠くもないいまの関係を、壊したくなかったのに。

「……勝手にしろィ」

興が醒めたというように私の身体を離し、沖田さんは立ち上がった。その素っ気ない背中を見たら、止めなくてはと思っていた涙が瞼を押し上げた。金魚鉢のなかをのぞくように視界が歪む。表面張力を失ってその水滴が目淵から零れた。瞬きとともに硝子の水槽が割れ、私のなかを満たしていたぬるい水が流れ出していく。この水がなければ息ができなくなってしまう。しかしそれもどうでもよくなった。毀れてしまった。自分の手で毀してしまったのだ、いままでずっと大切に護ってきた、このうつくしい水槽を。





お医者の先生が治療を終えて帰ったあとも、依然として肩は熱を持ったままだった。熟睡はできないくせに瞼はいやに重たく、耳だけが起きている。熱に浮かされたおぼろげな意識のなかで何回か、障子がひらいてひとの出入りする音をきいた。そのひとは枕元まで来ては傷の周りに指を当て、時折私の髪に触れたり額に手を乗せたりと静かに動いたあと、結局なにも言わずに帰っていく。そのひんやりとした手の感触から、もしかすると沖田さんではないかと思った。しかしそんなはずはない。自分に都合のよい夢かもしれなかった。起きているのか眠っているのか、自分でもよくわからない。いっそのこと、すべて夢になってしまえばと思う。あの冷たい表情もこの痛みも、みんな泡になって消えてしまえばいいのに。

しばらく眠ったあと、夜半にまた障子の滑る音で目が覚めた。ひとの気配と微かな明かりが瞼を撫でる。衣擦れの音を連れて布団を通りこし、そのひとは左の枕元に腰をおろした。そっと薄目をあけてみると、さめざめとした月の光に照らされたその顔は、やはり沖田さんだった。夜番の帰りなのか、上着を脱いだだけの隊服姿でシャツの袖を捲り、傍らに置いた木桶をのぞきこんでなにやら作業をしている。幻を見ているような気がした。薄い障子紙を一枚透かして射し込む月光が、この部屋をまるごと海の底に沈めている。水面で遊ぶきらめきのように、淡茶の髪が水のなかを漂っている。ちゃぷん、と小さな水音すらきこえた。幻聴だろうか。

沖田さんは、私が目を覚ましたことには気づいていないようだった。声をかけようとして思い直し、眠ったふりをして再び目を閉じる。あんなことをしておきながらどうして、という困惑はもちろん、悲しくもあるし、今度はなにをされるのかという怯えもある。もっと厳しいことを言われたら立ち直る自信がないし、どんな顔をしてなにを話せばいいのかわからない。

空耳だと思っていたのに本当に木桶のなかには水が入っていたようで、枕元からは柔らかく水を練る音がした。ふいに濡れた指が前髪を分け、額に冷たいタオルが当てられる。汗を拭ってくれるつもりらしく、頬、頸、腕、とタオルが移動していく。その手つきの思いのほか優しいことに、咽喉の奥がやわく締めつけられる苦しさを感じた。こんなことをするくらいなら、初めから放っておいてくれたらよかったのに。この数時間のあいだに、いったいどんな大変な心変わりをしたのだろう。疼く肩の痛みは恨めしいけれど、なんだか怒るより呆れてしまった。彼が私を許したつもりでいるのかはわからないけれど、私は彼を簡単に許せるようにできている。そういう弱みなのだろう。タオルの冷たさが心地好くて微睡んでいると、なんの前触れもなく、くちびるに肌理の細かい冷ややかな皮膚が触れた。ゆっくりと目をあけると、沖田さんが私の下くちびるに親指を沈ませている。素直に口をひらくと、さらさらとした錠剤をひとつ、その細い指先で口のなかに押し込まれた。

「飲め」

静かな声音に続いて、グラスに入った生ぬるい水を含ませられる。舌の上にあるのかないのかわからなくなるような、 身体に馴染みすぎるくらいの水温だった。気持ちがいい反面、どれくらいの水が口のなかにあるのかうまく測れず噎せそうになる。なだめるように弱く咽喉の下を撫でられて、なんとか飲み込んだ。

「……なに、」

久しぶりに口をひらいたせいで声が掠れる。鎮痛剤、と短い答えが返ってきた。彼はもう明後日の方向を向いている。

「……よく寝れてねぇみたいだったから」

誰のせいだとは言わずに黙っておいた。怪我をしてきたのは私であって、彼があんなことをしなくとも今日はきっと眠れなかっただろう。ぶっきらぼうな優しさに甘えたくなって頭を傾けて視線を送ってみると、沖田さんはそれに気づいて少し笑った。怪我をしたのは私なのに、沖田さんの方がずっと痛くて苦しそうな顔をしている。どうしてそんな顔をするのだろう。尋ねるより早く、彼の方が口をひらいた。

「お前がいると、うまく動けなくなるんでィ」

長い前髪のむこうで睫毛を伏せ、彼らしくない弱々しい声を出した。今日のようなことが目の前で起きれば、自分がどんな心境になるかわからない、とも言った。私は黙っていた。沖田さんがその時どんな心境になろうと、いまこんなふうに考えてくれているというそのことだけで充分だった。

「それでも、お前を手放したくない」

その苦しげな顔を見ると、馬鹿だなあ、と思ってしまう。彼がこんな顔をする必要はないのだ。言われなくても私はずっとこのひとの近くにいるつもりだし、脱けろと言われても意地を張るのは、ほかの誰でもなく私自身がこのひとのもとで戦いたいからである。彼に請われてするのではなく、私が望んですることだ。言葉にすれば陳腐になる想いをなんとかして伝えようと、枕元に置かれたその手に指の背で触れてみる。彼は静かに瞳をあげた。世界から音が消える。沖田さんは私の顔の横に肘を置き、空中で絡み合った視線を巻き取るようにそっと顔を寄せた。間近で彼が白い瞼をおろすのを見て、私も釣られて目を閉じる。鉱石のように澄みきった淡い感触が、大げさなほどやさしくくちびるに触れた。伝わる冷たさに指先を震わせる。それを見透かしたように、私の指のあいだを割って沖田さんの長い指が入り込んできた。その手にきゅっと力が込められる。

「そばにいて」

くちびるのあいだで生まれたのは、泣きそうで消えてしまいそうなくらい小さな声だった。言葉が細かい泡になって仄暗い海の底に溶けていく。瞼の裏で、月の光が静かに波間を縫って泳いでいる。言いようのない安堵が胸のなかを満たした。これでやっと、私は自然に息ができるようになる。密やかな波音を立てて身体のなかから蘇ったのは、私と彼が涙も震えも隠して生きていくための、やさしくてせつない、ひみつの海。



ピアノ・ピアニッシモ/131204





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