願わくはその夢が、幸福であるように。 透き通った夜空には、ちらちらと無数の星が浮かんでいる。 月は多少欠けていたが満月が近いのだろう、辺りを照らすには十分な光を持て余していた。 時折気まぐれに吹く夜風は前髪を揺らし、煙草の煙を遠くへ押し流していく。 静寂に耳を傾けつつ廊下を歩けば、板張りの床が微かに軋んだ。 夜も遅いので配慮しているつもりだが、古い木材のせいか多少の音は避けられない。 一つ屋根の下にいる連中を気遣って生活するのは面倒だが、慣れてしまえばさほど大変でもなかった。 護衛の任務が長びいてしまったので、今夜予定していた仕事は明朝に回そうと思いながら部屋に入る。 行灯の明かりは火が灯ったままで、ちょうど月と似た色味をしていた。 静かな部屋に細々と響くのは、聞き覚えのある穏やかな寝息だ。 音を辿れば、畳の上で芋虫のような格好をして寝ている隊士が目につく。 こんな時間に俺の部屋で、という条件からすれば、顔が見えなくても相手が誰なのか簡単に想像できた。 「詩音」 溜め息を一つつきながら障子を閉め、部屋の真ん中に転がっているソイツの前に汚い姿勢でしゃがみこむ。 詩音は座布団を抱き枕にして、規則正しく鼾をかいていた。 「…ったく、」 上着を脱いで腹の辺りにかけてやればこれまた芋虫のようにもぞもぞと動いたが、まだ目覚めない。 足蹴にして起こしてしまおうかとも考えたが、コイツの仕事量からすればここで寝ているのも無理はなかった。 早朝から見廻りの当番にとっつぁんと城の警護、会議、監察方の手伝い。 夜中には俺と事務処理を進める予定だったはずだ。 大方、俺の帰りを待っているうちに眠ってしまったのだろう。 副長補佐はある意味俺以上に大変な役職だ。 「普通こんなモン抱くか?」 詩音が大事そうに抱いている座布団を奪おうとしたが、離す気は全くないらしく引っ張ってもびくともしない。 呆れた俺がそう話しかけても詩音の反応はなく、眠りは頑なに守られている。 コイツが抱いている座布団はせんべい布団ならぬせんべい座布団で、相当使い込まれた代物だ。 当然、中に詰められている真綿はぺしゃんこに潰れ、硬くなってしまっている。 ケツの支えになれない、年季だけは一人前の座布団だ。 近藤さんの屁に総悟のタマ菌、山崎の冷や汗など、色んなモンを吸い込んでいるに違いない。 「…抱き枕っつーのは、もっと抱き心地がいいものにするだろ。」 少なくとも俺なら、何が付着しているかわからない上にこんな硬くて冷たい座布団なんざ絶対に抱かない。 そう思ったときだった。 「ふくちょう、」 「…あ?」 突然呼ばれたせいで一瞬固まってしまったが、コイツは目覚めたわけではなく寝言を言っただけらしい。 座布団を一層強くぎゅっと抱きしめ直し、まだ眠り続けている。 どんな夢を見ているのか、それとも。 「…まさかな。」 もしかしたら、座布団を俺だと勘違いしているのだろうか。 色んなヤツの色んなモンが染み込んだ座布団には、コイツもよく世話になっている。 仕事を手伝わせるときは必ずこの座布団を使ったし、俺の説教を聞くときもこの座布団の上だった。嬉しいことがあるとここに座ってへらへらと笑っていたし、悲しいことがあれば少しは遠慮しろと言いたい位涙を流す。 この座布団は、詩音の重みや思いに何度耐え抜いたかわからない。 更に俺の部屋の私物だ、きっと相当煙草臭いだろう。 組み立てたのはあまりにも陳腐な仮説で、吸っていた煙草の味すら甘ったるく感じられる。 仕方なく机の上の灰皿に煙草を押しつけながら、眠り続けるコイツに問いかけた。 「そんなに気に入ってるのか。」 詩音に尋ねつつ、無造作に隣へ寝転がってみる。 コイツは横向きに眠っていて、俺に背中を向けていた。 こんな硬い座布団より抱き枕になるものがあるのにと思いつつ、ワイシャツ姿の詩音を背中から抱きすくめてみる。 寝顔が見えない体勢はあまり好かないが、抱き枕に見立てるならこれが一番いいはずだ。 「…ん、」 俺の腕の中にすっぽりと収まってしまう華奢な身体は、ワイシャツ越しでも温かい。 抱いて眠るのと抱かれて眠るのは、どちらがより深く眠れるのだろう。 そんなことを考えていると、コイツの身体がぴくっと揺れた。 「…っ副長?」 今度はいくらかはっきりした声だったが、俺に抱かれているせいで振り向けないらしく、腕の中でもぞもぞと動いている。 「あー、動くな。」 わざと耳元で話すと、詩音は僅かに震えて大人しくなった。 「…副長、おかえりなさい。」 そして寝ぼけているのか目覚めたのかはわからないが、座布団に話しかけたコイツは再びすうすうと眠ってしまう。 どうやら、詩音は俺よりも座布団を抱いていたいらしい。 「俺はそんなに硬くないっつの。」 悪態をつきながらも、今の俺がどんな表情なのか少々心配になり、コイツに顔を見られないほうが都合がいいという結論に達した。 「…上等だ、」 抱き枕を使って眠るなんざ初めてだが、腕の中から柔らかな吐息が聞こえるだけで深い眠りにつけそうだった。 こんな寝方をするのも、存外悪くないかもしれない。 「おやすみ。」 意識が薄暗い空間に溶け込む寸前、俺を抱いているつもりの抱き枕の首筋に口づける。 詩音の体温が俺の唇をほんのりと温め受け止める感覚に酔いしれながら、俺はゆっくりと目を閉じた。 Fin ←→ |