「栗屋くん、ちょっといいかい」
「はい」
出社と同時に上司に呼ばれ、一枚の紙を手渡された。 そこには、ーー「異動」の二文字。
「い、どう・・・ですか」
「ああ。君は素晴らしい人材だ。この部署にいるのは少し勿体無い」
「それは私が私の独断でそうしただけだ。その部署なら、今まで以上に君の能力を発揮できると思うんだよ。もし君がこの場所を気に入ってくれていると言うなら、・・・この書類は破り捨ててもらって構わない」
詩音は、目の前の穏和な上司と書類をまじまじと見比べた。 この職場は、あたたかくて、適度に厳しくて、気に入っていた。
書類の上に書かれた部署の名前に、もう一度目をおとす。 エリートが集う部署。 自分には縁がないと思っていた場所。
飛びこんでみたいと思った。 この中でどれだけ自分が誰かの役に立てるか、どれだけやれるか、試してみたい、と思った。
「・・・ありがとうございます!」
詩音の言葉に上司は目尻の皺を一層深くした。 その優しい表情に、涙腺が緩む。
「君は私達の期待の星だ。頑張ってきなさい、そしてまた、違う形で一緒に仕事をしよう」
「はい!」
その後も同僚たちに温かい祝福の言葉をもらい、デスクの片付けや残務処理などをこなしていると、あっという間に夕方になってしまった。 そろそろ帰るか、と時計を見上げた時、ヴー、と携帯が唸る。 メールが一通、差出人は「土方十四郎」。
「早く降りて来い」
(・・・・・・あ!)
そういえば、今日は金曜日。 土方の家で飲む約束をしていたのを、今更のように思い出す。
「ありがとうございました!」
感謝の気持ちをこめて大好きな職場に最大限のお辞儀をすると、詩音は怒涛の勢いで階段を駆け降りていった。
「遅い」
「ごめんなさい・・・」
「まあいいけどよ」
土方に色目を使う女達を押し退け、やっと車に乗りこんだ。 土方がやわらかくアクセルを踏み込み、車は発進する。
「ねえねえ十四郎さん、」
「あ?どうした」
「私ね、十四郎さんの部署に異動になったの!凄いでしょう!」
「・・・本当か?」
土方はぽかんと口を開き、数秒後、我に返ったように近藤さんの野郎、何も言わなかったじゃねーかと悪態を吐いた。 その緩んでいる口元に、意外とわかりやすい、と詩音の口も綻ぶ。
「じゃあ今日は外で食うか?歓迎会・・・にはまだ早ェけど、仲間呼んで」
「んー・・・んーん、今日は十四郎さんと一緒に仕事するのが決まった大事な日だから、十四郎さんの家で十四郎さんと二人がいい」
「ばっ、おまっ・・・」
「へ、何?」
隣を見ると、土方の耳があかい。 もしかしたら凄く恥ずかしいことを言ったのかもしれない、と詩音の頬もつられてあかくなる。
「・・・外であんま可愛いこと言うんじゃねェ、」
我慢できなくなんだろーが。 零された掠れた声に、余裕のない表情に、血液ポンプがどくりと跳ねる。 信号は、赤。 素早く唇と唇が重なった。 煙草の苦味が残るいつもの味が、詩音をいっぱいに満たす。
「続きは部屋で、な」
にやりと余裕綽々でとどめを刺され、詩音はこくんと頷きシートに身を沈めた。
もっと近くに、もっと側に
(あ、煙草の香り)
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