可愛い獣に咬まれる

 其処に向かったのはおそらく偶然だった。
 様々な憶測や計略が飛び交う中で、絶対的に揺るがぬ根底を持ち総てを等しく秤に掛ける機関。
淡々と生死が振り分けられていく様は工場のようだとすら思う。
 彼等の仕事に意を唱えたいわけでもないし、嫌悪感を抱くこともない。ただ、純粋に機械のごとく日常を消費していく毎日が楽しいのかという疑問を抱いただけ。
「存外広いものね。収容所も兼ねてるから、当然といえば当然なのだろうけれど」
 硬質な床を踏みしめながら歩いても、こちらを気にするような人間は居ない。
 モノクロの世界から浮き出るような深紅を纏っていても、国柄に沿わぬ衣装を纏っていても、面白いように周囲の人の目は私をすり抜ける。
「こちらも当然といえば当然ね」
 本来私は「そういうもの」なのだから。
 意識して認識させようとしなければ取りこぼされる存在。別段己の出自を嘆くことも、恨むこともない。たんに本体がアレなのだから仕方ないと割り切っているだけだ。
「さてと、折角なので会いに行ってみようかしら」
 近しい存在が嗤っている気配を感じながら目的地を探し彷徨う。
 本来いるべきではない私が、この時間軸に存在するという不確定要素。異物や違和感は大歓迎だと諸手を広げる水銀を虚空に幻視し、つまらないものを見てしまったと瞼の裏から追い出す。
「この辺り……?」
 いつの間にか静かになっていた空間で立ち止まり、一際重い空気を垂れ流している扉の前で立ち止まる。
 目覚めを拒否する黄金。ご婦人方に熱い視線を向けられっぱなしの、怠惰な日常に身を浸す首切り長官。
 若かりし頃のハイドリヒ卿がどんなものであるのかを確かめる良い機会だと、ドアノブに手を掛けるが思うように回らない。もしや鍵でも掛かっているのではと手を離すと同時に、眼前のドアが押し出され慌てて距離を取った。
「卿、此処でなにをしている」
 長身の美丈夫から掛けられた声に動きを止め、行き場のない手をゆっくりとした動作で下ろす。
 これは予想していた以上に格好良い、と形容するしかあるまい。
 元々絢爛豪華な黄金の獣だが、小さな器に押し込められている窮屈そうな感じもなかなか見応えがあると目を細め、首が痛くなりそうだったので更に二歩ほど距離を取る。
「Guten tag、ハイドリヒ中将」
「Guten tag。して、卿は何者だ」
 深みのある青が苛烈な金を覗かせるのを楽しく見つめながら、不法侵入者に律儀な挨拶を返してくれる生真面目さに口元を緩める。
「まぁまぁ、そう急がずとも時間はたっぷりございますから。これ、よろしければ如何です?」
 手土産と称し購入してきた菓子の箱を眼前に掲げれば、「駄菓子は好かぬ」と硬い声が降ってくる。
「そうですか、それは残念」
 用途の無くなった菓子は後で美味しく頂こうと心に決め若き黄金を観察する作業に戻れば、険呑な光を含んだ青さが真っ直ぐに向けられ思わず笑いたい気分になった。
「何用か」
「私の用事は貴方に会うことだったので、今この時をもって済んでしまいました」
「なれば、疾く去るがいい」
「あら、見逃して下さるんですか? ゲシュタポ長官殿はお優しいでのすね」
 未だ眠る爪牙は柔く、向けられる殺気は薄い膜に包まれている。心ゆくまで若き日の姿を堪能する私とは裏腹に、次第に嫌悪感らしきものを顕わにするハイドリヒ卿。
 人の枠に囚われていることの、なんと面白いことか。
 つい、アレと同じような思考回路を発動してしまい、これはいけないと気持ちを切り替え瞼を伏せる。
 死の香りに捕らわれた建物に、死を想う支配者。
 脆くも美しいガラス絵のような光景に満足し、偉大なる地獄の王にこれ以上の無礼を働かぬよう一礼を残し踵を返す。
「卿は――アレと同じ香りがするな」
「あら」
 背後から掛けられた声にやはり同等の魂を持つ存在だと笑みを深め、結局自分は彼の機嫌を損ねてしまうのだと嘲笑で口元を彩る。
「カール・クラフトを宜しくお願い致しますね、ラインハルト・ハイドリヒ中将」
 満面の笑みと共に振り返れば案の定可愛い獣は麗しい相貌を僅かに崩しており、宝石のような青さから滲み出る黄金に改めてメルクリウスの不人気さを嗤った。
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