後編

「ちょっと伏見さん、髪濡れたままじゃないですか!」
「……チッ、煩ぇな」
 昼寝から起床しおかしな速度で仕事を始めた伏見さんを置いて買い物に行き、うちは焼き肉屋かと思うレベルの肉を焼き、あっさりと食べきってみせた伏見さんを横目に胃薬を飲んで、部屋に付いた匂いを抹消すべく消臭スプレーを一本分使い、疲れ果てた身体を引き摺って入浴し、これでもう何もないだろうとベッド上で寛いでいたら、私の後にお湯を使った伏見さんが髪の毛からぼたぼたと水を垂らしながら歩いてきた。
 仮にも他人の住居に間借りしているのだから、家主のルールに従うべきなのではないか。
 とりあえず放置するわけにはいかないと側に置いてあったドライヤーを掴み、水を撒き散らかしたままパソコン前に戻ろうとした伏見さんの肩を掴む。
「ンだよ……」
「歩き回らないで下さいよ」
「チッ……」
「ここに座って下さい、ここ」
 ローテーブルの下に引いてあるラグを濡らされたくないので、該当場所に辿り着く前に伏見さんを捕獲し無理矢理床に座らせ、手にしたドライヤーの威力を一番強くし、水気を含んでぺたりと張り付いていた頭部に向かって思いっきり吹きかけた。
「ちょっ……」
「うっわびっしょびしょ」
 軽く指を差し込み空気を入れるようにしてドライヤーを当てていくと、周囲の床に水滴が落ちていく。なんとなく伏見さんのように神経質そうな人は水滴を完全に拭ってくるイメージがあったのだが、どうも家にいる間の伏見さんは業務中の伏見さんと同一人物に見えない。
 かといって、数年前HOMURAのバーで頬杖を付きつまらなそうな、世界に飽きたというような表情でタンマツを弄っていた伏見さんとも違うような気がする。
 となると、今ここに居る伏見猿比古という存在は、何者と表記するのがしっくりくるのだろうか。
「熱ぃんだけど」
「えっ!? あ、すみません!」
 考え事をしていたせいで同じ部分に温風が当たってしまっていたらしく、機嫌を急降下させた伏見さんに持っていたドライヤーを取り上げられてしまった。
「クソッ……なんで俺がこんな」
 ガシガシと乱暴に髪を掻きながらドライヤーを掛けている伏見さんを後ろから見ていると、どうしても言わずにはいられない疑問が口から滑り落ちた。
「熱くないんですか?」
「あ?」
 伏見さんがドライヤーを当てているのは側頭部、眼鏡のツルがある部分だ。
 赤のクランに所属し、焔を扱う力を有していても、熱せられた金属は熱いのではないだろうか。それとも、赤のクランズマンは耐熱の能力も付随してくるのだろうか。
「眼鏡、ドライヤーで温まって熱くありません?」
「……チッ」
 今更気付いたと言わんばかりに眼鏡をテーブルの上に放り投げたところをみると、どうやら熱かったらしい。認識した途端急に感覚が鋭くなるのは誰でも同じなのだと妙な感慨を抱いていたら、何故か伏見さんが一度取り上げたドライヤーをこちらに押しつけてきた。
「あんたがやれ」
「え」
「チッ」
 話す事は無いと背を向けた伏見さんの後頭部を見つめ、今度は同じ部分を熱さないよう気をつけながら作業を再開させる。
 普段の跳ねている髪からは想像出来ないような柔らかさは、なんだか伏見猿比古という男に不似合いなような気がして、早く乾かしてしまおうと作業に専念することにした。
 私よりも背の高い伏見さんの髪を乾かすとなると、自然と膝立ちになってしまう。こんなことなら自分だけでもラグの上に行けば良かったと、少々痛み始めた膝をこまめに動かしながら温風を当てること十分。ようやく伏見さんの髪から水気が抜けた事を確認し、腕に疲労を与える原因となっていたドライヤーの電源をオフにしベッドの上に置いた。
「終わりましたよ」
「ん……」
「伏見さん?」
「……」
 猫背で座り込んだまま動かない伏見さんを見ていると、嫌な予感が胸中を過ぎる。
 たしかに、美容院に行った時など他人に髪を乾かされていると眠くなることがあるが……まさか、伏見さんも同じ魔力に取り憑かれてしまったのだろうか。いやいや、あの伏見さんがまさか、そんな。
「って、ちょ……っと」
 伏見さんの状態を確認すべく身を乗り出した途端、私の動きと相反するよう伏見さんの身体がこちら側に倒れてきた。一体何が起こったのかと目を白黒させた私とは裏腹に、伏見さんは器用に身体を捩り私の腰に手を回してくる。
 誰だ、これは一体何者なんだ。
 伏見猿比古という名前の別人なのではと全身を硬直させた私の上で、伏見さんは「あったけぇ」と間延びした声で鼓膜を振るわせた。
「お……ふろ、あがり……ですから、ね。伏見さんだ、って、温かい……でしょ」
「ちげぇよ」
 猫だ。これは猫なのだ。伏見猿比古という名の黒猫なのだと己に言い聞かせ、乾かしたての髪をそっと梳けば、先程まで熱せられていた温もりが指先からじんわりと伝わってくる。
 どうしよう、と考えても伏見さんから逃れるべく身体を動かしたら、仕事中に良く耳にする愚痴の羅列で空間が圧迫されてしまうのは目に見えている。となれば、このまま耐えるのが一番の最善という事になるのだが……さすがにここまで近い位置をキープされると逃げ出したくなるのが人間の本能というもので。
「伏見さん」
「……」
 いや、そうだ、思い出せ。今自分の半分を占領しているのは猫だと先程理解したばかりではないか。冬場の猫が暖を求めているだけなのだと再度己に言い聞かせ、諦めが肝心だと強い意見で己を縛り上げる。
「私の部屋の居心地が良いっていうのも、問題ありだと思うんですけどねぇ」
 無言を貫く伏見さんにため息を一つ漏らせば、「なんでだよ」とくぐもった声が服越しに私の身体を震わせた。
「だってセプター4の寮よりも、民間人が経営しているアパートの方が居心地良いなんて問題じゃありません?」
「男子寮は最悪だ」
「え、そうなんですか?」
 人の腹部に顔を押しつけたままの伏見さんのせいで、言葉を綴るのがなんだかこそばゆい。
 なんとなく腹に力を入れ引っ込めてしまうのは僅かに残った乙女心というやつなのだが、果たして伏見さんが微量なそれに気付いてくれるかどうか。
「ここはあったかい」
「狭い部屋に人間が二人いるし、パソコンの廃熱で温かくなってるだけだと思いますよ」
「そーかよ」
「そうですよ」
 見た目に反し甘えたな黒猫は、どうやら私の上から退くつもりはないらしい。
 完全に業務終了のお知らせだと諦めの息を吐き出して、猫が満足するまで付き合ってあげることにした。



 翌朝、寝ていた私の耳に伏見さんの舌打ちが届き無理矢理瞼を押し上げると「来客」と、警戒心を顕わにした伏見さんが入り口のドアを顎でさす。
「まだ九時前じゃないですか……えぇ……誰だろ。新聞の勧誘かなぁ」
 寝癖の付いた髪を片手で押さえつけ、軽く上着を羽織って玄関戸を押し開けると、朝という空気そのものの爽やかさを纏った存在が、満面の笑みで片手を上げた。
「やっほー紗代ちゃんおはよー!」
「……十束さん、おはようございます」
「もしかして寝起き?」
「はぁ、まぁ」
 部屋の中を見られてはまずいと中途半端に開けた扉から外界へ滑り出、後ろ手にドアを閉める。
「あれ? どうしたの?」
「何がですか?」
「いつもだったら中に入れてくれるからさ」
「ああ……実は今、猫を預かってまして」
「うっわぁ! 猫いいよねー! 俺も猫すっごい好き」
 身振り手振りで猫好きをアピールする十束さんに頷きながら、中に居る伏見さんは十束さんの来訪に気付いたのだろうなぁとぼんやり考えた。
「何歳くらいの猫なの?」
「大人になったばかり……って感じですかね? 昨日も夜遅くまで構ってたら寝るの遅くなっちゃって」
「分かる分かる。元気盛りだよねぇ」
「本当に」
「あ、そうだ。これ忘れないうちに」
 十束さんが持っていた荷物を受け取ると、空腹にダイレクトアタックするような良い匂いが鼻孔をくすぐる。
「ありがとうございます! 草薙さんのご飯食べるのが毎週末の楽しみで」
「それ本人に言ったら喜ぶよー。じゃああまり長居してもアレだし、にゃんこによろしくね」
「はい、わざわざ届けて下さってありがとうございました」
 午後になったら取りに行こうと思っていたのに、まさか持ってきてくれるとは思わなかった。
 笑顔で去っていく十束さんを見送り部屋に戻ると、案の定伏見さんが舌打ちと共に出迎えてくれ、やはり猫は気難しいなと当人に聞かれたら緊急抜刀されそうな事を考え、今し方受け取ったばかりの料理をローテーブルの空いている部分に乗せる。
「なんだよ、それ」
「実は毎週末、材料費渡して草薙さんに夕飯作って貰ってるんですよ」
「んなことしてんのかよ」
「美味しい物が食べたいというのは原始的な欲求ですから」
「チッ」
 今のは馬鹿馬鹿しいという意味合いなのだろうと推察しながら、折角なので今日のお昼ご飯はこれにしようと心に決め、料理に合うようなお茶のストックがあったかどうか戸棚の中身を思い出してみる。
「紗代」
「はい、なんですか?」
「上のヤツが帰ってくる日とか知らないのか」
「今夜だと思いますけど」
「は?」
 聞かれなかったから答えなかっただけで、私がここに越してきてから上の階の住人は週末にしか帰ってきていない。
「なんで先に言わねぇんだよ」
「いや、なんでといわれ……すみません」
「チッ」
 伏見さんが得た情報をインカムを通し他の隊員に告げるのを聞きながら、のんびりご飯を食べれるのはお昼が最後だな、と少しばかり寂しい気分になった。
 夕方になり、他の人達が配置に着いたのを確認した伏見さんが、いつでも突入出来るようサーベルの柄に片手を乗せる。まさか、天井を突き破って上の階へ行くのかと顔を青くした私を馬鹿者呼ばわりし、伏見さんが玄関戸で待機すること三十分。
 ドア越しに動く気配が二階に上がり、天井に付けた盗聴器が上の音を拾ったのを確認し、伏見さんは気配を殺し私の部屋から出て行った。
 あと数分もすればストレインである男は身柄を拘束されるのだろう。
 私と伏見さんの短く奇妙な共同生活が終わるのだと実感すると、ぽっかりと胸に穴が空いたような感覚に陥る。
 なんだかんだいって一人暮らしをしていた日常に、他人の気配が在る事を受け入れていたのは私の方だったようだ。
 気分やの気まぐれを面倒だと感じていたのに、いなくなると寂しいと思ってしまうくらいには、伏見猿比古という猫のいる生活を気に入っていたのだろう。
「はぁ」
 小さく息をつき、空いた穴を埋めるように胸の上を両手で押さえる。
 こんなことなら、帰ってこなければ良かったのに。などと自分勝手な事を考えていたら、普段押さえ込んでいる苛立ちがふつふつと沸き上がってきてしまって。
「どうせ、拘束されるんだし」
 何度か深呼吸を繰り返し、上の階にいる住人へと意識を集中させると同時に、激しい音が響き伏見さんが突入したのだと知った。



「紗代、あの時何してた」
「あの時?」
 後日報告書を纏めていた私のデスクに腰を掛け、主語のない問いを投げつけてきた伏見さんを見上げると、先日の一件だ、とやる気のない声が私の耳に届く。
「異能の数値が跳ね上がったのに、突入したら対象が頭抱えてうずくまってやがった」
「そうなんですか? でも私何もしてませんよ?」
「へぇ? 距離的に計測値に影響するの紗代くらいしかいねーんだけど 」
「私に戦闘能力が無い事なんて伏見さんもご存じでしょう? 時間の無駄になりますけど、疑うなら測定でもなんでもしてみたら如何です?」
「……チッ」
 埒の明かないやり取りに使う時間はないと鋭い舌打ちを残し、書類を片手に去っていく伏見さんの後ろ姿を見ていたら、報告しなければいけない事をすっかり失念していた。
「あ、伏見さん。ありがとうございました」
「はぁ?」
 意味が分からないと片眉を吊り上げた伏見さんに意味深な笑みを送り、私は自分の机上に積まれた仕事に視線を戻しこの話は終わりだと口を噤む。
 こちらの態度から先がないと察したのか、伏見さんはいつもの猫背のまま側にあった椅子を蹴り、わざとらしい足音と共に情報室から出て行ってしまった。
「黒猫、ね」
 今回の一件で、空いた部屋の入居希望者がいなくなってしまったのか、来月から私の部屋の家賃が少々値引きされるらしい。
 どうやら私の家に居候していた黒猫は、不幸の代わりに幸運をもたらしたようだ。
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