黒猫とドライヤー 前編

 期間限定で黒猫を飼うことになった。
 この黒猫、気位が高いのかはたまた縄張り意識が強いのか。人の部屋の中央を陣取ったまま動く気配をみせず、家主である私に敵意めいた気配すら向けてくる。
 一言で言えば厄介としか言い表せないこの黒猫を預かる期間は三日間。
 そして、扱いづらい黒猫の名前は伏見猿比古という。



 発端は淡島さんから告げられた、「伏見を頼むわ」という謎の一言だった。
 珍しく仕事が早い段階で一段落付き、ダメ元で申請した有給があっさり受理された時点でおかしいと思うべきだったのだ。
 いくら暇が到来したとはいえ週の半分を休みにしたいと願い出れば、何らかのお小言や質問くらいあるのが普通だろう。
 基本的に庶務課はほかの部署よりも人員が多く融通が利きやすいという利点はあるが、何故か私は一日のほとんどを特務隊の情報室で過ごしているので庶務課に在籍していることで発生する恩恵を受けれたことはない。
 一応まだ正式に異動の辞令を受け取っていないことから、勝手に出向扱いだと思っているけれど、定期的に自分の所属は本当に庶務課だったのかと疑問を抱くことがある。
 お陰様で一般の隊員があまり関わらないはずの宗像室長とのエンカウント率は増えるし、特務隊の人たちの報告書作成の手伝いをさせられるし、経費その他の数字に関連する仕事のお陰で終電帰宅がデフォルトになるし、と悪いことづくめの毎日を過ごしている。
 軽く鬱になっても許されるくらいの代わり映えのない時間で埋め尽くされた日々に、突如舞い降りた開放感。
 しかも、私が提出した有給申請に判を押し手渡してきたのが、ほかの誰でもないあの室長であったという時点で疑念を確信に変えねばならなかったのに。
 浮かれるという気持ちはこうも判断力を鈍らせるのかと後悔してもすでに遅し。半日前に感じた高揚感を奥歯ですりつぶしながら、私は決して広くはないワンルームの中央でノートパソコンを弄っていた侵入者に「ただいま」と帰宅の挨拶を向けた。
「一応聞かせてください。なんで伏見さんがうちにいるんですか?」
 素朴な疑問を舌打ちで一蹴し、伏見さんは腰を痛めそうな猫背のまま青白い光を発する画面へと視線を戻してしまう。
 伏見さんが必要最低限か、長ったらしい愚痴しか喋らないことは知っているが、自分の部屋の中でやられると良い気分にはなれない。
 ここはセプター4の寮ではなく、私が毎月の給与から支払っている、狭くとも愛しい私の城なのだ。
 普段は寝に帰ってくるだけだとしても、私のテリトリーに変わりはない。これはあれだ、一二〇協定違反だと腹の底からわき上がる苛立ちを噛み殺していたら、いつもの舌打ちと共に伏見さんが「聞いてねぇのかよ」とくぐもった声で呟いた。
「あんたの上の部屋にストレインが住んでる」
「へぇ」
「……何とも思わないわけ」
「会ったことありませんしねぇ」
 正直一度も顔を会わせたことのない他人を気にかけるほど、精神に余裕のある日々を過ごしているわけではない。
 帰宅して最低限の用事を済ませ死んだように眠り、けたたましい目覚ましの音で起きるローテーションから抜け出せるのはせいぜい週末くらいだし、その週末も平日の間に溜まった細々としたものを消化しているだけで終わってしまうことがほとんどだ。
 だから特に気にしたこともないと再度自室を占領している男へ告げれば、苛立ちを過分に含んだ舌打ちが室内に木霊した。
「普通もっと色々あるもんじゃねぇの」
「ええー……そう言われましても」
「つーかなんでストレインが間近にいて気づかねぇんだよ」
「気にしてなかったから、としか言いようがないんですが。あ、面倒を押しつけられたからって私にあたるのは止めてくださいね」
 伏見さんに何を言っても現状を打破することは出来ないと、履いたままだった靴を脱ぎ後ろ手にドアの鍵をかけ、買ってきた食料を冷蔵庫にしまうため部屋の中へと足を踏み入れる。
 何故だか自分の部屋にいるというのに、パーソナルスペースが極端に狭い伏見さんのせいで息苦しさを感じてしまう。
 これでは折角の連休が台無しだと気鬱さをため息に乗せ吐き出せば、先ほどまでパソコンに向かっていたはずの伏見さんが真後ろに立っていて驚いた。
「腹減った」
「え」
 まさかこの男は私の食費にまで着手するつもりだろうか。
「ちょ、張り込みするなら自分のご飯くらい自分で用意してくださいよ。こっちは場所提供してるだけでも充分すぎる負荷がかかってるんですから」
 食卓代わりにしているローテーブルに設営された機材の数々を横目で見ながら、来月にくるであろう電気料金の請求書を脳裏に思い浮かべげんなりとする。
「紗代、飯」
「人の話を聞きましょうって、昔出席簿とかに書かれませんでした?」
「紗代」
「張り込みならアンパンと牛乳でも買ってくればいいのに」
 ため息交じりに吐き捨てた台詞を伏見さんは鼻で笑い、人の冷蔵庫に片手を突っ込み適当に食材を取り出し私の前に放り投げた。
「……横暴」
「声が小さすぎて聞こえねーぞー」
「何も言っておりませんので、お気遣いなく!」
 とりあえず伏見さんから距離をとり、リビングに戻っていく猫背を見送った後、仕方なく今日の献立から野菜を抜いたメニューを作るべくフライパンに油を注ぐ。
 いっそのこと全て経費として請求してやろうか、と腹黒い感情を抱えながらチャーハンでも作ろうかと冷蔵庫を開け、普段はあるはずの卵が綺麗に無くなっている事に気付いたのであった。
 結局、試行錯誤の末出来上がったのは卵も野菜もない、白いご飯に味をつけて肉類と共に炒めた謎の焼き飯。という逆立ちしても人様に出していい食事ではない代物が出来上がってしまったのだが、伏見さんはそれを何も言わずに完食し空になった皿をこちらに寄越した。
「お代わり」
「え」
 普段から栄養補助食品しか口にせず、偏食で小食な伏見さんがどんな青天の霹靂だというのか。というか、この人の味覚……内臓状態、むしろ遺伝子が突然変異でもしてしまったんじゃないんだろうか。
 とりあえず考えつく罵詈雑言らしきものを脳内に展開させた後、「ありません」と自分の分の皿を抱えながら発言すれば、傍目からでも分かるくらいに顔を顰め、いつもの気怠そうな声で「そーかよ」と伏見さんは舌打ちと共にパソコンへ視線を戻した。
 なんなのこれ、むしろ怒って良いのは私の方だよね?
「明後日の夜は美味しい物食べれるので、それまで我慢してください」
「……チッ」
 気にくわないなら食うな。心の中で付け足した言葉に気付いたのか気付いてないのか、伏見さんは何か言いたげな瞳で私の方をじっと見た後、くぐもった舌打ちと共に光速で十本の指を動かし始めた。
「伏見さーん、私の部屋を基地局代わりにするのはいいですけど、生活パターンは融通してくださいね」
「はぁ?」
「遅くても2時には寝ますから、強制消灯ですから。伏見さんも私の家にいる間はこのルール守ってくださいね」
「チッ……分かった」
 ここでごねられたらどうしようかとも思ったが、なんとか伏見さんの口から肯定的な単語が出たので胸をなで下ろした。
 とりあえず家主の特権で私がベッドを使うことは確定しているので、伏見さんには床で寝てもらおう、そうしよう。
 予備の寝具は用意していないので、仕方なく自分の上掛けを1枚渡すことにし、仕事に勤しむ伏見さんを横目にベッドの上で本を読み始める。
「なぁ、紗代」
「あ、お風呂なら勝手にどうぞ。タオルとかもその辺にあるの使ってくれて構いませんから」
「……あっそ」
 そういうと伏見さんは着ていた隊服の上着をぞんざいに放り投げ、仏頂面を晒したまま伸びを一つ。
 着替えなどはどうするのだろうという素朴な疑問を抱いた私の側で、何気なく手にしたスポーツバックの中から着替えと思われる物を取り出し、伏見さんはユニットバスのある方へと歩いて行った。
「皺になっちゃいますよー。って袖まくりしてる時点で気にしてないのか」
 仕方なく投げ捨てられていた上着を手に取り両手で広げてみれば、無臭のはずの隊服から何故か伏見さんの香りがするような気がした。
 試しに袖を通してみる、などと漫画に出てきそうな少女が選択するような行動はとらない。
 ただ、細身の割には大きいな、と妙な感慨を抱きながら空いているハンガーに伏見さんの上着をかけ吊せば、自分の中にわだかまりとして残っていた何かが霧散していくような感覚を得た。
「……何してんだよ」
「え?」
 背後から掛けられた声に振り向けば、眉間の皺を三割増しにした伏見さんが舌打ちを披露しながら人のベッドの上に腰を下ろす。
 ワンルームを圧迫している理由の一つとなっている、お気に入りのセミダブルベッドに第三者が座っているという事実がなんとなく気にくわない。
「伏見さん、うちに居る間は脱ぎっぱなしとかやめて下さいよ。ちゃんとハンガー用意しておきますから」
「チッ」
「なんでも舌打ちすれば良いって問題じゃないですからね」
 そう言って伏見さんの横まで歩き、上掛けの一枚を片手に抱え伏見さんに押しつけ、そのままベッドから落とすように横から力を加える。
「おい」
「人のベッドに勝手にあがらないこと!」
「チッ、面倒臭ぇ」
「こっちの台詞です」
 嫌がる伏見さんをぐいぐいと押し続ければ、諦めたのかベッドを背もたれ代わりにし床へ座り込んだ。
「これ、上掛けにしてください」
「……暑苦しくねぇ?」
「羽毛布団は年中無休で大活躍してくれるんです」
「あーそうですか」
 全然納得していない風なぶっきらぼうそのものの返答をもたらしながら、伏見さんは押しつけられた布団を抱え、ノートパソコンが置いてあるローテーブルを足で退かし床に寝転がってしまった。
「あれ、寝るんですか?」
「……」
「寝るなら電気消しちゃいますよー」
 返事がないので肯定とみなし、予定よりは早いが就寝の準備をする事にする。伏見さんは風呂に入るついでに歯磨きでもしてきのだろうと推測し、とりあえず自分のことだけを考え日常に戻るべく決められた行動を繰り返すことにした。
 歯を磨きお風呂に入り、就寝の準備が整ったところでリビングに戻ってくれば、伏見さんは羽毛布団を頭から被り寝ているのか起きているのか分からない状態。喋り掛けても返事はこないだろうし、このまま電気を消しても怒られないだろう。
 おやすみなさい。と、とりあえず就寝の挨拶で空気を震わせ、手元のリモコンで電気を消す。
 自分以外の人間の気配がする部屋というのも不思議だと思いつつ、派遣されてきたのが伏見さんでなければ余計に気疲れするんだろうな、と様々な可能性をぼんやり脳裏に浮かべていたら、いつのまにか意識が闇に溶けていた。



 ふと、喉の渇きを覚え重い瞼を押し上げる。
 枕元においていたタンマツを確認すれば時刻は午前3時過ぎを表示しており、目を閉じてから数時間経っている事に少々驚きを覚えた。
 回りきらない頭で無理矢理身体に信号を飛ばし、まずは上体を起こして水を入手する為に床へ足を付ける。ふらつく身体に一本芯を通すように慎重に足を運び――勢いよく全身の体重を掛け何かを踏みつけた。
「ッ!?」
 急激に膨れあがった殺気に肌が粟立つ。
「あ……」
 のそりと布団から顔だけを出した伏見さんと暗闇の中で目が合った事に気付き、そういえば今私の家には伏見さんが居たのだという事実を思い出した。
「……」
 睨まれた。ものすごく、音が付きそうな勢いで睨まれて、可哀想な事に私の睡魔は全速力で逃げ去ってしまった。
「す……み、ません」
 乾ききった舌を無理矢理動かし謝罪の言葉を口にすれば、普段よりも数段低い舌打ちが耳の側を通り抜け暗闇の向こう側へと消えていく。
 痛ぇ、と殺意の籠もった声が地べたを這い、足を縫い止められてしまった私の頭からは水を取りに行くという当初の目的は消え失せていた。
「伏見さん」
 元はといえば、部屋の真ん中で寝ている伏見さんが悪いのではないだろうか。
 ベッドから離れた壁際……居候ならば居候らしく、部屋の端っこで眠るべきなのではないか。
 一度沸き上がってしまった苛立ちは消えることなく内面を焦がし、次第に招かれざるべき存在に対しての攻撃的な感情となっていく。
「ちょっと起きて下さい」
「……んだよ」
「いいから」
 珍しく眼鏡を掛けていない伏見さんを見下ろし、無理矢理布団を剥いで片腕を掴み引っ張り上げ、自分の寝ていたベッドの方へ誘導し、そのまま奥へ転がすように背後から勢いよく押す。
「いっ、てぇ……おい、あんた何考え――」
「床で寝てるから踏んじゃうんですよ。だからそこで寝て下さい。普通のベッドよりも広いし、寝苦しいってことはないでしょう」
「ちょ、紗代」
 未だ何か言おうと口を開いた伏見さんの言葉を遮るよう、体格の割に小さな頭を抱え込み、慌てたような気配を醸し出した伏見さんを埋めてしまうように、退けていた布団を首元まで引き上げる。
「文句は起きてからにしてくださーい」
「……チッ」
 流石に息苦しいのか体勢を変えているらしい伏見さんの為に拘束を緩め、動きが止まるのを待って再び小さな頭を抱え込んだ。
「おやすみなさい」
「……」
 日が昇るまでにはまだ充分な時間があるし、今から寝れば快適な目覚めを入手することが出来るだろう。
 人生初の抱き枕が伏見さんというのもどうかと思うのだが、少しばかり冷えた空気が気にならなくなる程度には心地よいと感じる熱源を、むざむざ手放すこともない。どうせ眠ってしまえば気にならなくなると肺に溜まった空気を押し出し、再び意識を拡散させるように目を閉じれば、目の裏にタンマツの光が星のように瞬いた。
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