「いー天気」
 頭上に浮かぶ月に手を伸ばせば、温かいような気がするから不思議だ。季節がら夜でも温かいし、なによりここは風通しが良い。
「寝るには最高だなぁ」
 背から伝わる屋根の冷たさに口元を緩め、ゆっくりと目を閉じる。
 視界の裏を優しく照らす月明かりはあの人を思い出す。太陽の様に人懐っこい笑みを浮かべて周囲を照らす陸遜とは裏腹に、同じ軍師という位置にいても素行も評判も女癖も最悪なあの人。
「でも」
 常に策略を練っている狡猾な瞳が綺麗だと思う。己の立場を最大限に生かして他者を踏みにじる不遜さに感嘆する。最悪だと常々思っているのに、つい目で追ってしまうカリスマ性は、月のようだと思ってしまう。
 もう随分声を聞いていない。態度や生活とは裏腹に病的だったあの人は、元気にしているだろうか? 風邪は引いていないだろうか? ちゃんとご飯は食べているだろうか? 朝は……誰が起こしているのだろうか?
「やだ、ホームシックかな」
 熱くなる目頭を押さえるよう、両手を交差させ月の光を遮る。
 選んだのは自分。先に進もうとしたのは自分。
 後悔するには、まだ自分は何も成していない。
「――っ」
 自分の考えに没頭していたせいで、気配を探るのが遅れた。
「白蓮」
 在るはずの無い声が聞こえ、反射的に上体を起こす。
「りく……そん、さま」
 衝撃で零れた雫をどう捉えたのかは分からないが、視界の悪い世界で陸遜がハッキリと表情を変えたのが理解出来た。
「――私は、報告に来るようにと言いませんでしたか」
「あ」
 自分の仕事に満足して、報告することを見事なまでに失念していた。軽やかな足取りで距離を詰めてくる 陸遜に心臓が煩く音を立て始める。僅かな恐怖心と、僅かな好奇心に瞬きせず陸遜を見つめていたら、「見苦しい」という冷えた声と共に外套らしきものを投げつけられた。
「申し訳……ございませんでした」
 投げつけられた外套を両手に抱えれば、ふわりと鼻腔を擽る香りに気付く。真っ青な空を思わせる清浄な香りの中に混じる、花のような甘い香り。これは陸遜が好んで焚きしめている香の香りだ。
「あの、陸遜様?」
「夜は冷えます。貴女は馬鹿だから、風邪は引かないでしょう?」
「……はい」
 遠回しに向けられた優しさに、むず痒い気持ちになった。将来有望株な陸遜が、私という存在を嫌っているのは知っている。足手まといにしかならないのに、いつまでも隊に居続ける私は、陸遜の出世を妨げる要因にしかならない。
 敵意しか向けられることはないのに、どこか心地良いと思ってしまうのは私の性格が歪んでいるせいなのだろうか。
 手にした外套に鼻先を埋め、合わせていた視線を逸らす。視界に映る陸遜の靴が、少しづつ距離を詰めているのは分かっていた。見つめていたいと思う気持ちと、見ているのが怖いという想いが半々。
 後一歩の距離で止まった陸遜は何も言わずにこちらを見下ろす。
「……あの」
 私と視線を合わせるのが嫌なのか、わざとらしく顔を逸らして陸遜は私の隣に寝そべった。
「……陸遜、様?」
 何をしているのだこの若造は。まさか、私が彼の外套を持っているから帰れないとか、そんな因縁をつけるつもりだろうか。
 憮然とした雰囲気はそのままだが、ずっと見ていたいと思わせる強い光を宿した瞳は閉じられ、幼さの残る顔を無防備に私の前に晒している。これは夢だろうか? 書庫整理を頑張った私に対する、ささやかなご褒美なのだろうか? 次々と沸いてくる疑念から手を伸ばして確かめたくなったが、触れたら最後、薄氷の様に砕け散ってしまいそうで、動きかけた指先にぐっと力を入れて堪えた。
「白蓮」
「はい」
 冷たい音で名を紡がれ、同じ温度の声色で返事が落ちた。
「私は、使えない者が嫌いです」
「存じております」
 陸遜は瞳を開けようとしない。
「ですが、それ以上に諦めている者はもっと嫌いです」
「……はぁ」
 陸遜の意図が読めぬと呆けた声を上げれば、窘めるように片目の瞼が押し上げられた。
「貴女は」
 上体を起こした陸遜の髪を心地の良い風が揺らす。幻想的にも見える光景を崩したくないと、自らの色彩が視界に入らないよう片手で髪を押さえた。
「何故戦おうとしないのですか」
「必要がないからです」
「なっ!」
 即答した私に陸遜が驚きを顕わにする。冷静沈着な軍師様が珍しいことだと観察を続けていたら、私の視線が気に障ったのか、秀麗な眉をきつく寄せた。
「貴女がなんと呼ばれているのか知っていますか」
「屑、とか雌豚、とかそれくらいなら耳にしたことありますけど」
「……もういいです」
 陸遜の傍にいる女というだけで向けられる嫉妬。
 武を目指すには貧弱な体と不利な性別。何をやらせても上手くこなせず、足を引っ張り続けるだけの厄介者。
「悔しいとは思わないのですか」
「……何故?」
 罵られても嘲笑われても気にはならない。
 だって、それは本当の事だから。
「白蓮、貴女は!」
 陸遜という軍師が私を嫌っているのは理解している。けれど、この人は。
「陸遜様は、優しすぎますね」
 私という存在の代わりに怒りを顕わにする少年が愛しいと思う。部下が上司に対して抱く感情でないことは分かっているけれど。
「本当の事なんですよ。だから、怒る気にもならないんです」
 女官と顔を合わせる度に言われる言葉がある。
 みっともなくしがみついてまで、陸遜の傍に居たいのかと。
「全部、本当なんですよ……陸遜様」
 傍に、居たいと思ってしまった。
 あの日……貴方という存在に出会ってしまった時から。
 必死で模索している姿を目にして、近くにいってみたいと思った。近くにいったら、今度は色々な事を知りたいと思った。色々知ったら、もっと。という欲望が芽生えた。
 もっと、貴方の様々な感情が見たい。普段は温厚な貴方が私にだけ向ける嫌悪感が心地良い。
 だから、私は、貴方の嫌いな私が好き。
「貴女の望みはなんですか」
「え?」
「己という存在を卑下してまで、貴女が望んでいるものはなんですか」
 欲望を告げる切欠を与えられたというのに、咽が張り付いてしまったように声が出ない。
 きっと私は怖いのだろう。陸遜が私に対して何の感情も向けなくなることが。
「……いないことに、しないで……ください」
「白蓮……?」
「体力もなくて、ロクに剣も振るえなくて。訓練では他の人の足を引っ張ってばかりで、今まで何一つ満足に出来たことなんてないですけど……」
 言っている間に鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなってくる。
 感情を零すな、白蓮。泣き落としのようなみっともない真似だけはやめろ。
「引き際は弁えてますから……どうか、私という存在がいなかった、ことだけには……しないで、ください」
 どんな感情でもいいから、貴方の気持ちを私に下さい。
 本当に貴方の足枷になってしまうその日まで、遠くから見つめることを許して下さい。
「……」
 沈黙が痛い。押さえつけていた自分の髪は、私の希望を踏みにじるかのように指をすり抜け視界に躍り出る。
「貴女に向上心というものはないのですか」
「……向上心、ですか?」
「白蓮、貴女は……私の隣に立ちたいとは、思わないのですか?」
「……え?」
 掛けられた言葉を理解する前に、「戯れ言です」と終わりにする言葉が紡がれる。
 前触れ無く立ち上がった陸遜は演舞でもするかのように優雅に一歩を踏み出し、屋根から傍にあった木へと身を躍らせる。
「陸遜様!」
 一瞬の心配をよそに何事もなく地面に降り立った陸遜。
「あ、あの、これ……」
 借り物の外套を手にし屋根から身を乗り出せば、こちらを見上げる陸遜と視線が絡む。
「夜は冷えると、言ったでしょう」
 それはつまり、自分が去るまで降りてくるなという事。
「はい」
 私の言葉に満足したのか、僅かに口角を上げて陸遜は背を向けた。
「書庫の整理は見事なものでした」
 去り際紡がれた音の続きに、空耳かもしれないが風に乗って「ありがとう」と聞こえた気がしたから。
「はい!」
 今まで見せたことのないような満面の笑みで、言葉を返した。
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