下っ端の朝は早い。
「おはようございます」
 眠気をかみ殺しすれ違う人に挨拶するが、帰ってくるのは冷たい視線と批難の言葉ばかり。
「いつまで陸遜様のお傍にいるつもりかしら?」
「意地汚いって嫌よね、ああはなりたくないわ」
 聞こえるように吐かれる言葉にはもう慣れた。
「おはようございます」
 それでも私には前に進むしか出来ないから……。満面の笑みで再度挨拶すれば、これ以上関わってもつまらないと思ったのか、女官達は睨むような視線を残して去っていった。
「使えない、か……」
 いくら基礎訓練を積んでも一向に付く様子のない筋肉。
 いくら日の元で訓練していても、一向に焼けることのない肌。
「たしかに、異質……かもね」
 向けられる視線も置かれた現状も、この髪や肌のように何もかも白く冷たい。身につけた軽鎧は重く、着ているだけで体力を奪われていく。
「面と向かって辞めろって言われないだけ、まだ……ましだよね」
 例えどんな思いをしようとも、自分にはやらなくてはならないことがある。それを思えば、呉という国に置かせてもらっているだけでも感謝しなくては。
「今日も一日頑張りましょう−、ってね」
 両手で握り拳を作り、本日一発目のお小言を頂く為に陸遜の元へと歩を早めた。

「白蓮、本日貴女は鍛錬に参加しなくていいです」
「はい?」
 普段は無理難題を投げつけてくる陸遜が、鍛錬に参加しなくていいと言う。これはまさか解雇通知だろうか? 知らず流れた冷や汗に背筋を正し、次に言われる言葉を待つ。
「本日は二班に分かれて実践を見立てた訓練を行います。白蓮、そこに貴女がいるべき場所はありません」
「はい……ごもっとも、です」
「貴女には今日一日書庫の整理を命じます。本日の訓練が終わる時刻までに全ての書簡を整理しておくこと。いいですね」
「おい、書庫って……あの書庫かよ」
「うわ……最悪じゃん」
 噂には聞いたことがある。以前陸遜の管理する書庫の一つで失敗してしまった女官がいて、それ以降整理する人材もおらず荒れ放題なのだと。
 放置しているということは、すぐに必要な書簡の類がないということで……要するに体のイイ人払いなのだろう。
「聞いているのですか白蓮」
「あ、はい、聞いてます! 書庫の整理を今日中に、ですよね」
「分かっているのならよろしい。さっさと取りかかりなさい!」
「分かりました! ……あ、陸遜様」
 私が陸遜の名を口にすると、思いっきり眉根を顰めてくれる陸遜。これはとことん嫌われているなぁ……ちょっと寂しいけれど、使えない人材であるのは自分でも把握しているので我慢の一手である。
「なんですか」
「その、書庫の整理でしたら……これ、脱いでもいいんですよね?」
 体力を奪い続ける軽鎧を指さし問えば、遠目でも分かるほど陸遜から怒気が溢れ、「自分で考えなさい!」と本日一発目の怒声を頂いてしまった。

 一度自室へ戻り鎧を脱いで問題の書庫へと向かう。途中すれ違った女官さんからは訝しげな視線を頂いたが、そんなのも気にならないくらい私の心は弾んでいた。
 なんといっても炎天下での訓練に参加しなくていいのだ。これほど素晴らしいモノはない! 歓喜に震える胸に手を当て、借りた鍵で書庫の扉を開ける。
「こりゃまた、見事だこと……」
 足場もないほど地面に散らばった書簡の数々。今にも倒れそうな棚はちょっと触ったら中身が全て落ちてしまいそうだ。
「えーっとどっからやろうかな」
 薄暗い部屋に灯りを灯せば、朝だというのに夜の気分。
 思い返せばあの頃は良く夜中まで執務をしていたものだ。顔色の悪い上司を脳裏に描いて、私は人知れず笑みを零した。
「まずはこの棚をどうにかしないとねー」
 棚の下敷きになっていた竹簡を壊さぬよう救出して、傾いた棚を真っ直ぐの状態に戻す。
「うわ、これバラバラじゃない……」
 適当にとった数本の竹簡を確認すれば、種類も内容もバラバラのものばかり。整理しろと言われた手前このまま放置という訳にもいかないだろう。
「題名がついてるのはいいとして……問題はこの辺かー。これって陸遜様の字かしら?」
 几帳面に綴られた文字に目を通しながら、無造作に投げ捨てられている書簡を纏めていく。空気の換気もなく、埃っぽくじめじめしているけれど、この空間は心地がよい。本当ならば文官となってこういう仕事を毎日している予定だったのに。叶わなかった選択肢に肩を落とし、棚の整理を続ける。
「でも、あの部屋から思えば、可愛いものかな」
 昔押し込められた書庫はそれはもう酷いものだった。しかもあの上司は整理しておけ、だけではなく、内容を全て把握しておけ。というおまけ付き。それがないだけでも楽なものだと心を入れ替え、鼻歌交じりに仕事を続けた。



「さーってこんなもんかな」
 一通りすっきりした書庫を眺め、御満悦モード。
 バラバラだった竹簡は種類や年代を考慮し綺麗に纏め上げた。目当ての物がすぐ見つけられるように品書きと配置図も用意したし、一分の隙もない。
 自らの仕事に満足し、上司である陸遜に報告しようと扉に手を掛けたところで異変に気付いた。
「……開かない」
 書庫に入る為の鍵は自分の手の内にあるのに、扉が開かないとはどういうことか。外側から封でもされたか、若しくは……。
「面倒だなぁ」
 謎は残っていても分かっている事はある。これは単なる嫌がらせということ。
 十中八九、使えない人材なのに陸遜の軍に従事している私が気に食わないのだろう。可愛い悪戯と形容してやるには粘着質な負の空気が纏わり付いている。
「うん、やっぱり面倒だ」
 この件に関わるとどう転んでもイイ方向に進みそうにはない。あっさりと意識を切り替えて私は持っていた鍵を卓上に残し、高みにある小さな窓へと視線を移した。



「 白蓮は何をしているのですか 」
「は、はぁ……その……」
 虫も静まりかえるような静寂の中で、陸遜の不機嫌な声が部屋の中に木霊する。いくら使えないといっても、白蓮という存在が部下である事実に変わりはない。ただでさえ使えない部下が上司に報告を怠るとは、職務怠慢にもほどがある。
 抱えた怒りを隠そうともせず、執務室を後にしようとした陸遜の前に立ちはだかる部下。思わず、といった行動に更に陸遜の表情が険しくなる。
「何をしているのです」
「あ、いえ、その……」
 歯切れ悪く口ごもる男に、陸遜は被っていた帽子を机上に放り投げた。
「陸遜様!」
「私は白蓮が何をしているのかと聞いているのです」
「白蓮は、陸遜様がお申し付けになった通り、朝から書庫の整理を……」
「こんな時間までですか?」
 宮中の誰もが寝静まっているような時間帯まで、仕事をしているというのか?
「は、はぁ」
「私は嘘は嫌いですよ」
「う、嘘など!! ……本当に、白蓮は書庫にいるのです……陸遜様」
 男が何かを隠しているのは分かっていた。それが陸遜に知られたくない事だというのも。
「お前も、アレも私の部下です。他の方に迷惑が掛かったら、全て私の責任になるのですよ」
「……陸遜、さま……」
 負けたと項を垂れた男の横をすり抜け、乱暴に扉を開ける。静寂を破るよう踵の音を響かせ目的地へと歩を進めれば、視界に入った光景に思わず立ち止まった。
「なんですか、これは」
 扉を塞ぐように幾重にも重ねられた鎖と棒。誰がとか何の為に、とか。もうどうでもいい。ただ視界に映る光景に腹の奥から静かな怒りが沸いてくるのを陸遜は感じていた。
 手にした飛燕で器用に障害物を切り裂き、軋みを上げる扉を押し開ける。
「……白蓮?」
 女が居るはずの空間は静寂を保っていて、居るはずの存在が消えていた事に奇妙な感情を覚えた。持ち込んだと思われる灯りは疾うに消え、月明かりに照らされ静かに眠っている。
「これは」
 灯りの隣に置かれていた鍵を手にし、やはり白蓮が室内にいるのだと確信をもった。
「白蓮、いるならば出てきなさい」
 闇に問いかけても答えはなく、代わりに綺麗な文字と図が視線を奪う。疑う訳ではないが、確かめねばならない。正義感にも似た感情に突き動かされ、手近にあった竹簡を開く。記されている内容は図に書き込まれている内容と同じもので、他の物も同様の状態におかれているのだと納得した。
「……居ないハズはない」
 となると、残りはこの書庫を整理していた存在が何処へ行ったか、だ。
 月明かりの差し込む室内に白蓮の姿はない。外には幼稚な仕掛けが施されていたし、扉を開くのに必要な鍵はこの場にある。となると……。
「まさか」
 室内を一瞥して、ようやく気付く。
 普段から鬱々としている書庫に、こんなに月の明かりが差し込むはずはない。気付いた事を確かめるよう視線を上に上げれば、綺麗に外されている格子が視界に入った。
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