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「んっ……」
 頭の後ろに柔らかい感触。耳に飛び込んでくるざわめき。起きたようですね、と鈴を奏でるような綺麗な声を捕らえた。きっとこの声の持ち主は綺麗な人なんだろう、と重い瞼を上げる。だって美人さんとはお友達になりたいじゃない?
 ここは好印象を残す為に笑顔で挨拶を……と思っていた私の目論みは無惨にも敗れ去った。
「……気持ち悪い……」
 は、吐きそうだ。
 だが美人さんの前で吐く等という行為は、私のプライドが許さない。無理矢理吐き気を堪え目を開ければ、見慣れない天井と見たことのある人が一人。
「…………あれ……シオン君……。そんな派手な上着……着て、……どうしたの……」
 さっきまで簡素な服を着ていたのにいつの間に着替えたのだろうか?
 私の呟きに辺りの空気が振動する。
「思い出したぞ! あの時の小娘か!」
「シオン……知り合いですか?」
 年下の癖に今度は小娘呼ばわり。……育てた親の顔が見てみたい。一言文句を言ってやろうと思って、口を開くが強烈な吐き気の前に再度閉ざさるをえない。
 乗り物酔いした時ってこんな感じなのかしら……。というか、あれだ……。この気分の悪さは絶対に……。
「消化不良だわ……」
「何……?」
 額に片手を当てて、大きく深呼吸すると多少は楽になった。落ち着いたところで改めて周囲に視線を向ければ、私が聞いた綺麗な声を持つと思われる少女と、シオン君。そして始めに出会った薄紫色の髪を持つ青年が居た。
 うーんこれだけ綺麗な人が揃っていると眼福ね。
「貴女のお名前は沙希さん……で間違いありませんか?」
 少女の問いに頷く。
「そして貴女は自分の職業をルポライターだと言った。これも合っていますか?」
「ええ、間違ってません。私は……」
「女神!」
 先に続くはずの言葉は突然開かれた扉の音と、シオン君と良く似た服を着た青年によって掻き消された。
「不審者がいると報告を受けましたが!」
「落ち着け、サガ。女神の前で取り乱すでない」
「はっ……失礼致しました」
 サガと呼ばれた青年が恭しく頭を垂れる。時代錯誤も甚だしい感じだが、妙にハマッテ見えるのは服装のせいだろうか?
「沙希さん、正直に答えて下さい」
「なんでしょう?」
 アテナと呼ばれた少女が真剣な眼差しで見つめてくる。怖い感じの表情も綺麗な子、と思ってしまう私には緊張感というものが足りないのかもしれない。
「貴女はグラード財団という企業を知っていますか?」
 そのような企業は聞いた事もない、と頭を左右に振る。
「……おかしいですね」
 日本では知らない人がいない程の大企業なのだと、少女は続ける。そして自分はその企業を統括する者なのだと。
「私の知る日本と、こちらに存在する日本と呼ばれる国は……多少なりと違うみたいですね」
「そのようですね」
 確信が持てる。
 私が今まで過ごしてきた世界と、今居る世界は良く似て非なる物なのだと。
「何度も聞かれた問いだと思いますが、私からも聞いていいかしら?」
 貴女は何者ですか? と少女が問う。
「私は……水上沙希。安月給のルポライターで……」
 力ある名を、持つ者。
 囁くように呟いた音は、静まりかえった空間に溶けた。

 言霊という単語がある。古代の日本において、発した言葉どおりの結果を現す不思議な力があると信じられていた、それ。
「……どういう……意味かしら?」
 少女の声色が警戒する色を含む。私は彼女の目を見据えて、一語一句慎重に単語を紡ぐ。
「名、とは個人を確立させる為の一つの記号に過ぎません。ですが、名によって人という存在が縛られているのもまた事実」
 私が水上沙希という存在である事を願ったら……今までと変わらない日常が得られたのかもしれない。
「もしも、貴女がアテナという名を持たなかったら、用意されているのは年相応の幸せと、人生。だけど貴女はアテナと言う名を持つ。つまりアテナという力ある名に秘められた宿命を享受しなくてはならない」
 私の言い分は間違ってますか? と問えば、少女は悲しそうに頭を横に振った。
「私は今まで水上沙希という人間の人生を歩んで来ました。大学を出、就職し、仕事の一環でギリシャに来ました」
 もしギリシャに来なければ、この世界に来る事も無かったのだろうか? 何も知らずに一生を終えたのだろうか?
 でも、私はそれを望まなかった。
「幸運にも私には選択肢がありました。何も知らずに過ごしてきた今までの人生を続行するか……」
 名を、思い出すか。
「私という人間の持つ魂の奥底に眠ったままになっていた、一つの名。その名が持つ運命は決して安易なものではありませんでした。むしろ、その名のせいで私はこちらの世界に帰ってきたと言っても過言ではない……」
 喋る事を止めれば辺りを支配するのは沈黙だけ。未だに整理のついていない頭で間違えないように言葉を選ぶ。ワタシという存在を説明するには、今の私には難しい。だが、言わねばならない。私が持つ名と名に秘められた役割を。
「私の……いえ、私はクロノスの名を持つ者」
 彼女の目に驚愕の色が浮かぶ。私だってまだ信じられないのだから、彼女達が驚くのも無理はない。
「クロノス……だと……?」
「そうです。私はKronosであり、またCronusでもあり、そのどちらでもありません」
 脳内に収められた膨大な記憶と知識を遡る。
「遙か昔……混沌の時代、アイオーンの補佐をする為に私は生み出されました。綴られていく物語を記録するという使命を持った彼の方を補佐する為には同じ属性を要せねばなりません。そこで私にクロノスという名が与えられました。類い希な気質と力を持つ音であるKronos。時と言う意味を持つ音Cronus。二つの音の恩恵を受けるクロノス……それが私という存在なのです」
 いついかなる時も絶対中立の立場であり続け、来るべき日まで己の内に全てを記録する。あらゆる角度から世界を記録する為に、私の立場は変わり続けなくてはならない。気が遠くなるような時間の中で終わりの日がくる、その時まで……。
「沙希さん……」
「……と、まぁ説明が難しい話はこれくらいにして。結局こっち側に居る事を選んだんだけど……あれよね……やっぱり失業?」
 世界が違うという事は所属していた会社も無いって事で。
 会社が無いって事は給料が無いって事で。
 まさか……まさか、自分が失業者になるなんて思ってもみなかった…………まぁ落ち込んでいても始まらないし。私の長所は前向きな所……そうでしょう?
「えーっと………………名前が分からないわ……」
 少女に向けて問えば城戸沙織です、と答えがあった。
 うん、名前まで綺麗な子だ。
「城戸さんはグラード財団って会社の総帥……つまり社長なのよね?」
「ええ、そうです」
「んじゃものは相談なんですが、私を雇いませんか?」
 私の提案に彼女は酷く驚いたようだった。当たり前と言えば当たり前だが……私はクロノスである前に一人の沙希という日本人なのだ。収入が無ければ服だって買えないし、御飯だって食べれない。
「私現役ルポライターですよ? 情報とか纏めるのにすっごく役に立つと思うんですけど」
 ここだって聖域であると同時に一つの組織であるに違いない。自分で言うのもなんだが、人より仕事は出来ると思う。……給料安かったけど……。
「面白い方ですね、沙希さんて……」
 鈴を転がすような声で少女が笑う。
「前向きさが私の売りですから」
 で、どうですか? と再度尋ねれば、分かりました。と良い意味にとれる返事があった。……これは好感触かも。
「こちらとしても貴女の存在を無視する事は得策ではありません。何かあった時に側に居て頂いた方が色々対処も出来るというもの……」
 言葉を紡ぎながら何かを思案する彼女の顔は、まさに経営者そのもの。
「各国から寄せられる報告書の翻訳とデーターベースの作成……」
 出来ますか? との問いに肯定の意を返せば、彼女がふわりと微笑んだ。
「あー……それと、出来ればもう一つお願いがあるんですけど」
「何かしら?」
 絶対に今言っておかないと機会が無くなる。強迫観念にも似た思考に基づき、私は口を開く。
「良ければ、社長と社員じゃなくて、貴女と友達になりたいんだけど……駄目かしら?」
 あんな可愛い子、お近づきになりたいに決まってるじゃない!
 私が言えば、まぁ……。と口に手を当てる彼女。その後ろで唖然とした表情の成人男性三人。
「ふふ、構いませんよ」
 自分の望みが叶った事に心の中でガッツポーズを決めながら、右手を差し出す。彼女が私の片手を取ったのを確認して、今出来うる中で一番良い笑顔を浮かべた。
「新米ですが宜しくね。沙織ちゃん」
「改めて、聖域へようこそ、沙希さん」

 微笑みを湛える沙織ちゃんからは、日だまりの匂いがした。
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