3

「ではその沙希さんと名乗る方が、急に消えた……と、そう言うのですね?」
「はい」
 事の顛末を簡単に聞き、思考を馳せてみるがいまいち有力な回答は出てこない。報告によれば特別な小宇宙も持たない普通の女性との事だったが……。普通の女性に突如姿を消す芸当が出来る訳もなく。
「シオン、貴方はどう考えますか?」
 後ろに控えている青年に問えば、珍しく難しい顔をしている。
「シオン?」
 促すように声を掛けると、今気付いたと言わんばかりに姿勢を正した。
「どうしました?」
「いえ……。どうも引っかかるのです」
 頭の隅に何かが引っかかっているのだと彼は言う。知り合いですか? と問えば、知り合いにはおりません。と答えが返ってくる。
「以前何処かで聞いた事があるような……気が、するのです」
 妙に歯切れが悪い。
「長い年月の中で耳に入った事がある名だと言うのですか?」
 私の知る限りでは聖域に所属する日本人女性の数は少ない。その中に沙希という名の女性は居なかったはず。ならば……彼は件の名を一体何処で耳にしたと言うのか。
「貴方も会ったのは初めてだったのですよね? ムウ」
「はい」
 一般人の、何の力も持たない女性が女神の結界内に紛れ込んでしまったと……。確かに外来から紛れ込んで来る人もいる。だが、突然消えるような人はいない。
「考えていても仕方ありません。ムウ、その女性に会った場所まで案内して下さい」
 もしかしたら結界に綻びがあるのかもしれない。だとすると早急に手を打たなくてはならなくなる。
「畏まりました」
「では参りましょうか」
 席を立ち、今まさに移動しようとしたその刹那。
「ムウ様、ムウ様大変です!」
 慌てふためいた声と共に教皇の間の扉が開かれた。
「貴鬼控えなさい。女神の御前ですよ」
「あ、ああっす、すみません」
「構いませんよ続けて下さい」
「あ、あのっ!さっきのお姉ちゃんが!」
 白羊宮の下に倒れている、と。
 後ろの青年に視線を移動させれば、軽く頷く。黄金聖闘士が控えるこの場所ならば、大抵の事は対処出来るであろう。例えその女性が一般人でなくても。
「ムウ、彼女をこちらに連れてきて下さい」
 一礼して踵を返す後ろ姿を見つめながら、今一度思考を馳せてみる。
 考えられる要素としては、彼女はなんらかの守護を持つ者で、未だ自分の中に眠っている可能性に気付いていないという事。
 味方になりうる人物ならば問題は無い。だが……。
 もし敵となりうる存在だったら?
 ようやく平和が戻ってきたこの時に。
 暗い思考に思わずため息が出る。
 相変わらず後ろの青年は何かを考え込んでいるようだし、現教皇は視察に行って未だ戻らず。今残っているのは一癖も二癖もありそうな人達ばかり。内密に処理するには人手不足だ。取り敢えず今出来うる手段を講じておくしかない。
 どうしても出てしまうため息を無理矢理飲み込みながら、女性が到着するのを待った。



 鏡がある。
 私が手を振れば、鏡の中の女性も手を振る。
 ここは何処だろうと辺りを見回せば、鏡の中の女性も同じ動作をとる。全ては当たり前の事だ。そこに映っているのは私なのだから。だけれど……鏡の中に映る女性は二人。私の後ろにもう一人私が映っている。合わせ鏡でもないのに?
 実際に後ろを振り返ってみるとそこには誰も居ない。ただ、暗闇が広がっているだけ。
 これは夢?
 鏡に手をあててみれば冷たい感触がする。
 シオン君に連れられて入った神殿らしき場所で、妙な寒気がして……そのまま気分が悪くなって倒れたのだろうか?
「ここは何処?」
 呟きは暗闇に吸い込まれる。ああ……こういう意味不明な夢を悪夢って言うのかしら。夢なら早く覚めて欲しいと思う。
「ここは深い場所」
「……!?」
 二人目の私が言葉を紡ぐ。
 奇妙な……夢だ。
「あなたは、私?」
 鏡越しに問えば、悲しそうな表情を作りながらワタシは私。と声が返ってくる。
「なんで私はこんな場所にいるの?」
「帰りたいと願ったから」
 そう、私は願った。この異質な空間から普段の生活に早く戻りたいと。
 撮った写真の編集だってあるし、報告書をメールで本社に送らなきゃいけないし。折角来たギリシャを未だ堪能しきってないし……。
「帰りたい」
 今一度願いを言葉に乗せてみる。
「帰れない」
「……何故?」
 私は帰りたいと願ってる、そして意識が途切れる前に聞こえた声も帰らなくては、と言っていた気がする。あれは……貴女の声だったんでしょう?
 声に出さずに問えば、軽く眉根がよる。
「アナタはまだワタシではないから」
 ……意味が、分からない。
 まずは整理してみよう……。鏡の中に私が2人居る。鏡の中の私は、私自身であると言う。だが、私自身は鏡の中の私ではないと言う。外見は一緒。声も一緒。私が彼女になりえないのは、私自身に欠けているものがあるから? 彼女にあって、私に無い物。それを得れば、私は彼女に成るというのだろうか?
「貴女は知っているのね? ここが何処で、何故私がここに居るかを」
 導き出した答えに鏡の向こうの私が微笑む。
 不意に鏡の向こう側で、私が鏡に片手を付けた。
「犠牲無しに何かを得る事は叶わない」
 選ぶ権利がある、と彼女は言う。
「貴女の手を取って失う物はきっと少なくない」
 彼女の手を取れば真実が手に入るのかもしれない。正当な理由と、正しい答えが与えられるのかもしれない。
「選ばなくてはならない」
 これから歩むべき人生を。
 私が感じ、歩んできた今までの全ては嘘ではない。そして、彼女が持つ全ても偽りではない。正解が二つ用意されている場合に、とる行動は?
「……もう、分かってるんでしょ?」
 だって貴女は私なのだから。

 夢を……みたいと思っていた。
 ゲームや小説に出てくるヒロインに憧れていた。
 そして、今。

「後悔するのは……嫌いなの」

 微笑を湛える彼女に合わせるように、私は口角を少し上げた。
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