4

「ぎぃやあああああああぁぁぁ!!!」
 暗闇に木霊する絶叫。黒き谷間とは上手いことを言ったものだと感心する反面、実に奇妙な状態で私の体は空中にあった。
「沙希!!」
 ここに来て確信したことがある。冥界とはアトラクションが多数散りばめられている、ユーモア溢れる場所だったのだ!
「おい、沙希! 現実逃避すんな! 戻ってこい!」
 口から魂が抜け出そうな気分になれる冥界って本当に凄い。ホラー映画も絶叫マシンも、自然の猛威の中では赤子のようなもの。下方から荒れ狂うように吹き出る強風に足下を掬われ、地面から両足が離れた時の恐怖は表現しきれない。改めて人という種族は地に足を付けて生きて行くものなのだと実感出来た瞬間だった。
「此度の使者どのは注意力が足りないようですね」
 目に見えない何かに助けられ、空中遊泳中の私。すごく、ものすごく楽しくない。今すぐ地面に降り立ちたいと心の底から願っているが、どうやら私の命綱を握っている人はすぐに下ろしてはくれないらしい。
「ミーノス様、いっそ……」
 ルネさんの小声がヤケに大きく聞こえるのは風向きのせいなんだろうか。「いっそ離してしまえば」なんて単語は絶対に聞き取れなかったんだから、うん。
「ルネの言い分も一理ありますが……まだ先は長いですし、このくらいにしておいてあげましょうか」
 ミーノスさんの口元が緩んだと思ったら急に体が引っ張られる感じがあって、次に目を開けた時にはごつごつとした触り心地の悪い地面に両膝を付いていた。
「沙希さん完全放心状態だよ……大丈夫なのか?」
「これしきでへこたれるような人種ではないだろう」
「けどよ」
 好き放題言うカノンさん達を一瞥し、次に冥闘士の人達に視線を移す。
「おやどうしました? 使者殿。お顔の色がすぐれませんが」
 優雅な笑みを向けてくる男に反撃してやりたいという気持ちすら沸いてこない。やはり冥界へ続く門をくぐった時に大事なモノを捨ててきてしまったのだろうか? そんな錯覚が胸の中を支配する。
「――腰、抜けました」
「……」
「……」
 様々な感情や想いがぐるぐる回って、結局出てくるのは情けない一言で。
 笑いたきゃ笑いなさいよ! 叫びたい気持ちの代わりに零れるのは、締まりのない笑顔。
 ああ、やっぱりこの世界は苦手だ。微妙な空気を纏う周りをよそに、肺にたまった空気を吐き出した。



「いやーすみませんでした。お時間とらせまして」
 体調が元に戻るのを待ってもらい、第二獄へ続く道を歩く。私の前を歩く冥闘士の人達がどこか疲れたような雰囲気を漂わせてるのは、きっと苛めてもつまらないと判断した結果なのだろうなぁとぼんやり考える。
「沙希さん顔色が優れませんけど……本当に大丈夫ですか?」
「優しいねぇ……瞬君は」
 金ぴか鎧着てる人とは正反対だなぁとカノンさんを横目でみれば、相手も考えてる事は同じだったのかバッチリ視線が合ってしまった。
「何か言いたそうだな? 沙希」
「いいえ、なにも?」
 ニヒルな笑みを格好いいと思ってしまう時点で敗北は決定しているのだけれど……やっぱり色々腑に落ちない。
 冥界の主である存在が、配下である冥闘士達にどんな命令を下しているのかなんて分からないけど、今のままでは彼等の思い通りになってしまいそうで歯痒い。
「なんでホラー苦手なんだろ」
「ん?」
 私がワタシとしていられれば、こんな亡者怖いとも思わないハズなのに。
「もし私がホラー好きだったら、冥界観光なんて願ったり叶ったりだったのになぁ、ってちょっと悔やんでみた」
「これはまた面白いことを言う」
 がっくりと肩を落とす私を見下ろしながら、ミーノスさんが口元を歪めて笑う。
「……あ」
「なんですか」
「いえ、なにも」
 おかしな人ですね、と人を小馬鹿にしたような笑みを貼り付けたまま、ミーノスさんは顔を前に戻した。
「どうしたんだよ沙希さん」
「うん、ちょっと」
 一瞬、見たことがあるような気がしたのだ。
 穏やかに綴られる音も、人を食ったような笑みも、知っているような――そんな、気がして。
「沙希?」
「……カノンさん」
 ミーノスさんの笑みは、どこかカノンさんやサガさんに似ているような気がする。だからきっと錯覚したのだ。
「手、繋いでていい?」
「人の指掴んで離さないくせに、今更か?」
「うん、持ち主の許可を得てない事に気付いてさ」
「フッ、指の一本や二本くれてやるさ」
「……その言い方はなんかヤだな」
 触れた部分から伝わる熱だけが闇を祓ってくれそうな気がする。流石太陽の光をふんだんに浴びている黄金聖衣。
「さて、そろそろですよ」
 ミーノスさんの声に促され俯きがちだった視線をあげる。
「つーか第二獄ってたしか……」
「沙希さん」
「え?」
 何かを言いかけた瞬君の方へと振り向いた瞬間、頭部を襲った衝撃。
「いったあああああああい!! 今度は何なの……よ」
 慌てふためく星矢君と瞬君。しまった、と言わんばかりの表情のカノンさん。そして、私達をどこか楽しげに見下ろすミーノスさんとルネさん。
「――……」
 自分の頭を襲ったと思われる物質が、少し離れた場所に落ちている。
「おい、ミーノス!」
 隣で怒鳴るカノンさんの声がどこか遠い。
「わざとではございませんよ? ただ、ケルベロスは少々マナーが悪いものでしてね」
 ミーノスさんの落ち着いた声が、右から左へと通過していく。
「沙希……?」
 瞬きをしなくては目が乾いてしまうと分かっているのに、逸らすことが出来ない。だって、私に当たって地面に落ちたものは……人であったものの、一部――。
 全身の血が凍りつくとは、こういうことを言うのだろうか。ありとあらゆる感覚が全て閉ざされていくような。叫び声すら咽の奥で引っかかって出てこない。人間悲しすぎると涙も出ないというが、恐怖が最高潮に達すると叫び声すら出ないのか。
「沙希さん!」
 先程まで感じていた指先の暖かさは疾うに無く、代わりに乾いた眼球が燃えるような熱さを訴えた。
「……だ」
「沙希?」
「……もぉ、やだぁ……」
 叫び声の代わりに落ちるのは情けない単語。
「――ッ!」
 痛みを訴える眼球から雫が零れようとした刹那、突然体を襲った重力に落ちそうだった涙が引っ込んだ。
「え?」
「ミーノス! テメェ何してやがる!!」
 カノンさんの声が遠い。けれど、さっきとは違って本当に……遠い?
「な、なに……?」
 見つめていた地面は遠く、視界の端には美しく広がる花畑が見える。一体何が起こっているのか、必死で把握しようと動かした手に、絹糸のような繊維が触れた。
「……ミーノス、さん?」
 闇色の衣に美しく映える銀糸。目深に被った兜の下にある美しい瞳と視線が交わる。
「パンドラ様は、貴女に冥界を案内してさしあげるようにとおっしゃった」
「?」
 意味が分からぬと首を傾げる私に微笑を浮かべ、「だが」とミーノスさんは続ける。
「歩いて、とは一言もおっしゃってない」
 言われて、ようやく自分のおかれている状況が理解出来た。
「……飛んでる」
「上空からならばよく見えるでしょう」
「……なんで?」
「……さぁ」
 的を得ないミーノスさんの回答は私の欲しい言葉じゃないけれど、それでもやっぱり。
「ただ、貴女を泣かせてはならぬと……そう、思っただけです」
 ゆるやかに紡がれる音が鼓膜を揺らす。
「ミーノスさん」
 知ってる気がする。遠い昔じゃなく、もっと近い過去で。私は今と同じ状況を体感したような気がするのだ。
「前にも――」
 会うのは初めてなのに、どうしてこんなに懐かしいと感じるんだろう。
「気の迷いです」
 私の言葉が終わる前に切って捨てたミーノスさん。
 ゆっくりと流れていく下界の風景を見つめながら冷え切った冥衣に触れれば、私を支える腕がぴくりと揺れる。まるで壊れ物を扱うかのように回された腕の冷たさ。
「良く、見えます」
「それは結構」
 眼下に広がる景色とは裏腹に間近で聞こえる優しい音に目を細め、ゆっくりと閉じた。
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