‖血を吸う鬼 もぞもぞと、名前の布団が蠢いた。時刻は朝七時、司も名前も交互に仮眠をとっていた為、今は名前だけが起きていた。 あの夜から数時間。朔間がようやく目覚めたらしい。 「朔間さん、体調は……」 「じょ、嬢ちゃん……死にそうじゃ……」 「えええっ!?」 一晩寝てすっかり良くなった、訳ではなさそうだ。慌てて朔間の顔を覗き見ると、彼は眩しそうに瞳を細めている。熱があるのかと思って掌を彼のおでこに当てたが、熱はない。持病か何かだろうか。 「頼む、カーテンを閉めてくれぬかのう……」 「カーテンを? え、でも今は朝……」 「我輩、日の光にすこぶる弱いのじゃ。吸血鬼じゃし」 「きゅうけつき……?」 何かの病名だろうか。とにかく、苦しそうな顔をする朔間に縋りつかれては無視もできない。慌てて名前は、家じゅうのカーテンを閉めて回った。窓の外から見る煉瓦街は、今日も活気に満ちている。 全て閉め終わって、再び朔間のもとに戻る。すると、仮眠をとっていた司も起きたようだった。 ……なぜか、朔間に札を突きつけているが! 「司くんっ!?」 「! お姉さま、お下がりくださいっ」 司は、扉の方からやってきた名前の腕を引っ張ると、背中に庇った。まるでそれは、昨日の悪鬼を祓ったときのような目で。 「ちょ、ちょっと待っ、なんでいきなりお札を朔間さんに!?」 「それは――」 「くっくっく。名字の嬢ちゃんや、おぬしは『吸血鬼』を知らなんだか。無理もないのう」 「え」 ふ、と微笑んだ彼は、紅い目を細めた。 まるで、妖艶な魅力で、人間を誘い込む妖のように……? 名前がぼんやりと彼を見ていると、司が大声で「見てはなりませんっ!」と叫んだ。その声の大きさに、名前の目は朔間から離れて司に向かう。司は安堵したように息を吐き、それから再び朔間に札を投げつける。 「紙きれじゃのう。それは、大陸の理から外れた我輩には効かぬよ。薫くんでも連れてくるがよかろ」 「っ、やはり……昨晩、この家に忌鬼の札でも貼り付けておけばよかった」 司が悔しそうに何事か呟いたが、名前には理解ができない。司の発言も、朔間の正体も。 「それより、我輩は名字のお嬢さんに用があるのじゃが。なに、手荒な真似はせぬ。ちと、その血に用があるのじゃ」 「ち、血に!?」 驚いて名前が叫んだ。血に用がある、とはこれ如何に。いよいよ魔物じみた主張をし始める朔間に怯える名前が、司の狩衣の裾を握りしめる。 「名前お姉さま」 「な、なに……?」 「血を吸う鬼と書いて、吸血鬼です」 「え?」 「海の向こうのそのまた向こう、いわゆる欧米諸国のあやかし……それが、今私たちの目の前にいる男の正体です」 厳しくも凛とした声で、その正体は明かされた。 一方、あやかしと言われた朔間は、憤慨も戸惑いもみせず、人懐っこいとも取れる様な穏やかな笑みを浮かべている。これが、本当に鬼なのだろうか。名前には分からない。 「ちなみに一つ教えておいてやろうのう、『誰かの』愛し子よ。陰陽道は大陸の術じゃ。その術は大陸に居るあやしのモノへの打開策。であるからして、遠い地からの流浪『鬼』に、それは効かぬ。その坊やに守ってもらえるとは、思わぬほうが良いぞい?」 「わ、私を狙ってるの?」 「うむ。狙っておるよ、それはもう。すこぶるの高級品じゃよ、おぬしは。高級食材じゃ。ふむ、嬢ちゃん向けに言うと『あいすくりん』かえ?」 くつくつと楽しそうに笑っているが、笑い事じゃない。食べられる……! と名前がびくびくしているが、司は微妙な顔でそれを否定した。 「いえ……鬼のように人を食らう訳ではないのです。ただ、吸血鬼は……不埒なあやかしと言いますか。乙女の生き血を啜りたがる、らしいです」 「ええっ!? じゃあ、別に私じゃなくても……! いや、もちろん他の誰かが犠牲になっていいわけじゃないけど!」 「おぬし、変なお人よしじゃのう? よいよい、ますます気に入ったぞい」 「いや、気に入らないでほしいですっ!」 「無理じゃよ。名前ちゃんは可愛いゆえに……いや、それ以上に『半神半人』の生き血じゃ、なりふり構わず奪いに行ってもよいのじゃが……?」 「は?」 その声を上げたのは、司だった。 「いま、なんと」 「半神半人」 「あり得ません。どう見ても彼女は人間でしょう」 「しかし、神様のにおいがせぬかえ? てっきり神の御手つきが、なんの間違いか浮世に釈放された口かと」 「神の、御手つき……」 御手つき。 いわゆる、名家の旦那や若君に手籠めにされた女性のこと……だろうか? 『神様の』と頭についたので、直訳すれば『神様に手籠めにされた女性』になるが……。 「わ、私、そんな覚えないですっ! 絶対! 私、18歳が終わるまでは、どんな男性ともお付き合いしないって決めてるし!」 少々顔が赤くなったが、男二人の前で否定した。婚前交渉など、まだまだ認められぬ世だ。自分の保身のため、そして自分の名誉のためにも断言しなければならない。 「し、失礼しました。女性になんて発言をさせてしまったのでしょう……司は猛省いたします……」 「くっくっく、坊や、顔が真っ赤じゃぞい?」 「誰の妄言のせいだとっ! この悪鬼!」 「我輩は嬉しいがのう。うんうん、処女の血のほうが耐えられる味じゃし……? というかまぁ、日の本の人間の血は、比較的美味しいほうじゃが。食生活や環境が良いのじゃろうな……」 うんうん、と朔間が呑気にうなずいている。 完全に朔間のペースに呑まれた名前と司を見て、優しく、そして卑怯に笑っている。 「しかし、名前や」 「は、はい……?」 「真実が知りたくはないかえ。もしおぬしが本当に神との接触をしてしまったならば、おぬしは神に呑まれるぞ。簡単に言えば、神隠しに遭っても良いのかえ? かのう」 「え……!?」 神隠し。 思っても居なかった言葉が、またもや名前の日常に割り込んでくる。 「我輩の屋敷に来ると良い、若者よ。もちろん、そこの陰陽師も来て構わぬ。我輩はペットを三匹飼っておってのう、そのうちの一匹は腐っても神の端くれ……審判を下すには十分な人材がおる。そやつに真偽のほどを確かめてもらうがよかろ」 「それは……」 いきなりすぎて頭がついていかない。 けれど。 けれど、神隠しなんてされたら。 「……私、妹……みたいな子がいて……私がいなくなったら、その子が生きていけない……から……」 「……ほう。なれば猶更じゃのう」 「ええ……あの、行っても……」 「少しお待ちを。見返りに名前お姉さまの血を要求するのではないでしょうね」 司が警戒したように言った。 じろりと、紅い目が冷たく二人を見据えた……ような気がしたが。それも一瞬のことだった。あとはもう、優しげなひとの笑顔が浮かぶ。 「おぬしら二人には、命を救ってもらったではないか。ならば、見返りなど必要あるまいよ」 その笑顔は、信頼に足る。名前はそう思ったのだ。 [*前] [次#] [戻] |