十二月十一日。
八戒さんの部屋は、一言で言うとショールームのようだった。どこもかしこも綺麗に整頓されていて、まるで生活感が感じられない。
自分の部屋と同じ間取りのはずなのに、全く違う大人らしい雰囲気と知らない人の香りに緊張して、私は出されたお茶を持ったままソファーで硬直していた。目の端ではまだ二言三言しか話したことがない八戒さんが、キッチンでてきぱきと動いていた。
どうしてここにいるのだろう。途中から曖昧な記憶を辿ってみる。
持っていたコンビニ袋を見られて、夕飯が少ないと言われて、それから――。
思わず出た本音を思い出して枕で顔を隠したくなった。この際何でも良い、枕でもクッションでも、鍋でも良いくらいだ。
まさか他人の前であんなことを言うなんて。
「お昼に作っておいて良かったです。後は温めるだけですから、もう少し待っていて下さい」
「は、はいっ」
突然話しかけてきたので声がうわずってしまった。八戒さんはにこりと笑みをこぼすと、まな板に視線を向けた。
八戒さんはきっと、隣に住む年端もいかない小娘が、まともな食事を摂っていないことを気の毒にでも思ったのだろう。だからこうやって食事に誘ったのかもしれない。
普段の私であれは絶対に断っていたはずだった。隣人との交友関係なんてものはあり得ないものだと思うし、そもそも他人と関わりたくなんてなかった。所詮私はいらない人間なのだから。
――なら、私は、どうしてここにいるのだろう。
自問自答を繰り返してみるが、納得のいく答えが出てくることはなかった。
「お待たせしました。すみません、茶色いものばかりで――」
どのくらいの時間、ぼんやりしていただろうか。気付けばお盆を持った八戒さんは私の隣に一人分の隙間を開けて座っていた。
高級そうなアンティークテーブルに不釣り合いな和食の数々が並ぶ。
茶色いものばかりなんて、随分な謙遜だと思った。
肉じゃがを筆頭にかぼちゃの煮付けやほうれん草のごまあえ、きんぴらごぼう、だし巻き玉子なんてものまであった。これに味噌汁とご飯とお漬物まであるのだから、一種のフルコースに近い。
高級割烹店にでも来たような振る舞いに私はただただ唖然としていた。
「すごい……」
「そんなことありませんよ。ありあわせの物ばかりですし」
八戒さんは謙遜ばかりする人だなあとぼんやりしながら目の前のそれらに圧倒されていると、隣からの声にはっとした。
「それじゃあ、いただきましょうか」
「は、はい――いただき、ます」
慌てて箸を取って呟いた。それを見て八戒さんも両手を合わせて「いただきます」と言った。
焦げ一つない綺麗な色をした玉子を小皿に一つ取って、一口の大きさに箸で切って口へと運んだ。
途端に口の中に広がるだしの香りと、卵の甘み。ふんわりとし食感に私は無意識のうちに「美味しい」と溢していた。
「それは良かった。たくさんありますので遠慮せずにどうぞ」
八戒さんは箸を止めてふわりと笑った。この時は背筋もぞくりとすることはなかった。
それからしばらく静かな夕食が続いた。どちらも話すことなくただ黙々と食事をするのみで。
さすがに申し訳ないと思って、先程から気になっていたことを聞いてみることにした。
「あの……」
「はい?」
「八戒さんは、普段、一人でこれだけ召し上がりになられるのですか?」
目の前にある豪勢な食事は、どこから見ても一人で食べきるには無理があると私は思ったのだ。八戒さんは痩せ型で、どこから見ても大食漢にはほど遠い。
「ああ、いえ、そういうわけじゃないんです」
困った顔で笑うと、八戒さんは俯き加減でポツリと言った。
「一緒に住んでる方がいるんですが……その人、いつも帰りが遅くって。今日も帰らないって連絡があったもので」
なるほど、と納得すると同時に、その見ず知らずの人に怒りのようなものを覚えた。
どれだけ欲しても私にはもう待っていてくれる人はいないのに。そのありがたみがわからないことに腹が立つし、はっきり言って妬ましかった。
「……帰りを待っていてくれる人がいるのに、ひどい人ですね」
私がそういうと、八戒さんは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに柔らかな表情に戻った。
「仕方がないんです。彼もきっと僕と顔を会わせづらいんだと思います」
私は眉を寄せた。一緒に住んでいるというのに、どうして顔を会わせたくないのだろうか。彼も、ということは八戒さんも同じ思いだということだ。ならなぜ帰りを待つ必要があるのだろう。
聞きたいことは山ほどあったが、それらを聞くことはできなかった。ただの隣人がそこまで深い話を聞いて良いわけがない。
私が聞いたことを詫びると、八戒さんは変わらない表情で「気にしないでください」とだけ言った。
それきり私も八戒さんも会話をすることはなかった。
夕食を終えて、寛ぐことなく私は帰ると告げた。
勿論食器を洗ってから帰るつもりだったが、八戒さんはそれを優しく頑なに拒んで玄関まで送ってくれた。
「あの、本当に良いんですか?片付けくらいは、」
「良いんですよ、僕が招待したんですから」
もう何度目かの問答。鬱陶しく何度も言っているはずなのに、八戒さんはただ笑顔で断るだけだった。
私は何かお礼をしなければと考え続けていた。今あるものといえば、鞄と私が買った明日の朝食になったコンビニの品々だけ。鞄の中には対したものは一つもないし、そもそも教科書とノートはあげるような物ではない。
ふとあることを思い出して、私はコンビニ袋に手を突っ込んだ。
「すみません、あの、お礼は今度必ずしますので!」
私は見つけ出したそれを手の平に乗せた。今日の夜に食べるつもりだったチョコレートを差し出したのだ。コンビニのレジ横でよく見かける正方形の一口大のものだ。
こんな物がお礼になるとはこれっぽっちも思っていないし、こんな物を貰って喜ばれるはずがないこともわかっていた。それでも今、何かをしなければ一生後悔する気がしたのだ。
「ありがとうございます。頂きます」
八戒さんは言いながら私の手の中から一つだけチョコレートを取った。チョコレートはもう一つ、私の手の中にあった。
「それは延朱さんが召し上がってください。僕はこっちの味が好きなので」
両手で私の手を優しく包んで八戒さんは目を細めた。
「それじゃあ。親御さんを心配させてはいけませんよ」
「……はい。ありがとうございました。失礼します」
私はお辞儀をするとすぐさまその部屋から出ていった。両親のことは、心配させると思ったので本当のことは言わなかった。
扉が閉まる音と同時に駆け出して、私は家の鍵を開けて部屋に飛び込んだ。玄関から見えるのは長い通路と三つの扉。装飾どころか生活感はなく、まるで空き部屋にでも来たようなものだ。
ここが私のいるべき所なのだ。誰を待つことも、待たれることもない完全に孤独な私の為だけの家。
私は玄関で靴も脱がずにずるずると座り込んだ。手にはまだ、人の感触がする。
私はそれを望んでいたのだと今になって気付いてしまった。人と繋がりたいと思ったからこそ、あの時に八戒さんの誘いを断らなかったのだろう。
何年ぶりだっただろうか、人の温もりも、感触も、優しさも。
こんなにも懐かしくて、こんなにも嬉しいものだと八戒さんは思い出させてくれた。そして、こんなにも一人になることが苦しくて、辛くて、悲しくなるものだということも思い出してしまった。
「私は一人でいきなきゃいけないんだから……私は……私は……」
自分に言い聞かせる為に何度も何度も同じ言葉を口にしてうずくまることしかできなかった。
人にいたいと思う心を押し殺す為に。