オートロックの鍵を開けて、エレベーターの前に立つと、僕はボタンを押した。エレベーターの扉にあるガラスの奥でゆっくりと太い縄が動く。
太いとはいえ、縄は縄だ。あの縄が切れてしまえば、僕は死ぬだろう。別段恐怖ではなかった。
いつでも死はすぐそこにある、その現実に僕はほっとしていた。
エレベーターがつくと同時に背後で足音がした。ここの住人だろうとエレベーターに乗り込みながら見てみると、先日会った少女が唖然とした表情で見つめていた。
偶然は重なるものだと思いながら僕は長年の経験で培った笑顔をむけた。こうすれば大抵の人間は笑顔を返したりしてすぐに打ち解けることができるのだ。
だがその少女――確か延朱と言っただろうか、延朱は微かに肩を強ばらせて顔を背けた。
人見知りなのかもしれない。そう思った僕はエレベーターのボタンを押しながら訊いた。
「乗らないんですか?」
「――乗り、ます」
延朱は俯き加減のままエレベーターに乗り込んだ。一度しか顔を合わせたことがない男と一緒に乗るということは、重度の人見知りではないということはわかったが、延朱の態度は一向に変わることなく、むしろ僕に壁を作っているようにすら見えた。僕は階を指定する為にボタンを押しながら横目で彼女を見た。
以前は気にも止めなったのだが、延朱はどうやら高校生のようだ。ロングコートで服は見えないが、黒いソックスにロウファーを履いているし、何よりも手に持つ鞄に学校の紋章のようなマークが刻まれていたからだ。最近の若者のようにキャラクターのぬいぐるみやキーホルダーといった装飾品は一切ない。
外見はお嬢様そのものだった。雪のように白いという、安直ではあるがその言葉がぴったりの肌色をしていて、絹のような白い髪は緩やかなウェーブを描きながら腰まで延びていた。横顔でもわかるほどに顔立ちはくっきりとしていて、正面から見れば綺麗な顔に違いないだろう。
彼女は僕の視線に気付いたのか前髪で顔を隠すようにして足元を見続けていた。
「学校帰りですか?」
「そうです」
重苦しい空気を和ませようと話しかけてみたものの、返ってきた短い言葉に僕はもう話しかけるのをやめようとした。相手に話す気がなければ意味がないのだから。しかし僕は彼女の持っていたビニール袋に目がいった。
どこにでもあるコンビニ袋から透けて見えていたのは紙パックの飲み物とサラダのようなものが見えたのだ。
「もしかして、それが夕飯ですか?」
無意識のうちに出ていた言葉に僕ははっとした。彼女も驚いたのか顔をあげたが、目が合うとすぐに背けてしまった。
一瞬だけ見えた綺麗な金色の瞳は満月のように見開かれていた。
「そう、です……」
「他には?」
「特には――」
延朱はコンビニ袋を鞄で隠しながらおずおずと呟いた。
もしかすると鍵っ子というやつなのかもしれない。親の帰りが遅いので、食べ物は自分でなんとかしなければならないのだろう。
――それにしたって少なすぎる。隣人への親切心とやらで、僕はつい口を出してしまった。
「駄目ですよ、もっとちゃんと食べないと。まだ若いんですから」
やんわりと言ってみると、延朱は頷くことも首を振ることも悪態を吐くこともなかった。
カサリとコンビニ袋が音を立てた。彼女はまるで今にも消えてしまいそうな儚さで呟いた。
「食べるってことは、生きなきゃいけないってことだから――私なんか食べなくても……」
無意識に口にしていたのかもしれない。延朱はそこまで言って口を抑えた。このタイミングでエレベーターはベルの音を鳴らした。
「あっ、しっ、失礼します」
エレベーターをこじ開けるようにして延朱はそこから駆け出した。
「待ってください!」
どうして後を追ったのか、どうして声をかけたのか。僕自身もわからない。でも、一つだけわかることがあった。この少女もまた、僕のようにいつか訪れてるであろう死を、心待にしているのだと。
延朱は足を止めたがこちらを向くことはなかった。それでも僕はその小さな背中が怯えぬよう、精一杯の優しさをこめて言った。
「今日、肉じゃがなんです。良かったら召し上がっていきませんか?一人で食べるよりも二人の方が楽しいですし」
何を言っているのだろうか。こんなことを口にするような性格ではなかったはずなのに。僕は自分の心境に戸惑いながら彼女の言葉を待った。
延朱は何も言うことはなかった。しばらくすると少しだけこちらに顔を見せて頷いた。
それが彼女――延朱との出会いだった。