十二月八日。
オートロックの鍵を開けて、エレベーターの前に立つと、私はボタンを押した。エレベーターの扉にあるガラスの奥でゆっくりと太い縄が動く。
太いとはいえ、縄は縄だ。こんなものに自分の命を毎日預けているのだと思うと、いつ死んでも世間には何の干渉もない、その程度の人間なのだとやるせなくなった。
――まあ、初めから居てもいなくても変わらない私にはお似合いか。内心ごちると扉から目をそらした。
いわゆる億ションに住んでから四年は経った。私はとある富豪の子供だった。だった、と言えば少し語弊がある。今でも一応子供ではあるからだ。
周知されていない子供、いわゆる隠し子だ。母は、子宝に恵まれない富豪の夫妻から大金を貰い、富豪の夫との間に子供を産んだ。それが私だった。
すぐに私は引き取られるはずだった。しかし、そんな折りに富豪の妻に子供が出来てしまったのだ。
そうなれば私の存在意義はなくなったも同然だ。夫妻の子供として生きていくはずだった私は夫妻にとって完全にいらないものとなった。この話はなかったことにしてくれと言われ、母はまた大金を貰った。母はわかりましたとだけ言ったそうだ。
母は本当にどこにでもいるような女性だった。地味な姿をしていたが美しい人で、いつも柔らかな雰囲気を纏っていた。夫妻から貰った金を大事に使い、慎ましやかな生活をするような器用貧乏な女性だった。
そんな母が死んでから四年が経った。病死した母の前に男が現れ、今までの話を全て話すと「生活費だけは払ってやる」と言った。あの時は混乱していてよくわからなかったが、きっとあの人が父だったのだろう。
その言葉通り、私は遺伝子だけの繋がりを持つ父から生活費が送られるようになった。家も与えられたわけだが、当時十三だった娘にこのマンションに住まわせたのは俗世からかけ離れていたせいだろう。
一層大きな音を経ててエレベーターが止まった。女性のアナウンスと共に扉が開く。エレベーターに乗って自分住む階のボタンを押した。
再び女性のアナウンスが聞こえ、扉がしまろうとした時だった。
「すみません!」
その声に私は反射的に開くボタンを連打した。男は溜め息を吐いて肩をおろした。
「ありがとうございます」
「――いいえ」
小さく頭を下げながら男はエレベーターに乗った。アナウンスが流れて扉が閉まる。
「良かった。このエレベーター動き遅くって待つのが大変なんです」
確かに男が持つ荷物ではエレベーターに乗るのでさえ一苦労だと思った。
両手にスーパーの大袋を四つも下げている。日用品や食料ばかりだったが、一つには缶ビールが詰め込まれていた。
その重さではボタンを押すこともできないだろうと思い、私は男に訊いた。
「あの、何階ですか?」
「あ――同じ階みたいですね」
そんなこともあるのかと私は驚いて男を見やった。
男も意外だという表情をしていたが、すぐににこやかに笑った。その拍子に男の黒髪がさらりと揺れた。
細められた瞳は深い緑をしていた。よくよく改めて顔を見ると、テレビや雑誌で見るような男性のように端正な顔付きをしていた。その表情に私の背中にぞくりとしたものが走った。
呆然としていると、ベルの音で我に返ることができた。
「先どうぞ」
「何度もすみません。お言葉に甘えて……」
男はまた一礼をするとエレベーターを降りた。それを見て私も後に続く。
同じ階とはいったものの、一つの階には八つの部屋がある。私の部屋は一番奥なので、男が部屋に入るのを見ることになる。ほんの少しだけ興味があって、どの部屋なのか見ることにした。
隣の部屋には朝方帰ってくるような人間が住んでいることは知っていた。他の部屋に関しては全く見たことがない。もしも隣の部屋の人間だったら――あり得ない。こんな夕暮れ時に扉が開いた音なんてこの四年間一度も聞いたことがない。
何号室なのだろうと考えていると、男はどんどん奥の方へと向かっていた。そして、最後には私の部屋の隣にある扉の前に荷物を置いて鍵を出し始めた。
これには私も驚かざるをえなかった。
驚きのあまり硬直していると、男が不思議そうに首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ……その、私の部屋が――」
混乱しながら男の立つ更に先を指差した。
男は勘違いしたのか慌てて道を開ける。
「通路の邪魔ですね。すぐ退けますから」
「そ、そうじゃなくて……お隣さんだって、思って――」
「え?あ、本当だ。お隣さんだったんですね。偶然ですね」
にこりと、また男は微笑んだ。ついぞ見たことがない綺麗な笑顔だった。しかしその笑みに私はドキリとしたと同時に何か冷たいものを感じていた。
そんな私の心情を知ってか知らずか、男は頭を下げた。
「八戒です。よろしくお願いしますね」
「あ、えと、延朱と言います。こちらこそ……」
私も慌てて同じように頭を下げた。ぎこちなかったかもしれない。
深々とお辞儀をしすぎたので見えなかったが、八戒さんはクスリと笑うと鍵を回した。
「それじゃあ。寒いですから、お体には気をつけてください」
「は、はい」
まるで今生の別れにも聞こえるその言葉と共に、八戒さんは部屋の中へと消えていった。私はなぜか悲しさのようなものが沸いた。
それを拭うように首を振ると自分の部屋に向かったのだった。
その数日後、再び会うことになるとも知らずに。