学生達が帰ってからどのくらい時間が経ったろうか。湯川は未だに研究室で綾乃の帰りを待ち続けていた。
 研究室は雨のせいもあって暗くなっている。電気をつける気すら起きない程湯川は困り果てていた。
 荷物も全部置いていってるのだから帰ってこないはずがない。携帯すら鞄に入れっぱなしでいなくなってしまっていて連絡のしようがなかった。

「――どこに行った」

 湯川の声は誰もいない研究室の中で、雨音に掻き消される。

 君に話す事がたくさんあるんだ。今日じゃないと駄目だから。だから、早く……

 湯川は暗い部屋の中で両肘を机につけると、願うように拳を額にこすりつけた。
 ギシ、と古い建物が軋む音が聞こえてうっすらと光が差し込んだ。次いで、水の落ちる音。はっとして顔をあげると、細身の影がびくついた。
 「なんでここに」驚きと戸惑いの色が声に混じっている。体が中途半端な体勢で固まった。

「今までどこに、」

 湯川が話す間もなく、綾乃は自分の荷物を掴み取ると研究室から駆け出した。湯川はすぐに追いかける。部屋から出てすぐのところで綾乃の腕を掴む事ができた。廊下の灯りでようやく綾乃の姿を見ると、全身ずぶ濡れだった。顔は湯川の方には向いていない。

「綾乃君、傘は」

「うるせえ離せ」

「何が、」

「離せよっ!」

 綾乃は声を張り上げた。湯川はその声がいつもと違って震えている事に気付く。肩を掴んで無理やりこちらに向かせると綾乃の目は真っ赤に充血していた。すぐに両腕で隠されてしまったが、湯川は激しく動揺した。目の前がクラクラして息苦しくなった。どうして綾乃が泣いている理由が全く見当もつかなかった。だが彼女の様子からも、それが自分のせいだというのは察せられた。

「何があったか言ってくれ」

 口調は強気だが、内心はどうしようもないほど狼狽していた。綾乃は黙ったまま顔を伏せた。ポタリと髪から水滴が落ちる。

「頼む。言ってくれ……僕が何かしたのなら謝る。だからそんな顔しないでくれ」

「――先生のせいじゃない」

「僕のせいじゃない?ならなぜ君は泣いている」

 綾乃は深く呼吸をして目をこすった。

「チョコ……先生が貰ってるの、見た」

「チョコレート?僕は貰って――」

 湯川の体が強ばった。目眩がして頭を抱える。まさかあの時の光景をみられていたとは夢にも思わなかった。
 湯川が口を開くより早く綾乃が自傷気味に笑った。

「わかってたんだよ。あんな約束したけど、頭の中では他の人から何を貰おうが関係ないって。でもその姿見ちゃったら……嫌だったんだよ。先生は私に特別扱いしてるわけじゃなかったんだなって思ったら、苦しくて、悲しくて、気持ちが頭においつけなくて……」

 綾乃は紙袋をきつく握り締めた。中には湯川にあげる為のチョコレートが入っていた。

「ちょっと待て、」

「私、いつも先生の一番近い所にいるんだって自惚れてただけだったんだな」

 床に落ちる水滴は次第に数が増えていった。綾乃の涙だと気付いた湯川は、いてもたってもいられなくなった。気付いた時には綾乃を抱きしめていた。

「ちょっと、離せ!」

「嫌だ」

「ざけんな離せよ!!」

「聞いてくれ綾乃く、」

「嫌だ!!私が勝手に特別だとかよくわかんない考え持ってただけなんだ、先生の慰めなんて、」

「誤解なんだ!」

 湯川の腕の中でもがいていた綾乃が固まる。一瞬何を言われたか理解できなかった。

「――ご、かい」

 ようやく見せた顔からは大粒の涙がこぼれていた。
 湯川はこんな時に不謹慎だが綺麗だと見とれた。

「僕は確かに女学生からプレゼントを受け取った。しかしそれは僕にではなく村瀬君宛てのものだ。彼女に渡してくれと頼まれたんだ」

「だって、渡された時笑って……」

「愛想笑いに決まっているだろう――全く、君は」

 ――やはりか。湯川は溜め息をついた。誤解されたにしろ、自分の為にこれほど感情を露わにしている綾乃が途端に愛おしく感じる。綾乃の腰と頭に腕を回し、強く抱きしめた。

「だからやめろって、服が濡れる」

「――もう遅い」

 ようやく解放されたは良いが、湯川の服は綾乃の濡れた髪や服から充分に水を吸っていた。

「あー、バーバリーが……」

「君が逃げようとするからだ」

「だからって抱きつくのはどうなんだよ」

 湯川はわざと咳払いをしてくるりと身を翻した。

「荷物を持ってくる。その格好では君の家まで行くには風邪をひくだろう、それに話もある。僕の家に来なさい」

「でも、」

「来たまえ。」

 有無を言わせぬ湯川の口調に、綾乃はそのまま湯川に着いていくしかなかった。



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