バレンタイン当日。
「はぁ……」
重い足取りで大学へ向かう。その手には紙袋が握り締められていた。
内海の家から帰って、一応作ったチョコレート。トリュフやガナッシュなどの色々な種類が、小さな包みに詰まっている。
昨日渡すつもりでいた人達の分だ。湯川の分もあるにはある。しかし、綾乃は渡そうか決めあぐねていた。
内海の嬉しそうな笑顔。自分が未だ経験した事のない、『恋』をしている顔だった。
その顔が、自分のせいで歪んでしまうかもしれないと思うと、渡さずに約束を破ってしまえば、内海からの、否、他の湯川に行為を寄せている女性のチョコレート貰ってあげるのではないか。
自分のなんて、いつもお世話になってるからという理由だけだ。他の人に比べたら小さな理由すぎる。
その事をずっと考えていたせいで綾乃は一睡もしていなかった。
どんよりとしていて今にも泣き出しそうな空が、まるで綾乃の心を鏡のように映しだしているようだった。
不意に着信を知らせるバイブレーションがバックを通して伝わった。
「はい、もしもし」いつも通りを装って電話に出ると、相手は内海だった。
「あ、綾乃ちゃん?ごめんね。これから大学行くんだけど、一緒に湯川先生のところにいってほしいんだ」
「あ、はい。良いですよ。今日は講義も三限だけなので」
「ありがとう!じゃあ、五時に研究室で待ち合わせね!!」
用件だけ伝えると、内海は電話を切った。
内海の声は顔を見なくとも、とても舞い上がっていた。綾乃の心がキリキリ痛む。
こんな気持ちになるならあんな約束しなきゃ良かったと今更ながらに後悔していた。
なんとなく湯川と内海の顔を見たくなかった綾乃だったが、行くと言った手前、さすがに行かないのはまずいだろうと集合時間の十分前に、研究室に来ていた。
いつもより重い扉を開けながら挨拶する。研究室にはゼミの学生しか見当たらなかった。
「失礼致します……」
「あ、綾乃ちゃん。綾乃ちゃんも呼ばれたんだ?」
「ええ。村瀬君達は准教授のお手伝い?」
「うん」村瀬達は口々にそう言いながら、実験の準備をしている。
綾乃は邪魔にならないように隅に座った。
「そ、そういえばね。チョコレート、作ってきたの。良かったらどうぞ」
包装された五つの小箱を実験台の上に並べると、ゼミの学生は興奮しながらそれぞれ一つずつ持っていった。
「あたし達のもあるよ!?」
「本当だ!綾乃ちゃんありがと!!」
「いつも研究室でお世話になってますから」
渡辺と谷口は笑って開封しはじめる。
小さめのチョコレートが六つ、色々な形で小箱に収まっていた。
「ほら、先生そろそろ来るから準備してー」
ぶっきらぼうにドアを開けながら栗原は資料を実験台に乗せた。綾乃を見つけると訝しげに見てからため息をついた。
「君もいたの。これから実験するんだから、ちょっと隅寄ってて!」
「はい。あの、栗原さん」
「何?僕とても忙しいんだけど!そもそも君がなんでここに、」
目の前に可愛いらしく包まれている箱を見て、栗原は絶句した。
「いつもお世話になっております」
「つ、妻も娘もくれなかった……チ、チ、チョコ!?」
絶叫に近い声をあげながら綾乃のチョコレートを奪い取ると、栗原は小躍りしながら研究室を一周した。
あまりの喜びように一同唖然として見つめると、その視線に気づいた栗原は我に返りわざとらしく咳き込んだ。
「君達実験の準備をしなさい!!」
平然を装いながらも、栗原は大事そうにチョコレートの箱を鞄へ入れた。
ちょうどその時、湯川と内海が現れた。内海の手には昨日大切に包んでいたチョコレートの箱と同じ色の紙袋が見える。
あれは湯川にあげるものではないか。綾乃は気持ちが引きつった。