十二月二十一日。



 今日は特に冷える朝だった。女の家から出てすぐにそれを後悔した程だ。こんなことなら太陽が昇りきるまで待っていれば良かった。そう思って一端戻ろうとしたものの、やめた。
 女の部屋に戻ればだらだらと昼過ぎまで暖かいベッドが確定している。問題はその後のことだ。女は夜の仕事をしていた。勿論俺ともそこで出会ったわけで。女が部屋を出るとなれば俺も出ていかざるをえないのだ。そうなると、昼間に家に帰ることになる。それが厄介だった。
 昼間に家に行けば、必ずあいつと顔を合わせることになる。
 白ける空の下、仕方なく俺は帰りたくもない場所に足を向けたのだった。
 俺には不釣り合いな豪華なマンションは駅からほど遠くない場所にあった。まあ、いわゆるセレブが住むマンションだ。金持ちの女が俺に買い与えてくれたものだ。初めのころは毎日のようにその女が来ていたが、いつしか来ることはなくなった。所詮俺はただの玩具だったということだ。名義は俺の名だったので、今でもこうして住むことができた。
 住む場所さえあれば、後は適当に生活費的なのは全て賭けで賄うことができるし、困ったあとがあれば女を引っかけてしまえはどうにかなった。
 地に浮いたような生活をしていたわけだが、最近は更にひどくなった。あの男を拾ってから、そんな生活は更に拍車がかかっていた。
 今日もまた、あの男と最低限を合わせるだけにしたいが為に、大通りでさえ人がまばらな時間に帰路についていた。
 ようやくマンションの前まで来たので鍵を出そうとポケットを探っていると、入り口の自動ドアが勝手に開いた。別に怪奇現象が起きたわけではなく、住人が外出するようだ。
 やたらと生意気そうな高校生くらいのガキは、何故か身を隠すようにマンションから出ようとしていた。
 死角にいた俺に気付かず、ガキと思い切り肩をぶつけあった。
 ぶつかった時に、ふわりと花のような香りがした。

「あ、ワリィ」
「……チンピラ風情が」

 突っ立っていたせいもあるので一応謝ったのだが、ガキはまるで汚いものでも見たかのように顔を歪ませて通り過ぎていった。
 思わずカチンときたが、何か言ってやろうという気は更々なかった。どうせもう会うことはないのだから、ガキの言葉一つに突っかかることすら無意味だ。
 それよりも俺は、今目の前で閉まろうとしている自動ドアの方が気がかりだった。鍵を探して取り出すことすら億劫だったので、このチャンスを逃したくはなかった。
 挟まれることなく自動ドアをくぐると、エレベーターに乗った。階を指定してすぐに上昇し、どこにも止まることなく俺の部屋のある階に到着した。
 俺の部屋はエレベーターから二番目に遠い場所にあった。一番遠いところには人が住んでいるかさえ知らない。それどころか他の部屋の住人とすら数える程しか見たことがない。
 階が高いせいか、ビル風のようなものが通路を吹き抜けていた。
 これ以上寒いのはごめんだ。ポケットの中をあちこち探しながら自分の部屋に進んでいると、あることに気付いた。ポケットのどこにも、鍵らしきものが見当たらない。

「マジかよ――」

 探すところなんか数少なくて、何度も何度も同じ場所に手を突っ込んでみるが、それらしいものは見つからない。目の前には暖かな部屋が待っているというのに。
 インターホンに目がいった。これを押せば、きっとあいつはすぐに開けてくれるはすだ。
 俺はこのボタンを押したくなかった。早朝だから起こしたくないという遠慮ではない。
 押せば、どう足掻いてもあいつと会ってしまう。あいつと目があってしまうからだ。
 俺を恨むわけでもなく、怒るわけでもなく、ただただ己の死を懇願するような瞳。その瞳が怖くて、俺はあいつを――八戒を避け続けていた。
 だが、今はそれを考えている暇はなかった。木枯らしの中薄いシャツにジャケットという、心もとない軽装では女の部屋に戻ることも、歩いて五分の場所にあるコンビニに行くことも躊躇するほどに体が冷えきっていた。
 かじかんだ手をポケットに突っ込んでドアの前を右往左往していたが、ついに俺は覚悟を決めてインターホンを見た。
 こうなっては仕方がない。あの男とは二言三言話してすぐに自室に戻ればいい。そう思った俺は一息おいてインターホンを押した。
 部屋の中でなんとも間の抜けた音が聞こえた。すぐに出てくると思ったはずが、しばらくしても出てくる気配はない。
 もう一度押してみるが、やはり玄関が開くわけでもなく、むしろ人の気配さえも感じない。
 八戒がいないとは思ってもいなかった俺は慌てて何度もインターホンを押した。俺の気持ちとは裏腹に無情にも扉が開かれることはなかった。

「――オイッ、いるんだろ!開けろよ八戒!!」

 こうなっては大人しくインターホンを押している場合ではない。
 俺は怒りに任せて扉を殴ってみたが、中にいるはずの人物の応答はついぞなかった。

「クソッ――――!!」

 最後は八つ当たり同然に扉を蹴りあげた。しんと静まるマンションの通路は相変わらず風が冷たかった。
 出ていったのかもしれない。悟浄の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
 死に際にいた八戒を拾って数ヶ月くらいだろう。ようやくに動けるようになったから、ここじゃないどこかに行ったのかもしれない。
 再び死に場所を求めに。

「だからって鍵閉めてく必要はねぇだろ……」

 今の状況は最悪だ。鍵はないし、金もタバコ一箱分程度だ。おろそうにもこんな時間ではATMにすらお断りされるだろう。それに、寒すぎてもう体を動かす気にもなれない。管理人――はここに住んでないし、来るとすれば九時以降だ。それまで三時間以上、ここにいることになるのか。
 俺は壁にもたれると、脱力するようにしてずるずると座り込んだ。
 しばらくしないうちに、ガチャリとドアノブを回す音が聞こえた。
 完全に無宗教な俺でも思わず神様に感謝していた。こんなタイミング良く人が現れるなんて奇跡か、日頃の行いが良いかのどちらかしかないだろう。
 事情を説明して電話を借りて管理会社に連絡をしようか。最悪ヘアピンとか安全ピンでもいい。もし出てきたのが人妻だったりしたら、部屋にいれてもらえて、しっぽり出来るかもしれない。
 とにかくこの状況を改善できることは確実だ。俺は立ち上がって音のした方を見た。
 そこには顔を少しだけ出した少女がいた。金色の瞳をまたたきさせて、怯えるような顔をして俺を見つめている。
 なんだ、またガキか。高校生以下はストライクゾーンには入んねーんだけど。内心俺はそう呟いたが、選り好みしている場合ではない。極力脅かさないようにやんわりと少女に話しかけた。

「お嬢ちゃん、ごめんな?こんな朝早くにさ。お兄さん家の鍵なくして困ってんの。良かったら電話とか貸してくんない?」

 精一杯の笑顔を繕ってみたものの、少女の表情は何一つ変わらない。むしろ何か疑うような目付きに変わっていた。

「……もしかして、八戒さんの――?」

 隣の少女が八戒の名前をだすなんて夢にも思っていなかった俺は、一瞬呆気にとられてぽかんとしてしまった。
 すぐに我に返って大きく頷いた。

「そうそう。俺は八戒を居候させてやってるモンなんだけどさ。もしかして俺のこと聞いてなかったりする?」

 少女は首をふるふると横に振った。どうやら八戒は隣と俺の話をする程度の知り合いらしい。
 上部だけの近所付き合いなのかもしれない。昼間に何をしているか全く知らない俺にとって、二人の交友関係はどうでも良かった。とりあえずこの寒さをどうにかしたかった。

「でさ、電話、借りて良い?」
「……どうぞ」

 まだ警戒されているのか、目を合わせることなく少女は部屋に俺を招き入れた。
 少女の部屋は一言で言うと空き部屋のようだった。通されたリビングにはインテリアはおろか、ソファーなどの家具が一切置かれていなかった。あるといえば、部屋の片隅に未開封の段ボール箱が二つだけ。どこがで嗅いだことのある花のような香りが鼻をくすぐった。
 同じ間取りだというのに、全く違う雰囲気にそわそわしながら待っていると、少女は俺の使っている同じ部屋から薄い本のようなものと携帯電話を持って戻ってきた。そこが自室のようだ。

「どうぞ。これ、管理会社の電話番号乗ってますので」
「お、おう。さんきゅー」

 それを手にとって、俺は壁にもたれながら書類に目を通す。管理会社は二十四時営業のようだ。
早速電話をかける。受話器の奥で呼び出し音が鳴っていた。
 キッチンの方で水を出す音が聞こえたので視線を移す。
 少女がやかんに水を入れていた。使われたことがない部屋には不釣り合いな古ぼけたやかんだった。フタをしたら笛がなるタイプのやつだ。
 俺が見ていることに気付いたのか、少女ははっとしてすぐ俯いてしまった。
 可愛いのに無愛想だなぁ、オイ。第一印象はそれだった。街中で見かければ声もかけられずに魅とれていただろう。後数年経てば、の話だが。
 それとは別に、少女には気になることがあった。この少女の纏う雰囲気だ。暗いと言ってしまえば簡単だが、そんな言葉では言い表せないような重く刺々しい雰囲気が少女の周りを包んでいる。俺はその様子に見覚えがあった。十数年前の俺だった。
 あの時の俺は世の中全てに――生きていることにさえ絶望していた。死ねるものなら死んでしまいたいと、そう思っていた自分に少女は本当にそっくりだった。顔を背けたくなるほどに。
 耳元でようやくガイダンスが流れ初めたので聞き入っていると、鍵の紛失はオペレーターと話さないといけないらしく、更にはオペレーターは十時からご出勤だそうで。つまりは現状全く変わっていないということだ。
 なんて俺はツイてないんだと思うと溜め息しか漏れなかった。

「どうでしたか……?」

 電話を切ったのを見てか、少女は俺の顔を窺いながらおずおずと聞いてきた。

「駄目だった。九時過ぎないとなにも出来ないっぽいわ」

 この先が面倒なことばかりだということに頭が一杯で、あまり
笑えていなかったのかもしれない。
 少女は困った表情をしている。
 ここに居させてもらう理由もなくなったので、俺は早々に出ていくことにした。

「駄目だったのはしょーがないべ。時間まで適当にブラつくことにするわ。電話ありがとさん」

 借りたものを差し出せば、少女は簡単にそれを受け取った。しかし、どうしてかそこを動かない。玄関に向かう通路の真ん中に立たれていれば、出ていくことが出来ないわけで。

「――八戒さんが戻るまで居てもいいです、……よ、良ろしければ、ですけど」

 思わず耳を疑った。言っちゃなんだが、俺はどうみても善良な一般人が関わりあいたくないような外見だ。髪なんて真っ赤だし、ロン毛だし。外見から見てもヤのつく人達か、良くてホストだろう。
 得体の知れない男を留めさせようという理由は少女の顔からは汲み取ることは出来ない。
 今は少女の優しさに甘んじようと思った俺は目を細めた。

「さんきゅーな。俺は悟浄ってんだけど――お嬢さんは?」
「延朱、です……」

 延朱は律儀に頭を下げると、ふわりと花の香りがした。
 これが俺と延朱――と、八戒との奇妙な関係の始まりだった。

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