「あー……ワリ。煙草良い?」
悟浄さんは言いながらベランダを指差した。私はただ頷くことしかできなかった。
まさかまたルールを破ってしまうとは思ってもいなかった。八戒さんの時に懲りたはずだ。誰かと関わると虚しくなるのは自分だと、辛い思いをするのは自分だということを。
外に出た悟浄さんは大きく身を震わせて、ポケットからくしゃくしゃな紙箱に包まれた煙草を一本口にした。
八戒さんの家に染み付いていたのはあの人の香りだったのかと納得することができた。八戒さんが煙草を吸うようには見えなかったからだ。
悟浄さんの見た目は八戒さんなとは全くもって正反対だった。八戒さんは物腰もそうだが、見るからに優しそうで、教師をやっていたらきっと人気があっただろう。容姿の面でも母親に大人気だったに違いない。
悟浄さんは、見た目ははっきり言って近づきたくない姿をしていた。彼の名誉の為にも言っておくが、決して指を差されて容姿を馬鹿にされるわけではない。むしろ雑誌のモデルをしていそうな体型と端正な顔の持ち主なのだが、いかんせん珍しい髪色と着ている服が彼に近付くことを躊躇わせていた。
まるでヤクザか、良くてホストのよう。もし街中で肩でもぶつけたらお金をせびられそうだ。それが彼の――窓の外で真っ赤な髪を風になびかせている悟浄さんの第一印象だった。
まるで陰と陽のように対照的な二人ではあったが、なぜか私はそんな二人が似ているような気がしてならなかった。だから一緒に住んでいるのだと思ったものの、すぐに違うことに気付く。先日聞いた話ではどちらも顔を合わせることを躊躇ってるようなことを八戒さんは言っていた。しかも先ほど悟浄さんは、八戒さんを居候させているとも言っていた。
滅裂な二人の関係に私はほんの少しだけ興味が沸いてきていることに戸惑い、頭を振った。
そんなものを私が知って一体どうなるというの。知ったとしても二人は他人、ただの隣人。そんな人と私なんかが聞いて良いはずがない――。
ガラガラとサッシが開く音がして我に返る。悟浄さんは腕を擦りながら寒そうに戻ってきていた。
観察していたことに気付いたのか、困った表情をして笑った。私は目を背けてしまった。こんな風に日に何度も人と目を合わせることがないので恥ずかしくなってしまったのだ。
「すみませんっ、あの、今暖かいものを入れますので、ちょっと待っててください!座るものとかすぐ持ってきますから――」
「あー……おかまいなくー」
気まずくなってしまった雰囲気から逃げるようにして私は自室に向かった。
まともな人が来たのは初めてで、こんな時に座れるような場所がないことを悔やみながら何か敷物を探し回った。といっても私の部屋には勉強机と本棚とベッドしかない。今更ながら可愛げもない部屋に呆れながら、あれなら大丈夫かもと、枕の隣にあった大きなクッションを掴んでリビングに戻った。
「すみません、こんな物しかなくって――」
「いやー、まじで気ィ使わなくって良いからさ。つーか何もないのな。最近引っ越してきたとか?」
「あ、え……はい」
部屋の隅に置かれている段ボールを見て悟浄さんはそう思ったのだろう。それならそれで好都合だと思った私はクッションを手渡しながら頷いた。
気まずい雰囲気を甲高い笛の音が引き裂いた。火にかけていたやかんの水を知らせる音だと気付くと、私は慌ててキッチンに向かうと火を止めてやかんのに手をかけた。それがいけなかった。
「熱ッ……!!?」
「どうした?大丈夫か?」
慌てて火にかけたせいで取っ手が蒸気で熱されていたのだ。気づかなかった私はそれにおもいきり触れてしまった。
ガシャンと派手な音を立ててやかんはガスコンロに打ち付けられた。その音で心配したのか、悟浄さんがキッチンに顔を出した。
「火傷したのか。見してみ」
「あっ、やっ――」
悟浄さんは私の手を取って火傷を探した。手のひらに取っ手の痕が赤くついているのを見て顔をしかめた。
「こんくらいなら冷やせば大丈夫だろ。袖捲んな」
「えっ!?だ、大丈夫です、このくらいなんともありませんから!」
「なーに言ってんの。冷やさなきゃ早く治らねーんだぞ。ホラ」
「ほんとに良いですから――駄目、」
悟浄さんはただ純粋に私を心配してくれているのだろう。少し強引に私の手を掴んで蛇口に手を伸ばした。そして袖口を捲りあげた。私は思わず顔を背けた。
剥き出しになった私の手首には、赤黒い蛇の這ったような後がくっきりと残っていた。私は頭の中が恥ずかしさとで真っ白になっていった。
見られた、見られた、見られた。穴があったら入りたい。むしろ今すぐにでもこの世から消えてなくなりたい。唖然としている悟浄さんの手を振り払って、すぐに手を隠した。
「あー……悪い。そういうことだったか」
悟浄さんは申し訳なさそうに眉を下げて頭を掻いた。悟浄さんが悪いわけではないことは勿論わかってはいたが、動揺しすぎて返事すらすることが出来なかった。
「いや、まあ、あれだ。そういうプレイをする店とかけっこーあるし、縄の痕くらいどーってことないって。でも、そんなにイヤならちゃんと言った方が良いんでない?彼氏にさ」
「……彼氏?」
私は思わず耳を疑った。一体どうしてそんな言葉が出てきたのか全く理解することができなかった。
悟浄さんは私を少しでも安心させようと言葉を選んで続けた。
「さっき高校生くらいの奴とすれ違った時にここの部屋と同じ匂いがしたもんだからさ。彼氏かと思ったんだけどよ……もしかして、違った?」
「――あの人とは、そんな関係じゃ、ありません……」
息苦しいのを我慢してゆっくりと言葉を繋いだ。それだけは絶対に違うのだと言いたかったからだ。
気が付けば、血が巡らないほどに手首を握り締めていた。体も小刻みに震えている。数時間前の、あのおぞましい行為を思い出して、吐き気さえしていた。
「――そーゆーのは暖めれば少しはよくなるからさ。な」
しばらく黙っていた悟浄さんは、何もなかったような軽い口調で言った。
少しだけ顔をあげると、悟浄さんははにかむように笑って言った。
「俺も昔よくあったからさ。下手な奴がやるといてーんだ、コレが。このタオル借りるぜ」
食器を拭く為に置いてあった新品のタオルを水道で濯ぐと、私の手を取って手首に巻いた。
じんわりと暖かさがタオルから伝わる。
理由を聞かれると思った私は呆然と悟浄さんの手を見ていた。
「ど……して――」
「ん?」
「どうして、こんな……優しくしてくれるんですか」
自分でも目をそらしたくなるような傷痕を、ためらいなく見て、触れて、癒そうとするだなんて。私には全く理解することが出来なかった。
「――嫌か?」
悟浄さんは神妙な顔付きをしていた。私は頭を振った。確かに見られた時はどうしようもないほど恥ずかしくて嫌悪感すらあったが、今はむしろ、ほっとするような気持ちでいた。
「嫌じゃ――ないです……」
「そうか。なら良いけどさ。嫌なら嫌って言った方が良いぜ。俺にも、そのよくわかんねェ関係のガキンチョにもな」
悟浄さんの言っていることを理解した私は顔色を伺われないようにと床に視線を落とした。
悟浄さんは全てを推測した上で、心配して助言をしてくれたのだろう。あの人を拒絶をするということにどれだけ生半可な勇気が必要で、もし言えたとしてもそれは無駄なことだということを悟浄さんは知らないからだ。
暗く深い沼の底でもがくことも出来ず、ただ沈んでいくことしか出来ない私にとって、悟浄さんの言葉は更に沼の底に引きずりこむだけの重りでしかなかった。
悟浄さんの言葉に「はい」とは言えずにしどろもどろしていると、目の端がぼんやりと輝いた。
私の部屋からは、カーテンを開けていると仄かな明かりが隣から見えてしまうのだ。勿論暗い時にのみ確認することができるのだが、今はちょうど早朝ということもあって微かにそれを確認することができた。
「――八戒さん、帰ってきたみたいです」
なんてタイミングが良いのだろうと八戒さんに感謝しながら、私は悟浄さんの手から自然に離れるようにして窓を見た。
「電気ついてんの丸わかりじゃん。プライベートもあったもんじゃねェなぁ」
高級マンションのあらぬ欠陥を見てか、悟浄さんは顔をしかめて首を擦った。
「そいじゃ、おいとまでもしようかね。あ、見送りは必要ないぜ」
悟浄さんはそう言ってキッチンから出ていった。しかしすぐにひょっこりと顔を出した。
「――そういやさ。さっき何で優しくするの、って聞いただろ?いやもう、外マジで寒かったからさ、延朱ちゃんが出てきた時はちょー嬉しくてさ、神様かと思ったワケ。で、まあなんだ、さっきのは部屋に入れてくれた優しい延朱へのお礼な」
悟浄さんが頬を掻いた。照れくさそうに見えたのは気のせいかもしれない。私の手にはまだ温もりのあるタオルがかけられたままだ。まるで、今も悟浄さんの手に握られているかのような温かさを、私は手放したくないと心から思っていた。
「ありがとな。そんじゃ」
ひらりと手を振って、悟浄さんは今度こそ私の前からいなくなった。
玄関でブーツを履く音に耳が集中する。これで本当に悟浄さんとはもう会うことはなくなってしまう。
これだけ心配してもらって、これだけ優しくしてくれた人をこのまま行かせてしまっても良いのか。何かするべきことがあるのではないか。
考えるまでもなく私はキッチンを飛び出して玄関に向かった。
まさに立ち上がって外に出ようとしている悟浄さんがいた。
「あの、これっ……ありがとうございます」
悟浄さんは振り返って驚いた表情を見せたがふっと口の端をあげて笑うと、扉を開けた。薄暗い廊下に光が射し込む。
「頑張れよ」
背中を向けながら手を振って悟浄さんは今度こそ本当にいなくなった。
扉が閉まると、家の中はしんと静まり返ってしまった。
どうしようもない虚無感に襲われて、私はその場に崩れるように座り込んだ。
ぱたぱたと溢れる涙に気付くのはもう少し後のことだった。