***39***

 シシーが目を覚ますと、真っ白な壁が広がっていた。それが壁ではなく天井だと気付くのに少し時間がかかったどこにいるのかわからなかった。腕を動かそうとしたが、何かに掴まれていて無理だった。
 意識がゆらゆらと揺れている時だった。

「シシー」

 名前を呼ぶ声がして、シシーはゆっくりとそちらに顔を動かした。

「バー、ナビー様……?」
「良かっ、た。ずっと目を開けないから心配で――」

 そこには目を細めるバーナビーがいた。頬には大きなガーゼが貼ってあり、口の端は擦り切れていた。どうしてそんな傷が付いているのかと思ったが、重い頭では理解できなかった。
 バーナビーの背後に時計があった。それは十七時を差してからあまり時間は経っていなかった。窓の外は夕焼けで空が橙に染まっていたのを見て夕方だということにも気付いた。
 シシーは眉根を寄せて訊いた。

「バーナビー様、お仕事はどうなさったのですか」
「は?」
「まだ退勤時間ではないはずですが」

 シシーは定時が六時のはずなのにこの場にいるバーナビーを不思議に思ったのだ。

 バーナビーは深くため息をつくと心底呆れた顔をして言った。

「貴女が心配だからここにいるんじゃないですか」
「私よりも仕事を、」
「仕事のことは気にしないでください。事務仕事は五日程休みをもらいましたよ。勿論ヒーローの仕事も、多少は」
「そうですか……」
「なんですか、開口一番仕事はどうしただなんて。鬼ですか貴女」
「も、申し訳ございません……」

 口を尖らせるバーナビーにシシーはベッドの中で頭を下げた。怒らせてしまったと思ったが、バーナビーはすぐににこりと笑ってみせた。

「嘘ですよ、怒ってませんから。それにシシーが一番最初に言ったのは僕の名前ですからね」

 バーナビーはそう言いながらシシーの頬に触れた。バーナビーの指は細く長く、冷え切っていた。
 微睡んでいた意識が触れた指先からはっきりと輪郭を帯びて、明確になっていく。
 ジェイクを捕まえようとしたが、クリームと逃亡を謀ろうとしていたことをシシーは思い出す。

「バーナビー様、ジェイクはあの後どうなったのですか」
「……奴は、死にましたよ」

 バーナビーは一瞬顔をしかめて俯くと、事の次第を話しだす。
 ジェイクは逃走しようとして、虎徹によってそれを妨害された。時計のギミックのワイヤーでジェイクを捕まえたところまではシシーも憶えていた。それに激怒したジェイクはバリアを虎徹目掛けて撃ち込んだ。だがそのバリアは虎徹を超えてクリームの乗ったヘリコプターのテールブームを撃ち抜いてしまったという。

「ジェイクは落ちてくるヘリを避けきれずに死にました。クリームはヘリから飛び降りて生きてはいますが、未だ意識不明のままです」
「――そうでございますか」

 話している間もバーナビーの表情は固かった。何か困惑したような顔をしてシシーを見ようとしない。

「どうかしたのですか?」

 バーナビーは一度顔を上げた。シシーと目が合ってすぐにまた俯く。

「……全部、終わったんですね。両親を殺した犯人はもういなくって、僕はもう復讐の為だけに生きなくても良いんですね」
「勿論でございます。バーナビー様はもうご自分の生きたいように生きていけば良いのです――。何か不都合が?」
「いえ、ただあまりにも両親の敵を見つけることに専念しすぎて、自分に好きなように生きるなんてどうすれば良いのかわからなくって」

 四歳からこれまで二十年。自分の為ではなく両親の敵をとる為だけに生きてきたバーナビーにとって、自分の事を考えるという選択肢は今まで考えたこともなかった。ただただ復讐の為だけに猛進して生きてきたのだから、そんなものは必要がなかったのだ。
 勿論、復讐を遂げてからのことは考えたことはあった。そんなものはまだまだ当分先だと高をくくっていたせいで、その瞬間がきてしまったことにバーナビーは戸惑っていた。

「バーナビー様がしたい事をすれば良いのだと思います」
「したい、こと?」
「何かございませんか? ほんの些細な事でもいいのです」
「些細なことでも……」

 バーナビーは言われた通りに考えた。ずっとしたかったこと。身も心も、一身を捧げる覚悟で両親の復讐を遂げて、その呪縛から逃れてからしたかったこと。
 ――一つだけ、そんな時にも関わらず願ったことがあった。
 自分には絶対に必要のないと思っていた、小説やドラマのようなロマンティックで無駄なもの。

「ありました、したいこと」
「でしたらそれを実行すればよろしいのではないでしょうか」
「あれ、聞かないんですか?」
「伺ってもよろしいのですか」
「勿論です。はいどうぞ」
「――差支えなければ、教えていただけますでしょうか」

 バーナビーは笑って、シシーの両頬にそっと手を置いた。

「僕はシシーのことが好きです」

 ずっと言いたかった。全てが終わるまでいえなかった想いを、今ようやく口にすることができた。バーナビーは伝えられたことが嬉しくて更に笑みが増した。
 シシーはというと、目を丸くして硬直している。

「これが僕のしたかったことです。あ、どちらかといえば言いたかったことですかね。ってシシー、聞こえました?」
「げ、幻聴が……」
「――今度は耳元で言ってあげましょうか?」
「結構でございます!」

 みるみるうちに耳まで真っ赤になったシシーを見てバーナビーは思わず抱きしめた。そしてもう一度自分の想いを口にした。

「好きです、シシー」
「み、耳元でっ!?」
「大好きですよ」
「言い過ぎでございます、」
「ずっと前から好きでした」
「ご冗談を――」

 シシーははっとしてバーナビーを引き剥がす。バーナビーは笑顔のままシシーを見た。

「ずっと、前?」
「はい。ずっと前です。貴女がうちに来る前から」
「そ、れって……」
「忘れていて、すみませんでした。でももう全部思い出しましたから。貴女のことも、貴女が好きだったことも、全部」

 シシーの瞳が見開いた。バーナビーはそんなシシーの手を取ると、ポケットからネックレスを出して、手のひらに置いた。それはジェイクに千切り取られた、コインのついたロザリオだった。

「これ……は」
「もう落としちゃだめですからね」

 頷きながらシシーはそれを両手で大事そうに握り締めた。
 ふと、バーナビーにある疑問が浮かぶ。

「――でも、どうして貴女がそれを持ってるんですか? 確かそれは父さんが持っていったはず」

 シシーのことを忘れなさいといわれ、父にコインを取られたはずだった。なのにどうして父ではなくシシーが持っているのか。

「――バーナビー様は全てを思い出されたのでごさいますね?」

 先ほどまで顔を赤らめていた人物とは思えない程真剣な顔つきをするシシーに、バーナビーは頷くしかできなかった。

「私は、あなた様のお父上と約束を致しました」
「約束?」
「はい。お父上はこう仰いました。『息子のことは忘れてくれ。これも返す』そう言ってこのコインを返しに来られました。バーナビー様がご両親の連れて行かれた次の日のことです。ですが、幼い身の私はそれだけでは納得がいきませんでした」

 シシーの話が二十年前に研究所で別れた時のことだと理解した。バーナビーは自分も同じように納得がいかず、大泣きして両親を困らせたのを思い出しながら話を聞いた。

「泣きながら嫌だと訴える私にお父上は言いました。『諦めてくれ、忘れた方が君の為にもなる』と。ですがそんなことで諦められるはずがありませんでした。だって初めてできた友達を容易く忘るだなんて、諦めるだなんて、できなかった……」

 コインを握り締めるシシーの瞳にはうっすらと涙が溜まっていた。

「そのことを告げると、お父上は大層困っておりました。しばらく問答は続きましたが、お父上は両手をお上げになりました。『わかった、こうすることにしよう。もし君が一人でここを出られて息子に会ったとして、君のことを思い出すようなことがあれば、わたしはそれ以上何も口出ししない。また友達に戻っても良い。だが勿論、このことを話したり、故意に思い出させるのは駄目だ』と、」
「待ってください、その言い分だと父さんは僕がシシーのことを忘れるのを知ってたように聞こえるんですけど」

 シシーは肯定も否定もせず、睫毛を伏せた。バーナビーは信じられないという顔をしていた。

「――父が、僕の記憶を失くした?」
「存じ上げません。ですが、お父上はそうせずにはいられなかったのだと思います」
「でも、だからって、僕の記憶を消すなんてあんまりです……。それに、僕にシシーのことを忘れさせたのに、思い出したら何も言わないって、なんておかしいじゃないですか。そんな風に言うなら最初から忘れさせなくても良いはずだ」
「――お父上は私が研究所から一人で出て、と仰いましたが、それが不可能なことをご存知だったのです」
「どうしてですか」
「――私が、あの研究所から一生でることは出来ない」
「だから、どうして、」
「思い出してくださいまし。私が、どのような環境にいて、どのように扱われていたのかを……」

 夢で見たような色褪せてぼやけたものではなく、はっきりと鮮明に色のついた記憶が蘇る。
 初めて会った時から常にどこかを怪我していたシシー。
 たまに出向けば薬品を摂取するといって注射をされていたシシー。
 自分以外の人間にはアルファベットで呼ばれていたシシー。
 今の彼女に少し歳をとらせた白衣の女性をママと呼んでいたシシー。
 小さい時にはわからなかったが、今になって不自然極まりないその空間で行われていたことが何なのかバーナビーは気付いてしまった。

「――貴女は、あの人の被験者だった?」
「被験者、ではなく被験体でございますバーナビー様」
「被験体……?」
「私の存在自体が、重大な罪を犯した実験そのものでございましたから」
「……そう、」
「なんだって!?」

 バーナビーが言うよりも早く、扉を打ち付けるように開けた虎徹が叫ぶ。ずかずかと部屋の中に入ってくる虎徹は花束を持っていた。

「虎徹様」
「今の話どういうことか説明してくれ」
「あなたいつからそこに、」
「だーっ、あれだ、あんときだ! お前の親父が記憶を消したか消してないかのくだり!」
「――随分前から立ち聞きしてたんですね」
「しょうがねえだろ!? 入りにくい雰囲気だったんだからよ。それでシシー、今の話は本当なのか」
「……事実でございます」
「重大な罪って何なんだ、」
「待ってくださいよ虎徹さん。シシーが言いたくないかもしれないじゃないですか」

 言い寄る虎徹の前に腕を出してバーナビーが止めさせた。シシーはふるふると首を振った。

「いいえ、いずれは話さないといけないことでございますので」

 シシーはゆっくりと深呼吸を繰り返すと二人を見据えて言った。

「あの研究所では、違法な遺伝子操作の研究を行っておりました。人間を強制的にネクストにする実験、超人的な力をネクスト能力なしで植えつける実験。その研究を積み重ねた結果成功してできたのが私なのでございます」



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