バイ・ユア・サイド





思えば、朝からどこか不思議な日だった。

コーヒーの香りとベーコンの油の音、東の窓から差し込むやわらかい陽射し。
そのどれを取っても、どれもいつも通りのハズなのに。

嫌な感じではないんだけど、なにかがいつもと違う。


「なんなんだろうねぇ。」

もうすっかり大きくなったお腹を撫でると、その中で小さな命がもごもごと動くのが分かった。
すっかり慣れたその存在。それが何より愛しくて仕方がない。
クラウドと三日三晩頭を悩ませて決めた名前を呼ぶと、それに答えるように小さな彼は私のお腹を蹴った。





「おはよう、クラウド。」

「ナマエ。もう起きたのか。」

「もうって9時前だよ。」


キッチンに立つ後ろ姿に声を掛けると、大好きな彼がどこか焦ったように駆け寄ってくる。


「大事な身体なんだ。無理するな。」

「してないしてない。それに基礎体力もある方だし大丈夫だよ。
これでもクラウドと一緒に戦った私ですから。」

「それとこれとは話が違う。」


必死な彼が可笑しくて思わず笑って、すると彼は困ったような顔をしてから私をそっと抱き寄せた。





クラウドは、私が妊娠してすっかり変わった。

毎朝私より早く起きて、朝ごはんを作って、洗濯をする。
今まで私の仕事だったのは、今となってはほとんどを彼が代わりにやってくれるようになった。
仕事は早めに切り上げて、一緒に食べた夜ご飯のお皿は必ず洗ってくれる。
どれも頼んだ訳じゃないのに、まったくウチの旦那は出来たチョコボだ。


「今日は病院行ってくる。」


ナイフでカリカリのベーコンを切りながら呟くと、クラウドが頷いた。

「俺も行こう。」

「え、仕事は?」

「前もって休みにした。
俺だって、言われなくてもカレンダーの丸がどういう意味かくらい分かる。」


通院の日につけていた赤い印に、どうやら彼はとっくに気付いていたらしい。
……まあ確かに、1週間に1つマルが付いていたらさすがに気付くか。


「ありがとう。
今週は1人で行くつもりだったんだけど、やっぱ心強いわ。」


私のお皿を下げた彼は車の鍵を手に取ると、触れるだけのキスをする。


「頼ってくれ。あんたのための俺だ。」

「言うねぇ。」

「茶化すな。」


歯を磨いて、身なりを整えて、彼の手をとる。
そうして私たちは玄関から1歩踏み出した。



その時だった。



「うわっ、」


びゅうっと突風が私たちを横から殴る。
地面に倒れそうなのをクラウドが支えてくれて、しゃがみ込んだ私たちはゆっくり目を開けた。



「ナマエ、大丈夫か。」

「うん、ぜんぜん平……気……」


なんだ。これ。


周りを見渡す。
いつもと違う街の風景。
さっきまでところどころに浮かんでいた雲はすっかり無くなっている。


そして何より。


「なっ……お前、」

「あ、あれ……!?」


さっきまで大きく膨らんでいた私のお腹は、すっかり妊娠前に戻っていた。

しゃがんだ拍子に何かがあった形跡はない。でもさっきまでお腹の中にいた彼が突然消えてしまうなんて、そんなことありえない。

一体、どういうことだ。

変わった街と私の身体。
間違いなく、何かが私たちに起こっている。

改めて辺りを見ると、クラウドが何かを拾い上げた。



「……ナマエ、これを見てくれ。」

「ただの新聞……だけど。」


彼が手にしているのは、うちで定期購読している新聞。
朝のうちに新聞屋さんが投げ込んでくれたものだ。


「違う。ここだ。」


クラウドが指さした先には、10年後の日付が記されていた。






「いやぁ、まさか10年後にタイムスリップするなんて。小説か?」

「あんたは適応が早すぎるな。」

「だって夢とかドッキリだとかそういう類だとは考えずらいでしょ。
朝からずっと感じてた違和感はこれの予兆だったのかも。」


私とクラウドの調査の結果、どうやら私たちはぴったり10年後の世界に飛ばされてしまったらしい。
そうなれば街も天気も違うのも辻褄があうし、新聞紙の日付やいくつか番号が増えたモデルの車が通りを走っているのにも説明がつく。

なにより私の身体に起きた異変がなによりの証拠だった。



「でも、だったらあの子はどこに……」

「パパ!ママ!」


がちゃりと後ろで開いたドア。



そこには、クラウドとそっくりのブロンドの髪をはねさせた小さな男の子が立っていた。


「……今、あなた私たちの事を呼んだの?」

「うん!ほかにいないよ!」


彼が持つバッグから顔をのぞかせたポーチに書かれているのは、一生懸命に考えて、もう呼び慣れたあの名前。

あなたなの?とその小さな彼に尋ねると、彼はこくりと頷いた。



「声がきこえたんだ。今日はいつもとちがうパパとママがあいさつしに来るって。」

「そう……
そうなのね、あなたが……」



目の前の小さな彼に、手を伸ばす。
ありえない、突飛な事が起こっている。
でも、何故か彼の言葉はすとんと私の心に落ちてきた。

撫でた髪の手触りはまるで彼の父親そっくりで、この子が私たちの子供だと痛いほど伝えてくる。


くりくりの丸い目。唇の形はたぶん私に似ているけれど、でも高い鼻と整った輪郭につんつんの金髪。
あまりにクラウド似すぎる。

最高に可愛いな、うちの息子。


抱き上げれば、さっきまでのお腹とは比にならないくらいに重かった。
抱きしめると優しい匂いが香って、思わず首元に顔を埋めた。


「ママ、くすぐったい。」

ころころと笑う彼が、私の首にその細い腕を回して私の鼻にキスをする。

思わずにやけてしまって、また彼を強く抱き締めた。


「ママ。」

「ん、なあに?」


今度はほっぺにキスをした彼が、私にぎゅうっと抱きつく。


「オレ、ママのことが世界でいちばん大好き!」


擦り寄って私の首元をくすぐる髪にキスをして、きらきらと輝く笑顔を浮かべる頬に自分の頬を合わせた。


「ママもあなたが世界でいちばん大好きだよ!」


響く笑い声と、温かい体温。



そしてそれを邪魔するように、ずっと黙っていた元祖金髪がついに声を上げた。


「……おい。」


拗ねたように、息子を挟む形でクラウドが私たちを抱きしめる。
間にはさまった彼は嬉しそうにけらけらと笑った。


「クラウドは2番目。」

「おい。」


ゆっくりと彼を地面におろすと、その薄い両肩を膝をついたクラウドが掴んだ。


「いいか。お前は俺たちにとっていちばん大切なのは確かだ。
でも、いくら息子だからってナマエはやれない。」


悪いな。と得意げに鼻で笑うクラウドに、彼は首を傾げた。

「男のしっとは、みにくいぞ。」

「なっ……!!
お前、それ誰に、」

「パパが言ってた。」

「……」



びゅうっ。
強い風が、私たちと彼の間を縫うように吹き抜ける。
ここに来た時と同じ風。
そうか。もう、お別れか。


「またね。」

風の向こうに叫ぶと、彼は幸せそうに笑って頷いた。

「うん、またね。」


風が少しずつ強くなる。
それは地面の砂を巻き上げて、私たちは強く目を瞑った。








「……戻ってきた、のか?」

「うん、そうみたい。」


雲が浮かぶ空。
通りを走り抜けるのは、私たちが持っているものと同じモデルの車。

スマホを見れば、ちょうど私たちが家を出た時間と同じ時間が画面に表示されている。


重みを取り戻したお腹を優しく撫でると、その手にクラウドの手が重なる。


「早く、会いたいね。」

「ああ。そうだな。」


クラウドがふわりと笑って、そっと私にキスをした。

次にあなたに会うのが、待ちきれないよ。
パパも、ママも。



じわりと広がるお腹の痛みに、再会はそう遠くないかもしれないと、ぼんやりとそう思った。








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