相対屈折率




「この数字、読めますか?」
「……読めません」
 返して下さい、と手を伸ばすけれど、彼はにっこり笑って後ろへ手をやってしまう。私の手は宙を切る。滲んだ視界の中、彼はにこっと微笑んだらしい。……難儀な。
「読めたら、ご褒美あげますよ」
「裸眼では、読めません」
 彼がノートの中心部分に書いたらしい文字は薄く、行間の半分の大きさしかない。私には黒い滲んだ点にしか見えない。
「裸眼で、読めたら、ご褒美です」
 焦点を合わせようという無駄な努力のすえに眉間に皺が寄り、険しい表情をしているだろう私の視線にもめげず、彼は飄々と言ってのける。
「ご褒美はいりません。返して下さい」
「返しませーん」
 彼は巫山戯て、私の眼鏡を自分の顔に掛ける。そしてうわーと間の抜けた声を上げた。
「眼がっ、眼がいたーい! 頭痛が……!」
 ぱっと眼鏡を顔から離し、眉間を抑える。
「うう、やっぱりひどい……。目が悪い人ってほんとーに大変ですね」
「目が痛むのはあなたの視力がいいからです……」
 涙目になりながら私の眼鏡を恨めしげに見る彼に呆れる。
「いまだにこの強烈さには慣れません」
「もしも慣れてしまったら、それはあなたの視力が落ちたということです」
 けして楽しいことではない。私も楽しくはない。私の眼鏡のせいで、誰かの視力が落ちてしまうなんて、笑い話にもならない。
「……一度落ちたら、戻らないのが視力です。落としてはいけません」
 大事にして下さい、と切々と訴えてはいるけれど、はいはぁいとなおざりに返事を返す彼の耳に、果たしてどの程度届いているのかはわからない。
「戻らないなんて、困りますよねぇ。本当に戻らないのかな? そうだ、ゆりか。ブルーベリー食べましょう。僕が毎日買ってきてあげます」
「ブルーベリーだけ摂取しても視力回復はしません」
「そうなんですか? 残念ですね」
 ひどくがっかりした声を出された。彼は眼鏡を両手でいじる。あまりレンズには触ってほしくない。
「あー! これおもしろーい」
 ふいにいじっていた眼鏡をノートの上に向けて、彼は椅子から立ち上がった。
「ほら! 虫眼鏡みたいです」
「原理は同じです」
「書かれた文字が大きくなりますねえ。なるほど。ゆりかはいつも虫眼鏡を通して世界を見ていたんですねぇ」
「そうです」
「虫眼鏡のない世界は、どうです?」
 彼は眼鏡を逆さまにして、自分の顔の前に持ち上げた。それなら眼が眩まないことに気付いたのだろう。
「あらら、ゆりかが縮んでます」
「……輪郭がぼやけ、色がにじみ、混じってしまって判然としません」
 だから返して下さい、ともう一度手を差し出す。彼はす、とノートを差した。
「これ、読めましたか?」
 真っ白なノートの真ん中にぽつんと落とされた黒いシミだ。眼鏡を掛けなければ、私にはそれが何か意味を持つものなのかどうかすら判別できない。
「読めたら、ご褒美あげますよ」
「……いりません」
「ご褒美が何か聞いてからいらないって言って下さい」
 彼はぶすっとして、眼鏡のフレームを尖らせた唇に押し付ける。
 ……難儀だ。
 思い通りに行くまで、梃子でも動かない彼は、本当に難儀な人だ。
「……ご褒美とは、なんですか」
「うふふ。知りたいですかー?」
「教えてください」
「じゃあ教えてあげまーす」
 彼は嬉しそうに手を広げ、もったいぶって間を開けた。
「ゆりかに僕があげるご褒美は……」
 書かれた数字分の、くちづけです。
 彼の赤が滲んで、視界の中に広がる。何がそんなに楽しいのか、彼は笑みを深めている。
「欲しくないですか?」
 喉の奥を鳴らして笑う彼は無邪気な子供ではなく、獣の本性を覗かせる。世界とのつながりを絶たれた獲物を嬲って、悦んでいる。
「6です」
「へ?」
「ノートに書かれた数字は6です」
 私は答えながら立ち上がり、三度、手を伸ばした。
「ご褒美は結構です。眼鏡を返して下さい」
「えー! なんでわかったんですか? 絶対わからないと思ったのになぁ。もしかして僕と遊んでる間に視力が回復したんですか?」
 答えは正解だったのに、彼は眼鏡を握りしめたまま感心している。
「あなたが眼鏡をノートの上にかざしたときに読めたんです」
「ええ、あのとき? 抜け目ないなぁ、ゆりかは。でも、それじゃあ裸眼で読めたってわけじゃないんですね。それに不正解なのでご褒美はなしです、残念」
「まさか――書いた数字は9だった、と言うんですか?」
「はい、そうです」
 ほら、と彼は私の顔に眼鏡を掛けた。私は中指で眼鏡を押上げ、まっすぐに掛け直す。彼はようやく落ち着いて一息入れた私の目の前に、ノートを突きつけた。
「ノートの上はこっちで、下はこっちです。そして」
 言いながら、先ほどのページを開いて見せる。
「数字はこう書かれています」
「……9ですね」
「僕はそこまで意地悪じゃないですよ」
 そう言った彼の表情がようやくはっきりと捉えられる。声音だけでも悲しさが滲んでいたが、下げられた眉と淋しげな笑みも見えると、素直に申し訳なかったと思えた。
「9という数字が見えた瞬間、あなたの方からは6に見えるだろう、と裏を読んでしまいました。そこまで捻った問題ではなかったのですね」
「そーですよ。信用がないんですね、僕。悲しいです」
「疑ってすみません」
「いーですよ、許します」
 彼は偉そうに顎を上げる。
「今日はなんだかキスする気分でもなかったですしね。じゃ、さよなら」
 そしてあっさりと背を向けると、何事もなかったかのように出て行ってしまった。
 気分次第で正解にも不正解にもできる問題を出してくるところが、いかにも彼らしい。分厚い眼鏡がないと眉間に皺が寄るような女相手に、その気になるような日は来ないだろうけれど。
 もう彼が気まぐれを起こすことなどないよう、願いながらノートに書かれた数字を消しゴムで綺麗に消した。
 彼の筆圧は弱いようで、ほとんど痕跡は残らず、消しカスを払ってしまうとノートは空白を取り戻した。

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