「退けええぇえぇええぇー!!」 とっぷりと日もくれた、とある日の夜。 麻倉の屋敷の奥からは、少女の絶叫が上がっていた。 じたばたともがく少女の上には、彼女よりも頭二つ分背の高い狩衣姿の男がのしかかっている。 「だあぁあぁあもう!!酒くせぇんよ!この飲んだくれが!!寝るなら布団で寝ろ!!」 「ん…」 「ぎゃあぁあぁあぁああすりすりすんな抱きしめるなもっとのしかかるなぁあぁあぁあぁああ!!」 暴れる少女の手がぶつかり、葉王の頭から烏帽子が滑り落ちる。 けれど抱きまくらよろしく抱きしめられた少女に、そんなことを気遣う余裕はなかった。葉王の身長が高いことと、少女が一般よりもやや小柄なことが合間って、はっきり言って葉王にのしかかられるとかなり重い。それはそれは重い。 「あー…君ってこんなにちっちぇえしガリガリなのに、なんで抱き心地はいいのかなぁ」 不思議だなぁ。 そう呑気に呟く葉王の背中を、いい加減限界に近づいていた彼女はバシバシと叩いた。 そんな反応に葉王が渋々といった様子で腕を離す。すると、少女は直ぐさまその下から逃げ出した。まるで敵を威嚇する猫の様に葉王を睨みつける。潤んだ瞳と赤い頬で睨まれても、ちっとも怖くない。 むしろ。 「なんだか、その顔は少しそそるなぁ」 暴れたせいで僅かに着崩れた袂を握り、乱れた髪の間から潤んだ眼差しで射る様に睨まれるのは、些か禁欲的でそそられる。 「………は?」 そんな意図を持ったハオの言葉に、少女はあからさまに訝しげな顔をした。その表情は「さっぱり意味がわかりません」と、言葉よりも雄弁に語っている。無自覚な少女に笑いと呆れと僅かの愛らしさを感じながら、ハオは小さく口端を緩めた。初なその反応は、少女が今まで誰とも肌を重ねた事がないのだと暗に示している。それなのに、これだ。無自覚とは恐ろしいなぁと、葉王は他人事の様に思う。 「気をつけないと、悪い男に食べられちゃうかなぁ」 「いや、それお前だからな」 間髪入れずにざっくりと突っ込んだ少女に、葉王は一瞬驚いた様に瞳を見開く。けれど、すぐににっこりと笑みを浮かべてみせた。 途端、少女がぎくんと体を強張らせる。慌てて口元を押さえてももう遅い。ひくりと引き攣ったその顔は、何よりも雄弁に「やっちまった」と語っていた。 「へぇ、食べられてくれるんだ」 「いや、悪い男って方がだな!?」 「うん。その悪い男の僕に食べられてくれるんでしょう」 「ぎにゃあぁあぁあちょっまっいやだあぁあぁあ離せ変態ぃいぃいぃい!!」 案の定、食えない笑みを浮かべた葉王にじりじりと距離を詰められ、獲物を捕らえる様に抱き着かれる。 いよいよ身の危険を感じた少女は、葉王の腕の中でもがいた。そんな妻をのんびりと見つめながら、自称・夫はしみじみとした様子で、まるで他人事の様に呟くのである。 「うーん、異性を抱きしめてそんな断末魔みたいな悲鳴を上げられたのは初めてだよ。なんだろう、少し新鮮かもしれない」 「うわぁああぁあん本当に変態だぁあぁあぁ!?」 腕の中で完全に混乱している少女に、葉王はまた小さく微笑む。栄養失調気味な彼女の細腕で、それなりに筋肉のある葉王に力で敵うわけもない。それでもじたばたと足掻く様は、好ましかった。これで少女が葉王によって麻倉へと連れ帰られた時に全てを諦める様な人間だったなら、ここまで好ましくは思わなかっただろう。依然として諦める気などさっぱりない少女は若干やかましいものの、葉王にとって案外好ましい。 「あ、葉王さまおかえりなさーい。って、また姫さまといちゃいちゃしてたんですかー」 「……姫さま、声おおきい…。鞠、煩いの嫌い」 「おや、姫さん随分と色っぽい事になってるじゃないか。これはお邪魔だったかねぇ」 声のした方へ少女と葉王が顔を向ければ、三人の娘が部屋の戸の前に立っていた。各が身につけた朱と黄と藍の着物が、薄暗い部屋の中でも鮮やかにその場を彩る。 「ああ、ただいま」 「うわぁあぁああぁあ町!鞠!神流ぁあぁあ!!助けてくれぇえぇえ」 気配や足音もなく現れた娘達に、葉王は笑みを浮かべながら応え、少女は必死で手を伸ばした。 葉王がくすくすと笑いながら拘束を緩めた瞬間、全力で逃げ出した少女はかぶりつく勢いで町へと飛びついていく。町がそんな少女を歓声を上げながら受け止め、鞠はプルプルと震える彼女の頭を撫でた。彼女達は、葉王が少女の世話役兼護衛として側につけた。少々癖のある三人組だが、彼女は案外あっさりと馴染んだらしい。今は神流の背中に隠れ、葉王のことを睨みつけている。 そんな主人の妻に呆れ交じりの視線を投げ掛けた後で、神流は葉王へと眼差しを向けた。 「葉王さま、今日はもうお休みになられますか?」 「いいや、少し三条の姫のところに行ってくるよ」 神流の問いに、葉王はそうあっさりと言い放った。 ぴくりと、その言葉を聞いていた少女の肩が小さく跳ねる。 葉王が夜中にこうして出掛けていくのは、毎度女絡みだ。そう、ここ暫くで少女も朧に理解していた。なにより、葉王はそれを隠そうともしないのである。 その暫し後、彼女の自称・夫は牛車に乗り込み出かけて行った。 「……また女遊びか」 よくまぁ、飽きもせず。 葉王の乗り込んだ牛車を見送りつつ、彼女は飽きれ混じりに嘆息した。 置き去りのお姫様 夜が明けるまで、まだ長い。 === 2013.05.12 top |