猫ごっこ 3
外へ一歩踏み出ると、そこには昨日と同じように群青色の青空が広がっていた。
ただ昨日と違うのは、以前より大きくて高く感じることだ。
といっても、空が変わったわけではない。
俺の方が、変わったのだ。
そう。
俺が、小さな猫の姿になってしまったからだ。
日光が思った以上に明るくて、そのあまりの眩しさに反射的に瞳孔が小さくなる。
あぁ俺は本当に猫になってしまったんだなと思った。
それに猫は夜行性動物で、どちらかというと日中の活動は苦手だ。
なんとなく身体もだるいし、やる気もなかなか起きてこないような気がした。
…決して更年期だとか、そういうわけではい。断じて。
更には全身が真っ黒なせいで、暑い。
太陽の熱が容赦なく自身の体毛に集まり、ジリジリと焦がしていく。
まったく、この身体は不便なことばかりだ。
解放された外の空間に躍り出てみたものの、俄然やる気の出ない俺はすぐ近くの木蔭へと移った。
木の根っこの横の草むらに、直にゴロンと寝転がる。
ふかふかの土の感触や青い草の匂い、そよそよと髭を揺らす風が気持ちいい。
そうか。猫になってから気づいたことは悪いことだけでもないんだな。
あれこれと猫の生活を分析していると、1本隣の木の茂みからガサガサと物音がした。
風の音にしては不自然な音。
『人、か…?見つかったら面倒だな』
様子を見るために、木の幹の陰へと身を隠す。
休みの日にこんなところで、一体誰だ?
すぐ近くにはナナリーが住んでいるというのに、まさか不審者じゃないだろうな。
そう思って覗き見ると、何かを探しているらしい後ろ姿がちらりと見えた。
顔は見えないが、身なりからして男のようだ。
どう見ても、怪しい奴だ。
俺は猫になったとしても一兄として、大事な妹ナナリーを魔の手から守らなくてはいけない。
そう、今こそこの出し入れ自由の小さな武器で戦う時が来たのだ。
肉球をぷにぷにして垣間見えるだけの、ただのお飾りの爪ではないことを見せてやる!
元々肉弾戦など俺のジャンルではないし、恐らく猫になったとはいえ、基本的な身体能力はさして上がったわけではないのだろう。
だが、相手が油断しているところに鋭い一撃をぶちこんで先制攻撃をいただけば、うまくいけば向こうも怯んで逃げ出すかもしれない。
俺は静かに男の背後に忍び寄った。
じりじりと距離をある程度詰め寄ったところで、今だ!と勢いよく飛びかかった。
俺の体が宙に浮いたその瞬間。
目の前の男が、急に顔を上げて振り返った。
『……え?』
――スザ、ク?
なんでこんなところに?
不審者かと思っていた男は、スザクだった。
突然のことに俺は頭の中が真っ白になり、空中で体が硬直する。
「へ、猫?……って、うわあああぁぁっ!?」
俺の攻撃は相手に届くことなく、そのままびたんとスザクの身体に体当たりする形となった。
当たり前のように俺はスザクの鍛えられた筋肉に弾き飛ばされ、そのまま地面へと崩れ落ちる。
「ご…ごめん、びっくりしちゃって。…大丈夫?」
ぶつかったのは俺の方なのに、スザクは怒ることもせず俺の心配をしてくれる。
大丈夫、と倒れた俺にそっと手を差し出してくれた。
やっぱり、スザクは優しい。
両手で脇のところを抱き上げられて、俺は少しだけ鼓動が速くなるのを感じた。
猫になっても、スザクを好きな気持ちは変わらない。
同時に、好きな相手のことを不審者だと勘違いしてしまったことを恥ずかしく思った。
「君、見ない顔だね。もしかして、アーサーのお友達かな?」
すぐ目の前にはニコニコと微笑むスザクの顔。
本来ならこの距離にドキドキして喜んでいるはずなのに、なぜか胸の奥がきゅうっとなる。
また、アーサーか…。
彼の口から何度も出てくる名前。
そもそもの今回の事件の元凶の元凶ともいえるべき存在でもある。
「アーサーに猫缶あげようと思って、今探していたんだけど…。君、どこにいるか知らないかな?」
なるほど。それでこんなところでうろうろしていたのか。
残念だったな、今日はまだ姿を見ていないし、たとえ知っていたとしてもお前には教えん!
ふん、と否定の意味で顔をそっぽへ向けた。
「そっか、知らないか…」
普段空気を読めないスザクにしては珍しく猫の気持ちを読んだようだ。
言葉が通じないので言いたいことが伝わったことは嬉しいが、猫にだけ敏感になられてもなんだか複雑な気分だ。
お前が鈍感なせいで、俺はいつも甘酸っぱい思いをしているというのに…。
スザクが自分の頭より高く持ち上げていた俺を、地面にゆっくりと下ろす。
それからその場にしゃがみこんで、今度は猫と同じくらいの目線に合わせて俺のことをじっと見た。
「君はどこの子なんだろう?毛並みが綺麗だから、誰かに飼われているのかな」
綺麗、とスザクに褒められて、嬉しいのが半分、恥ずかしいのが半分。
褒められたのは猫の毛並みだけだが。
「うーん。でも首輪とかしていないし、やっぱり野良かなぁ?」
すっ、と俺の喉元にスザクのごつごつした指が掠める。
撫でられたようなその感触に、思わず喉がゴロゴロと鳴ってしまう。
同時に、スザクの手も止まる。
しまった、気持ち良くてつい…。
まだ慣れない猫の本能に戸惑いつつも、ちらりとスザクの方を見上げてみると。
彼はただでさえ大きな瞳をくりくりと輝かせていた。
『スザク…?』
「……すごい」
『え?』
「僕、猫に嫌われなかったの…初めてだ!」
拳をぎゅっと握って、スザクは興奮気味にそう叫んだ。
猫に懐かれるのが、そこまで感動することなのか?
まぁ普段あれだけの猛アタックが空振りしているところを見る限り、わからなくもないが。
「ねぇ、もう少しだけ…触ってもいい、かな?」
今度は遠慮しがちに尋ねてくる。
なんでいちいち確認してくる必要があるんだ。
触りたければ勝手にそうすればいいだろう。
俺に聞くな、ばか!
拒絶してこないことがわかると、スザクの手が俺の頭を包み込み、不器用な手つきでくしゃくしゃと動かされる。
俺がもう一度気持ちよさそうに喉を鳴らし始めると、スザクはえへへと笑って口元をほころばせた。
スザクの笑顔。
俺がずっと独占したかったものが今、すぐ手の届く距離にある。
今まで自分以外のものに向けられていたそれが、ようやく自分に向けられている。
自分が猫だから好かれているんだと思うと、胸が苦しくなるけれど。
それでも、欲しいものは手に入れたかった。
少しの間でもいい、好きな人の傍に居たいと思うのは、それは罪なのだろうか。
うっすらと目を細めて、顎を突き出して「もっと撫でろ」と催促する。
はいはい、と命令を聞くかのようにスザクが優しく俺に触れてくる。
今の俺は、ルルーシュじゃない。
少なくとも、スザクの目にはそう映っている。
普段の俺だったら絶対こんな風にスザクに甘えることはできない。
今ならどんなにベタベタしても、嫌われることはないんだ。
あぁ。俺はなんてあさましい生き物だ。
さっきまで戻れなかったらどうしようとか困っていたくせに。
もう少しこのままでもいいかなんて。
俺はずるい。俺は、汚い。
こんな俺には、本当はスザクの隣に並ぶことも許されないような気がして。
『好きになって、ごめん…』
相手に聞こえないことをいいことに、俺はスザクの足元で一人呟く。
にゃあ、と少し枯れた声だけが、喉を通った。
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