成熟について



――“成熟とは足るを知ること”。

これは誰かが言った、昔の言葉。不意に思いだした。

口に出ていたらしい。「何のこと?」と黒目がちな瞳がもの問いたげに瞬いた。





「パンが無ければ、ホットケーキを食べれば良いじゃない」

ちなみにこれは月末の冷蔵庫の惨状を目の辺りにして思わず呟いた俺の台詞。

それに対して「ふざけんな、テメェ」というのがコウの台詞だ。まあ、もっともだとは思う。人はパンのみにて生きるにあらず。ホットケーキだけで生きられるはずがない。意味が違うって? それはそうだろう。もちろん。

「でもコウ。これが現実だ。冷蔵庫の中は見事に空っぽ。あるのは卵が一個。悲しいかな、牛乳のストックはない」
「…………チッ」
「幸いなことにホットケーキミックスは水でもホットケーキが作れる。良かったな、コウ。前に大量に買い込んでおいて」
「こんなモンを買い込んでおくぐらいなら、もっと別のモンを…………分ぁったよ。ホットケーキだな」
「ああ、だな」
「水で溶いた薄いヤツな」
「な。あーあ、結局月末のお決まりパターンだよ」
「言うなバカ」

――パンが無ければ、ホットケーキを食べれば良いじゃない。

名言とも上手い言い回しとも思わない。ただもう、これが現実なのだから。悲しい、さもしいことではあるけれど。





捨てる神あれば、拾う神あり。
屋上で美奈子の姿を見かけた瞬間、頭に浮かんだのは、そんな文句だ。
例の、誰のことも傷つけない、何があろうと許してしまいそうな笑顔を浮かべて美奈子は弁当に群がるピラニアたちにまでおかずを分け与えている。少なくなっていく弁当の中身を思いながら、子どもの頃に読んだ童話を思い出していた。自分の体の宝石を誰かれ構わず分け与えた王子。王子の最期と美奈子の笑顔が被さって、ゾッとする。美奈子に近づいて声をかけた。

「美奈子」
「あ、琉夏くん」

美奈子が顔を上げて軽く手を振る。ほがらかな笑顔とは逆に周りのピラニアたちの笑顔が一斉に強張るのが分かった。桜井弟効果ってヤツだ。

お礼もそこそこにそそくさと立ち去るヤツらに、美奈子はやっぱり笑顔を向ける。その笑顔を天使の笑顔だって誰かが言った。何も知らないくせにと思う俺は悔しいくらいに子どもの頃をまだ引きずっている。

「ごめん、遅くなった」
「ううん」

美奈子は頭を振る。腕時計を確認して「まだ昼休みはたっぷり残ってるよ」と言う。そういう問題じゃあ、無いんだけどね。美奈子は気づかない。

「弁当、残ってる?」
「うん、残ってるよ」

美奈子はトートバックから、“女の子のものにしては少し大きめで恥かしい”らしい弁当箱を取り出してみせた。

「はい、これは琉夏くんの分」

手つかずの弁当を受け取りながら訊いた。

「おまえの分は?」

本当は聞かなくたって分かることだ。美奈子の分は散々に食い荒らされて残り少ない。

「わたしのは、こっち。ごめんね、先に食べ始めちゃった」

そう言って例の“天使みたいな”笑顔で笑うから、堪らない気分になる。どうして、おまえはそうなんだろう。どうして、おまえらは、そうなんだろう。自分のことなんか二の次で、いつもいつも、他人に、こんな俺に分け与えて、それで満足みたいに笑っている。俺もそういう風に生きられたら胸のつかえがとれるのかな。でも、無理だ。抱え込んだ喪失感が大きすぎて、手放せそうにない。本当は、手を離すべきなのに。

「琉夏くん、どうかしたの?」
「ん? 何が?」
「悲しそうな顔、してる」

そういう美奈子の方がよほど悲しい顔をしていた。笑顔を向けると、安心したのか、美奈子も少し微笑んだ。泣きだしそうに潤んだ黒目がちな目。あの頃と変わらない目だ。
美奈子は変わらない。どうして変わらないんだろう。あの教会の影で、3人でかくれんぼをしていたあの頃の心配そうな顔と、目の前の心細そうな笑顔が重なる。誰にも気づかれていないと思っていたし、何より自分でも気づいていなかったのにどうして美奈子は気付いたんだろう。事情なんて、何も知らなかったはずなのに。

「何でもないよ」
「……ほんとう?」
「ホント。めちゃくちゃ腹が減ってただけ」

言って、笑いかけたら、美奈子は半信半疑そうだったけど、笑い返してくれた。

「エビフライ入ってる?」
「入ってるよ」
「オニギリは?」
「たらこだよ、もちろん」

美奈子はわざと胸を張って得意げに言ってみせる。おどけたような、そんな仕草を見ていると、胸の辺りが温かくなると同時に、痛んだ。優しい人間の優しさに付け込んでいる。俺とあいつらと、一体どこが違うんだろう。

不意に思いだした。

「“成熟とは、足るを知ること”」
「? 何のこと?」
「何でもない、こっちの話」

いつか、どこかで読んだ本に書いてあったんだと思う。急に思いだした。
それにしても、成熟がそういうものであるなら、俺はまだ大人になれないんだろうと思う。普段、あんなに早く大人になりたいと仕切りに口にしているにも関わらず。
誘っても絶対に屋上には来ようとしないコウも、折角作った弁当を他人に取られてしまっても笑っている美奈子も、足るを知っていて、つまりはもう“成熟”しているのかもしれない。俺とは違って。

――“成熟”なんて、遠すぎる。

どうしてか、置いてきぼりを食らった気分でいる。

空を見ると遠く、鳥が飛んでいた。あの鳥が燕じゃないといい。燕であって堪るものかと思う。



2012.08.28(優しい人たちのはなし)

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