03


柔らかな朝日に照らされる景色が白く霞む。しばらくの間放たれていた眩い光はようやく治まるように消え、景色を霞ませるほど大量の土煙を濛々と立ち昇らせていた。

その静けさに雲母と爆発の衝撃を耐えていた珊瑚がそっと顔を上げる。そうして見えた景色には、あの巨大な奈落の肉片すら残されていない平穏が窺えた。


「やったか…?」
「ついに奈落を倒したのか!?」


珊瑚が呟き、続くよう期待に満ちた声を上げる七宝が彩音とかごめと犬夜叉の元へ駆けてくる。
しかしその言葉へ肯定の声を返す者はいない。未だ分からないのだ、姿の見えない奈落が本当に消滅したのかどうか。

だからこそ、弥勒はすぐに右手の数珠を手にした。封印である数珠を解き、風穴を覆う手甲をめくる。


「!?」


思わず目を見張った。手のひらを晒した瞬間そこへ引き寄せられる風が生まれたが、それは弥勒の髪を大きく揺らす程度のもの。それどころかそこに大きく穿たれていた穴はみるみるうちに小さく縮んでいったのだ。


「………ふー…」


やがて完全に塞がる様子を見届けた弥勒はまるで力が抜けたかのように倒木へ腰を落とす。それに気が付いた七宝が不思議そうな顔を見せると、すぐさま弥勒の傍へ駆け寄っていった。


「どうした? 弥勒」
「七宝…ほれ…」
「う、うわ〜〜っ!!」


目の前に突き出された右手に大きく目を見開いた七宝は慌てて逃げ惑い、すぐさま倒木の穴の中へもぐり込んでしまう。しかし弥勒はそんな姿に一度も振り返ることなく、ただ呆然と空を見上げたまま「よく見ろ、七宝…」と気の抜けた声で言いやった。
それに大きく目を瞬かせた七宝は言われた通り右手を見つめ、途端に「ああ〜〜っ!!」と喉が張り裂けんばかりの大声を上げる。


「「「「風穴が消えたあ!?」」」」


七宝の声に誘われ駆け寄ってきた犬夜叉たちからも驚愕と歓喜の声が大きく上がる。それには雲母も同じ思いを抱いたのか、激しく炎を上げながら変化を解いては嬉しそうに目を細めながら小さな声を上げていた。

そう、一同が覗き込んだ手のひらには穴も窪みもなにひとつない。
それこそが、奈落の消滅を物語っていた――



* * *




赤く、紅く、深く染め尽くされる富士の山。麓に広がる森は不穏な闇を孕みながらも差し込む光に照らされ、却って不気味さを駆り立てるわずかな明るみを残していた。


「神無、こんなところになにがあるって言うんだよ…」


人気のない静かなこの森を歩く神楽から呆れを含んだ声が漏らされる。それは道なき道を迷いなく進む姉、神無へと向けられたものだ。

その声に足を止めた神無はわずかに振り返り、神楽へ問いかける。


「神楽…あなたの望み…なに?」
「そんなの決まってるだろ。自由さ! あたしは風なんだ。…ん? おい…」


広げた扇を振いながら説明してみせるも神無は構うことなく歩みを進めてしまう。決して早くはない歩みだが徐々に距離を開く神無は以後も足を止めることなく、振り返ることもしないまま歩み続けていく。


「望み…叶えてくれる…」
「分からないのかい!? あたしはもう自由を手に入れたんだっ。奈落が死んでくれたおかげでね」


なにかに縋ろうとする神無へ強く反論の声を上げる。だが、それでもやはり彼女の足は止まらない。その様子に呆れながらもどこか観念した様子を見せる神楽は扇を閉じ、やがて静かに神無のあとを追い始めた。



* * *




「あ〜…弱った。富士の山はどっちじゃ…こんなに暗くなっては見当もつかぬ…」


天高くに鋭利な三日月が浮かぶ頃、困ったように表情を歪めながら茂みを掻き分ける青年の姿があった。包みを背負う青年は富士山を捜しているようだが、街灯もないこの時代では太陽を失った今の時刻、周囲をどれだけ見渡してもそれを見つけることができない。

先を分からなくする闇に途方に暮れそうになった、そんな時――


「んー、きーもちいい〜っ」


茂みから視線を巡らせると同時に聞こえた声に「…ん?」と微かな声を漏らして視線を落とす。

どうやら青年が聞いたのはかごめの声のよう。見れば彼女は彩音と珊瑚と七宝の四人で温泉に浸かっており、畳んだ服の傍に置いたキャンプ用のランタンに淡く照らされながらゆっくりとした時間を堪能していた。


「こんなにゆっくりできるのって、久しぶりね…」
「そうだね…最近は特に、奈落を追い詰めるのに必死だったし…」


かごめの言葉に彩音は両手でお湯を掬いながらこの数日のことを思い返した。手の中のお湯がすぐに流れ落ちていくように、あっという間だった日々。終わってしまえば案外呆気なかったとさえ思えてくるような不思議な感覚があった。

これで怯えや憎しみを抱く日々は終わるだろう。そう考えた時、重く黙り込んでいた珊瑚が「ねえ、二人とも…」とどこか不安げな声を掛けてきた。


「二人は、これからどうするの?」
「…あたし? あたしはやっぱり、四魂のかけらを集めなくちゃ…奈落の持ってたかけら見つからなかったし…」
「私も…かけらのこととか、美琴さんのことがあるからね…」


“まだ帰れないや”、そう笑い掛けようとしたのだが、開いた口からその言葉を出すことはできなかった。

――“帰る”って、どこへ?

例えばかけらを全て集め終えて、美琴を目覚めさせられたとして…そのあとは一体どうなるのだろう。元いた現代からは存在自体が消されている今、帰るべき場所などどこにあるというのか。

そもそもこの体こそ美琴のものだ。もし目覚めさせた時には当然返さなければならない。そうなれば自分は、彩音という存在は…


(…消えちゃう、のかな…)


そんな思いが滲むように脳裏へ浮かんだ途端、温かなお湯に包まれているにも関わらず体はヒヤリと悪寒を走らせる。

そんな時、珊瑚が不意に立ち上がったかと思えば外の景色を眺めるようにこちらへ背を向けて空を仰いだ。その一瞬の間、彼女の濡れた髪が大きく揺れて背中を晒す。
それはすぐにゆったりと纏まっていく髪に隠されてしまったが、彩音たちはしかと見ていた。彼女の綺麗な背中に、似合わぬ深い傷跡があることを。


「…ねえ珊瑚。琥珀くんのこと、みんなで探そうね」


あの傷をつけたのは珊瑚の弟である琥珀だ。それを思い、彩音は彼女に告げる。

琥珀は奈落に操られて家族や一族を手に掛け、そのまま都合よく奈落に操られていた。だが、もうこの世に奈落はいない。琥珀を縛る者は、もういないのだ。


「奈落が死んで、どうしているか…」


ほんのわずかに難しい顔を見せた珊瑚はもう一度空を仰ぎ、ぽつりと呟くように声を漏らす。

どこにいるのか、なにをしているのかも分からない。生きているのか、死んでいるのかさえも。そんな不安を滲ませる珊瑚であったが、すぐにかごめたちが立ち上がって不安を吹き飛ばすように明るい声を上げた。


「きっと大丈夫よ!」
「うん。四魂のかけらを追えば、いつか絶対琥珀くんに辿り着くからっ」
「珊瑚にはおらたちが付いてるぞ!」


口々に思いを述べる仲間たちへ、珊瑚はそっと振り返る。そうして温かな言葉を胸にしまうよう手を添えながら、「うん、ありがとう…」と弱々しくも柔らかな声色で言葉を返した。
その様子に彩音たちは頼もしい笑顔を浮かべてみせる。

――そんな彼女たちの姿を、いつしか少しばかり近付いていた青年が木陰から見惚れるように眺めていた。


「ほあ〜…天女じゃ…天女が湯浴みをしておる…」
「もし、そこのお方…」


頬を赤くして見つめていた最中に突然投げかけられた声。思わず「いっ!?」と大きな声を上げてしまい、それを耳にした珊瑚たちが人の気配に気付いたようであった。

しかし青年の後ろから近付く弥勒はそれに気が付かず、訝しむような表情を見せながら怪しげな青年へと歩み寄っていく。


「このようなところでなにを…あいたっ!」


青年を問い詰めようとしたその瞬間、突如勢いよく飛んできた丸太が弥勒の顔面へ直撃する。その衝撃にふらりと倒れ込んだ弥勒は斜面を滑り落ち、ついには珊瑚たちの目の前へスライディングで現れる形となってしまった。
おかげで珊瑚の冷たい視線が強く注がれる。


「やっぱりあんたか、このスケベ法師っ」
「誤解ですっ。私はお三方を危険から守ろうと見張りを…」
「お前が一番危険だ!」
「待て珊瑚っ。早まるな!」


必死の弁解も虚しく、すぐさま逃げようとした弥勒の背中へ巨大な岩が投げつけられる。おかげでズーン、とものすごい音が響き渡り、それを聞き付けた別の人物が血相を変えて駆け出した。


「なんだ今の音はっ」


勢いよく鉄砕牙を引き抜きながら向かってくる犬夜叉。それに気が付いた途端かごめが悲鳴を上げ、同様に顔を真っ赤にした彩音が思いっきり息を吸い込んだ。


「ば、バカ夜叉! おすわりいっ!!」
「ふぎゃーっっ」


大きく飛び跳ねたところに突如放たれる言霊。それを受けた犬夜叉は勢いよく温泉へ叩き付けられ、ザーン、と派手に水しぶきを上げるほど激しく沈められてしまった。
その直後にはあっち行け、見ないで、このバカなど数々の罵声が飛び交いまくり、身を隠していた青年はそれを横目に「くわばらくわばら…」と唱えながらその場をこっそり立ち去っていった。








――その頃、薄く水が広がる地面を静かに歩く神無と神楽がいた。
月明かりが差し込むそこにいくつもの波紋を広げながら小さな歩幅で歩いていく神無。それを追うように歩き続ける神楽はようやく足を止めた神無に並んで、眼前に備えられた小さな社に眉をひそめた。


「鏡…?」
「“逢ふことも…涙に浮かぶ、わが身には…死なぬ薬も…なににかはせむ…”」


神無が小さな声で詠うのを聞き、供えられた鏡の前へ歩みを寄せた神楽はその鏡を覗き込む。どうやら色は違えど神無の鏡と同じ形をしているそれは長く放置されていたようで鏡面が白くくすんでいる。
神楽がそれを袖で軽く拭うと、そこには正面に立つ神無の鏡が映し出された。

神無の鏡の中に輝く月。それは現在と同様の三日月であったが、まるで時を進めたよう瞬く間に丸く満ちていく。すると月は神無の鏡へ真っ直ぐに光の線を伸ばし、反射させることによって社の中の鏡へと眩い光を注ぎ込んだ。

まるで自ら発光しているかのように強い光を放つ鏡に神楽が目を細めて腕を持ち上げる。その時――


「奈落が死んだか…」
「!?」
「あとは、この世に生きとし生けるもの全て消し、永遠(とわ)の夜を我が手にせん…」


突如聞き馴染みのない女の声が響かされる。やがて光が大気へ馴染むように消えていき白く輝いていた鏡が光を失うと、そこには紫色に光る線で描かれた五芒星と一人の見知らぬ女の姿が映し出されていた。


「誰だい、あんた?」
「わらわは天空の姫…神久夜(かぐや)…」


神楽の問いにそう名乗った女。彼女は神無に鏡を持たせ、ここからの移動を指示した。
ただならぬ気配の女に訝しむ神楽であったが、神無が素直に従ううえ神久夜という女が何者であるかを見極めるためにも口を挟むことなくついて行く。

そうして導かれたのは、暗闇に沈む大きな湖であった。
神楽たちがそこへ辿り着くに伴い、なにやら地響きのような音が聞こえ水面が荒れ始める。すると水面下からなにかが迫り上がり、激しい音を立てながら掬い上げた水を滝のように落としていく。

やがてそれが治まった頃、湖の中央には荘厳な屋敷が全容を露わにしていた。それはすでにいくつもの明かりが灯り、今しがた水底から現れたとは思えないほどの雰囲気を漂わせている。


「あれぞ、合わせ鏡の夢幻城…神楽よ。お前の自由など、束の間の幻にすぎぬ…」
「ふん…だったらどうだって言うのさ」
「見せてやろう、永遠の自由…叶えてやろう、お前の願い…」
「………」


まるで流れるように、誘うように言葉を紡ぐ神久夜。それに視線だけを振り返らせていた神楽へゴオォォ…と風が吹き付けると、神楽はその視線をもう一度湖に広がる屋敷へと静かに向け直した。


「神無…暇潰しくらいにはなりそうかい?」

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