02


「どいつもこいつもたるんでやがるっ。もう我慢ならねえ!」


外の状況にとうとう痺れを切らした犬夜叉が鉄砕牙を強く握りしめるまま腰を上げてしまう。
だがその姿は依然として人間のまま。夜明けを迎えていない彼の体はまだ変化の予兆さえ見せていなかった。

それでも構うことなく奈落の元へ向かおうとする犬夜叉の姿に唯一残っていた冥加がひどく慌て、すぐさま犬夜叉を説得し止めようと床の隙間から這い上がってくる。


「お待ちくだされ。今ここで…」
「うるせえ!」
「あっ」


咄嗟に両手を広げ止めに入るものの、彼はとても小さなノミの妖怪。犬夜叉の視界に入れられることもなくぷちっ、と踏み潰されてしまっては、吐き捨てられたガムのように床にへばりついたまま「のみつぶれえ…」と弱々しい声を漏らすことしかできなかった。

このままでは犬夜叉が自身の弱みを奈落に晒してしまう。そう思われたその時、突如かごめの大きな悲鳴が響いた。それと同時に続くのは行動を同じくする彩音の声。


「いやーーっ! こっち来るなバカあーっ!!」
「! 彩音っ!」


ただならぬ様子に即時踵を返しては再び壁の裂け目から外の様子を覗き込む。するとそこに見えたのは七宝に乗ったかごめと彩音が大蜘蛛の奈落に迫られている姿。どうやら彼女たちが狙われているようだが、逃げることに必死な七宝は真っ直ぐにこの社へと向かってくるではないか。
それに気が付いた犬夜叉ははっと目を見張るとともにたまらず鉄砕牙を強く握りしめる。

その直後、目の前まで迫った七宝が社を避けるように急上昇して衝突を回避してみせたのだが、凄まじい勢いでそれを追う奈落は急に止まれるはずもなく――ドオン、という爆発音にも似た激しい音を轟かせるほどの勢いで目前の社へと飛び込んだ。
それによりすでに廃墟と化していた社は呆気なく砕け散り、激しい水しぶきや土煙を濛々と上げるほど激しく崩壊してしまう。

――その様子を、上空の彩音たちは見逃さなかった。
だからこそ息を飲んだ。そこにはまだ犬夜叉がいたはずだと。夜明けを迎えていない今、人間のままでいる犬夜叉ではあの衝撃に耐えられるはずがないと――


「いや…犬夜叉っ…犬夜叉あああっ!」


気が付けば喉が張り裂けんばかりに強く叫んでいた。それだけに留まらず咄嗟に飛び降りようとしたその時――突如視界に柔らかく温かな光が差し込んでくる。
それにはっと目を見張り振り返れば、山の陰から溢れ出す光が徐々にその量を増していく様子が見てとれた。まるで世界を染めていくように、色を変えていくようにその光が広がりを見せる。その様を目で追っていると、同様に照らされた眼下の煙が徐々にその身を薄くさせ始めていることに気が付いた。

そこに浮かぶ、ひとつの影。
堂々と立ちはだかるその影は、次第に切れ間を見せる煙の中に白銀の髪と同色の獣の耳を小さく揺らしてみせた。


「あれは…」
「朔が明けたっ」
「間に合った!」


待ち望んだその姿に弥勒、七宝、かごめと口々に安堵の声を上げながら表情を明るくさせる。同様に「犬夜叉っ…」と小さな声を漏らした彩音がわずかに潤む瞳で見つめていれば、彼は本来の半妖姿で立ち込める煙を斬り裂くように鉄砕牙を構えた。


「待たせたな。奈落!!」


意気揚々と豪快に告げる犬夜叉。その表情は口角を上げ、いつになく自信に満ち溢れた強気なものであった。
そしてその自信を体現するかのように強く地を蹴り勢いよく駆けていく。


「てめえの相手はこのおれだあ!」


そう声を上げながら奈落への距離を縮めていけば、雄叫びのような声を上げながら向き直ってくる奈落が深く赤い双眼で迫りくる彼を見据える。それはまるで、奈落さえも犬夜叉を待ち望んでいたかのように。

そんな奈落を前に、犬夜叉の髪の先にしがみついていた冥加が先ほどまでとは打って変わって鼓舞するような声を上げた。


「今です犬夜叉さまっ。鉄砕牙で結界を斬り裂くのです! では、がみょ〜ん」


それだけを言い残すと冥加はやはり呆気なくその手を放して逃げてしまう。しかしそれはもはや恒例となった逃亡芸。待ち望んだ(かたき)を前にした犬夜叉はそれに構うことなく、足を止めると同時に彼の言葉通り赤く染めた鉄砕牙を大きく振りかぶった。


「てやあああっ!」


雄叫びを上げながら大気を薙ぐように鉄砕牙を振り下ろす。その瞬間に放たれた眩い衝撃波が奈落へ迫るとその周囲に張られた透明な結界が歪みを見せ始め、やがてそれは衝撃波に斬り裂かれるよう無残に破れていった。


「結界が消えてくわ」
「おお、さすがは犬夜叉じゃっ」
「これなら私たちも戦えるね」


上空を旋回しながら犬夜叉の勇姿を見守っていたかごめたちは揃って感嘆の声を上げ、彩音は意気込むように燐蒼牙を握り締める。すると同様の思いを抱いたのだろう、同じく宙を旋回していた珊瑚たちが好機と言わんばかりに奈落の背後へと回り始めた。


「法師さま、右を頼むよ!」
「承知しました!」


弥勒の返事を聞くのが早いか、珊瑚は即座に奈落の左脚を狙って飛来骨を放ってみせる。そして自分たちは奈落の右側へと潜り込み、飛来骨が容赦なく左脚を全て薙いでいくのに続いて弥勒は錫杖を振るい次々と右脚を叩き切っていった。

直後、奈落は自身の脚という支えを失い、無様にも胴体から湖へ叩き付けられるようにその身を落としてしまう。
その光景に犬夜叉は気を引き締めるようわずかに表情を強張らせた。


「犬夜叉っ」


不意に呼びかけた彩音がかごめと七宝とともに犬夜叉の背後へ降り立つ。だが犬夜叉はそれに振り返ることなく、睨むように奈落を見据えるまま隣に並び立つ彩音へと問いかけた。


「彩音、四魂のかけらはどこだ!?」
「かけら…あった、あそこ! 背中の中心!」


目を凝らした先に確かな煌めきを見つけてはすぐさまそこを指し示す。すると犬夜叉から「よし」と決意の声が小さくも確かに上がった。

仕留めるならば脚を失い身動きが封じられている今しかないだろう。それを胸に勢いよく駆け出した犬夜叉は陸の際で強く地を蹴り、奈落の背中目掛けて高く大きく跳び上がった。


「食らえーーーっ!!」


落下の勢いを乗せ、両手で握り締めた鉄砕牙の切っ先を奈落の背中へ向ける。威嚇するように声を上げる奈落に構わず、全ての力を込めて彩音に示された背中の中央へ鉄砕牙を深々と突き立ててみせた。

――だがその瞬間、鉄砕牙の下で奈落の背中がボコッ、と音を立てて大きく盛り上がる。かと思えばそれは突如爆発し、多くの瘴気を撒き散らすとともにその風圧で犬夜叉の体を吹き飛ばしてしまった。


「くっ」


元の陸地へと押し返された犬夜叉は滑るようにその身を留まらせ、続くように飛んでくる大きな肉塊を断ち切ってみせる。それが地面にボトッ、と音を立てて落ちると、どういうわけかそれらは自ら身を寄せ合うように動きだし結合していく。

犬夜叉はそれに気が付くことなく次々と飛んでくる肉塊を斬り続けていたが、やがて足元で深緑色の触手が伸び始めている姿を目にした。


「犬夜叉っ!」
「危ねえっ。どいてろ!」
「痛っ」
「きゃっ!」


加勢のために駆け寄った彩音であったがその身はすぐさま犬夜叉に突き飛ばされ、続いて近付いていたかごめにぶつかってしまう。おかげで二人ともその場に尻餅をつくように倒れ込み、ともにむっ、とした表情を犬夜叉へ向けた。


「なにするの…よ!?」
「え゙っ!?」


揃って文句を言ってやろうとした二人であったが、その声は目を丸く見開くとともに彼方へすっ飛んでしまう。
それもそのはずだ。向き直った先の犬夜叉が、あっという間に深緑色をした大量の触手に取り囲まれていたのだから。


「犬夜叉。我が肉体の一部となれ」


触手や肉塊ばかりで姿の見えない奈落の声が纏わりつくように低くどこからともなく響いてくる。それとともに触手が犬夜叉の体を包み込まんと蠢き這いずる音を立てる中、その危機にすぐさま立ち向かったのは七宝であった。


「犬夜叉っ。うわあっ!」


加勢するべく駆け寄ったものの途端に伸びてくる触手に迫られ、いくつも枝分かれするそれに追い払われるようぴょんぴょんと跳び退ってしまう。

その隙を突くように続く珊瑚。彼女は腰の刀を抜くと同時に触手を断ち切ってみせるが、その直後新たな触手によって強く叩き払われてしまった。そこへすぐさま駆けつけた雲母が触手を抑えるよう喰らいつき、さらには弥勒が錫杖で叩き払うとともに勢いよくお札を投げつけてみせる。
それは犬夜叉を包み込み肉塊となった触手に触れた途端青い炎を燃やして消えていく。だが効果など一切なかったことを示すように新たな触手が生み出され、鋭い槍のように強く弥勒へと突き込んできた。


「くっ。破魔札も効かぬか…うっ!」


間一髪錫杖で触手を受け止めてみせたものの、その隙に別の触手が左肩を鋭く掠めてくる。その痛みに思わず怯みそうになった刹那、隙間なく密集する肉塊の中でとうとう疎ましげな声が漏らされた。


「くっ…ベタベタ…気持ち悪いんだよ!」


怒号を上げると同時に強く振り上げられた鉄砕牙。それにより密集していた肉塊はバラバラに切り裂かれ激しく大きく散らされた。
しかしそれはただ振り払っただけ。未だ多くの肉片に囲まれる犬夜叉を見ては、飛んでくる肉片を斬り捨てた彩音がすぐさま声を張り上げた。


「早くそこから逃げて! また捕まる!」
「ちっ。分かってらい!」


彩音の忠告に荒っぽく返しながら即刻跳び上がりその場を離れていく。
その直後、斬り裂かれた肉塊が突如大きく痙攣するように震えを見せると、途端に激しく蠢きながら広がりを見せた。それも束の間、大きく盛り上がった中央から管のようなものに続いて複数の虫の脚のような触手が溢れ出し、ともに人の形をした奈落の上半身までもが再び形成され姿を現した。

そうしてこちらを見据える奈落の表情には、鋭くも怪しげな笑みが浮かべられる。


「くくくく…何度斬っても同じことだ…」
「やかましい! いま粉々にしてやらあっ」


そう強く声を張り上げると同時に両手で構えた鉄砕牙の切っ先を奈落へ据える。その傍では彩音やかごめ、七宝までもが身構えながら奈落を睨視していた。

一方で弥勒は「珊瑚!」と強く呼び掛けると、自身の武器である錫杖を彼女へ投げ渡した。それを受け止めた珊瑚はすぐさま飛来骨に括り付け、体ごと回転するほどの勢いを乗せた飛来骨を奈落目掛けて投げ放った。
凄まじい勢いで回転するそれは瞬く間に奈落へと迫り、背後からその上半身を打ち砕くように激しく断ち切ってみせた。


「くっ。クズどもが!」
「観念しろ! 奈落!!」


忌々しげに歪めた顔を珊瑚たちへ向ける奈落。それに対して声を張り上げた犬夜叉は、奈落の再生が始まるよりも早く鉄砕牙を大きく振り上げた。


「風の傷!!」


渾身の力で振り下ろした鉄砕牙が地面を砕くように叩きつけられる。その瞬間放たれた風の傷は眩い光を放つ衝撃波となって地を抉るように勢いよく走った。

そしてそれに続くように力を込めたのは彩音とかごめ――


「「行けーーっ!!」」


声を揃えるよう力の限りで叫び上げるとともに放たれた矢と蒼い炎。
破魔の矢が不死鳥を模る炎に包み込まれ、迸る風の傷に導かれるよう素早く一閃の光を描いた――その瞬間、目を見張る奈落の胸を容赦なく貫いてみせた。

それも束の間、奈落は断末魔を上げる間もなくその身を粉々に砕いてしまうと、突如としてその体を眩い光とともに爆散させる。そうして放たれるのは視界を覆い周囲を染めてしまうほどの強い光と全てを吹き飛ばさんとするほどの暴風。
各々がそれに耐えるよう身をひそめる中、犬夜叉はすぐさま彩音たちの盾となり二人を支え続けた。

その間にも光は恐ろしく増幅し、やがて山間であるこの場所を全て包み込むかのように強く強く輝きを広げていく――








わずかに感じられた、確かな異変。
音もなく目に見える違いもなにもなかったが、それに気が付いた桔梗や殺生丸はそれぞれの地で静かに足を止め振り返った。それと同じように、だが確かにそれらとは違うものを感じ、その場で身動きを止められた者がいた。

――ドクン…

確かに響いた、大きな鼓動。それが間違いなく自身の中で、自身の胸で響かされたことに気が付いた女――神楽は眉間に深いしわを刻み込み、目を見張るままたまらず大きな呼吸をひとつこぼした。
そしてあまりにも大きすぎる衝撃に狼狽えるよう、恐る恐る懐へ手を入れる。


「心の臓が、戻った…」


胸に当てた手へ伝わるわずかな振動。規則的に収縮を繰り返すそれは、紛れもない自身の心臓であった。

だがそれは今まで自身を生み出した男、奈落が握っていたはずのもの。決して返されることのない、ここにあるはずのないものがなぜ、突然本来あるべき場所へ戻ったのか――


「奈落…死んだ…」


これが意味する答えを、神無が静かに小さく呟く。感情の無い彼女はそれに狼狽えるわけでも、悲しむわけでもない。ただ静かに、その事実を受け入れているようであった。

――そして彼女らと同様に、変化に気が付いた者が他にもいる。

青々と茂る竹林で緩やかに立ち止まったのは一人の少年。ぼんやりとした表情を持ち上げた彼はどこか驚くようなわずかに色を表し、今まで蓋をされ知ることのなかった物事を微かに、薄っすらと思い出し始めていく。

そうしてただぽつりと、


「…姉上…?」


脳裏に浮かび上がった言葉を吐いた。

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