01


日が沈んでどれくらいが経ったであろうか。空に光をちらつかせる星々の下、薄黒い邪気が立ち込める森に囲まれた場所――そこに、大きな湖が広がっていた。
その湖にぽつんと浮かぶよう建てられた、ひどく廃れた小さな社。夜と朝の間に滲み出す霧が不気味に包み込むその中に、息を潜め隠れるいくつかの人影が身を寄せ合っていた。

中でも一人の少年は焦りと苛立ちを露わにし、折り畳み式のコンパクトなミラーを覗き込む。何度目かも分からないほど繰り返しているが、そこに映る姿に変わりはない。それを思い知ってはより一層焦りが募り、たまらず「くそっ」と声を荒げた。


「まだ朔は明けねえのか!?」
「もう少しじゃ。辛抱せいっ」


少年――犬夜叉が八つ当たりに等しい様子で口にするのを七宝が宥めるよう言いつける。

今宵は朔の日。犬夜叉が妖力を失い、完全な人間となってしまう日だ。だがそれだけならば彼もこれほど焦り苛立ったりなどはしない。さらになによりも厄介な、もう一つの理由があった。


「左様! いま出て行けば、犬夜叉さまが妖力を失う時を奈落に教えるようなもの…」


床で忙しなく何度も飛び跳ねていた冥加が必死に引き止めるような言葉を口にしながら床の隙間に落ちてしまう。

そんな彼の言う通り、外には奈落がいる。現在弥勒と珊瑚がそれを追ってくれてはいるが、相手はあの奈落だ。味方が何人いようとも優位に立てるか分からない相手だというのに、今はむしろこちら側の戦力を減らしてしまっている。
それを思えば犬夜叉の焦りは増すばかりで、何度も何度も自身の姿を確認してはまだ明けぬ夜に一層落ち着きを失くしていく。

ついには歯を食いしばるほど強く悔しさを露わにした――その時、不意に二つの人影が犬夜叉に背を向けて立ち上がった。


「あたしたち…行くわ」
「犬夜叉は妖力が戻るまで絶対に出てこないでね」


振り返ることもなくそう告げるのはかごめと彩音。その声はいつになく真剣なもので、彼女らも覚悟を決めたのであろうことが容易に感じ取れた。そしてかごめは弓矢を、彩音は燐蒼牙を握り締めながら戸の格子越しに不気味な森を見つめる。

その背中に犬夜叉が「…お前ら…」と重く声を掛けると、二人は頼もしげな表情を振り返らせた。
それを、真っ直ぐに見据える。


「油断すんじゃねえぞ」


様々な感情を押し殺して紡がれる、犬夜叉の強き言葉。それを耳にした二人は彼の言葉を噛みしめるように黙り込むと、やがてかごめは頷き、彩音は強気な笑みを見せて「分かってる」と確かな声を返した。

そうして彼女らの足は社の外へと向けられ、霧に包まれる世界へ踏み込んでいく。夜明けが近いのか、辺りは白んだ明るさがわずかながらに広がり始めていた。
その中で二人は湖の上に架けられた橋を数歩進み、体をほぐすように伸ばしては薄暗く霧が立ち込める不気味な景色を見回していく。


「…静かだわ…」
「…うん…」


たまらず呟いてしまうかごめに彩音は表情を険しくさせながら同調する。

奈落はまだこの近くまで辿り着いていないのか、異様ともいえるほどに静まり返ったここには自分たちが発する物音以外なにひとつ聞こえない。
まるでこれから命を賭けた闘いが待っていることへの不安を煽っているかのように。

嫌な緊張が強まっていく感覚の中、その沈黙は幕開けを示すように跳ねた小さな魚によって容易く破られた。



鏡の中の夢幻城




ザザザザと茂みを勢いよく駆け抜ける音が響く森の中。白い狒狒の毛皮を靡かせる男――奈落はなにかから逃げるように木々の合間を縫ってひた走っていた。

その時不意に背後からのわずかな気配を感じ取り振り返れば、目にも留まらぬ勢いで回転する飛来骨が木々を薙ぎ倒しながら迫ってくるのが見える。だが奈落は斜面に飛び込むことでそれをかわし、地を滑るようにして距離を離していった。

すると獲物を捕らえられなかった飛来骨は大きく旋回して方向を変え、待ち受けていた左手へと返っていく。


「父上、琥珀…今日こそみんなの仇を討つ!」


目前の敵を逃がすまいと凝視しながら決意を胸にする珊瑚。彼女はその瞬間に雲母の勢いをより加速させ、ゴオッ、と凄まじい音を立てながら森を駆けた。そして飛び込むように降り立ったそこには、こちらへ向かってくる奈落の姿。


「奈落!」


先回りを為した珊瑚は雲母から飛び降りると同時に迫りくる奈落へ飛来骨を振るう。だが軽やかに身を浮かせた奈落はそれをかわし、飛来骨を蹴って珊瑚の背後へ回るよう着地した。
それでも珊瑚は諦めることなくすぐさま奈落へ飛来骨を振るうのだが、それは寸でのところで奈落の背後にあった木に阻まれ、その身を薙ぎ払うことは叶わなかった。

直後――


「!」


突如目の前で狒狒の毛皮の下から昆虫の肢のような刺々しい触手が溢れ出してくる。たまらず後ずさった珊瑚は寸でのところでそれをかわすことはできたのだが、奈落は目の前。あまりにも近いその距離から上手く逃げられずその場に尻を突いてしまうと、掲げられる無数の触手が珊瑚へ迫り襲い掛かろうとした――その瞬間、声を上げた雲母が奈落へ圧し掛かるように飛びついた。

押さえた、そう感じた刹那、奈落の体から大量の濃密な瘴気が吹き出されてしまう。その瞬間奈落の体に触れていた雲母は瘴気を直に受けてしまい、雄叫びのような悲鳴を上げながら大きく後方へよろめいた。


「くっ。雲母!」


目の前で散る瘴気を免れた珊瑚は即座に刀を抜いて立ち上がる。そして奈落へ強く刀を振り下ろせば、奈落自身にはかわされながらも一本の触手を断ち切ってみせた。
それが不気味な色をした体液を散らし地面に落ちるのも構わず、駆け出し踏み砕いた珊瑚はなおも逃げる奈落を見据えながら飛来骨を回収し、すぐさま追うように駆け出す雲母へと飛び乗った。


「法師さまっ、そっちに行ったよ!」


飛来骨を構えながら奈落を見据え、向かう先へ声を上げる。
そこには湖を背にする弥勒が右手の数珠を握り締めたまま敢然と立ちはだかっていた。


「待っていましたよ奈落! 我が手に穿たれしお前の呪いっ。風穴!」


積年の恨みを込めるよう強く言い放ちながら数珠を取り払った右手を森へ突き出す。その瞬間解放された風穴は凄まじい風を起こし、森の奥から姿を見せた奈落を周囲の木や岩とともに吸い込もうとした。
豪風が森を、奈落を包み込むように襲い掛かる。すぐさま耐えるようその場に足をとどめた奈落であったが、その強大な威力に抗うことはできず。足は地面を離れて呆気なくその身を浮かせてしまった。

だが奈落は焦ることなく途端に身を翻し、狒狒の毛皮の下から無数の虫とともに見覚えのある巣を放ってみせる。


「最猛勝っ」


風穴の豪風に乗って迫る不気味な蜂の姿にギク、と肩を揺らす。

最猛勝を吸い込んでしまえばその毒に侵され身動きが取れなくなってしまう。それを脳裏によぎらせるとともに迸る危機感に駆られ、弥勒は咄嗟に風穴を閉じようとした。
だが瀬戸際に飛び込んできた一匹。それが滑り込むように風穴へ身を投げ、即座に侵食する毒によって弥勒の顔を苦痛に歪めさせた。

直後、風穴の勢いに引かれていた狒狒の毛皮が弥勒の視界を塞ぐように覆い被さってくる。それに慌てた弥勒は大きくもがくようにして、すぐさま毛皮を取り払った――その瞬間、


「! ぐっ、あああっ」


ガッ、と襲いくる衝撃に目を見張り悲鳴を上げる。先ほどまでの触手とは違う巨大な妖怪の腕が、弥勒の首を掴み込んでその体を持ち上げてしまったのだ。
首が絞まる苦しみに耐えるよう薄く目を開けば、眼前には黒髪を揺らし全貌を露わにした奈落の姿。それは堂々と立ちはだかり、苦悶の表情を浮かべる弥勒を嘲笑うように見上げていた。


「ふふふ…死ね」


余裕げに笑みながら告げる奈落。その腕が弥勒を絞め殺さんと一層の力を込めようとした。
――次の瞬間、素早く伸びた一閃の蒼い光が奈落の腕を容赦なく消し飛ばす。その衝撃にたまらず声にならないほどの驚愕を見せた奈落が振り返れば、矢が飛んできたずっと向こう――そこに、武器を構える彩音とかごめの姿があった。


「小娘ども…」


込み上げる怒りに大きく顔を歪めた奈落が唸るような声を漏らす。しかしその視線の先、かごめは怯むことなく新たに矢を番えた弓を構えながらその照準を奈落へと合わせ、隣に立つ彩音はわずかに残った蒼い火の粉を散らすように再び刀を構えた。


「ここで終わらせる!」
「奈落、覚悟!」


ともに声を上げた直後、かごめが再び矢を放てばそれへ向けて彩音が強く刀を振るってみせる。すると刀から発せられた蒼い炎が破魔の矢を取り巻きながら容赦なく奈落へと迫った。
それに目を見張った奈落は咄嗟に防ごうとするが、矢はドオッ、と鈍くも凄まじい音を響かせて奈落の体を貫いてしまう。

奈落の瘴気さえ浄化する破魔の矢だ。それに貫かれた奈落は致命傷ともいえるほどのダメージを負い、その場に崩れ落ちる。その様子にかごめが「やった!」と声を漏らしたが、途端に彩音共々その表情をひどく強張らせた。

なぜなら力なく項垂れる奈落の下で、深緑色をした体の一部がとめどなく膨れ上がり始めたのだ。
血管のような筋を浮き上がらせたそれは膨大な広がりを見せ、かごめや彩音、弥勒の全員を狼狽えるように後ずさらせる。それでもなお奈落の膨張は止まることなく、いつしか奈落の体さえ覆い尽くしてしまうほど大きく膨れ上がっていた。

その時、社から飛び出してきた七宝が必死の形相で彩音たちの元へ駆けてくる。


「かごめ、彩音ーっ。伏せろーーっ!」
「え!?」


思わず彩音が声を漏らした、次の瞬間、膨張していた奈落の体が突如次々と爆発を始めてしまう。それにより生じた凄まじい爆風が彩音たちへ襲い掛かると同時、背後から「変化!」という声が聞こえたかと思えば、吹き飛ばされた二人の体は風船姿になった七宝に柔らかく受け止められた。
対して同様に大きく吹き飛ばされてしまった弥勒は咄嗟に駆けつけた雲母に受け止められ、爆風から逃れるように空へと昇っていく。

――その間にも、爆発による煙が大きく立ち込める中で奈落の体に変化が訪れる。やがてメキメキメキと不気味な音を立てて煙から出てきたのは巨大な肢。それが連なるように数本並ぶ様子が露わにされると、やがてそこにひどく凶悪で巨大な頭が持ち上げられた。


「ぐおおおおおっ!!」


大気をビリビリと震わせるほどの声で雄叫びを上げた奈落の姿――それは人の形の面影も見えない、とても巨大な大蜘蛛へと変わり果てていた。全体が藍媚茶色となり、大きな目と背中に焼き付く蜘蛛の紋様は毒々しささえ感じられる赤色に染まっている。


「あれが、奈落の正体…」
「完全に蜘蛛でしかない…」


風船姿の七宝の上でかごめと彩音が奈落の姿に思い思いの声を漏らす。規格外ともいえるその大きさに不安を滲ませ怯んでしまいそうになるが、ここまで追い詰めたのだ。今ここで、今度こそ奈落を仕留めなければならない。

そう決意を新たにした彩音が息を飲みながら燐蒼牙を握り締めた時、頭上から回り込んできた雲母が同じ高さへとその身を並べた。


「彩音さま、かごめさまっ」
「犬夜叉は?」
「いや、まだ…」


様子を窺うような珊瑚の問いに彩音は歯切れの悪い声を返す。
辺りは明るくなってきているが、肝心の太陽が姿を見せないせいか犬夜叉は社に身を潜めたままだ。変化が終わっているならとっくに出てきているであろうことを思うと、彼が未だに妖力を取り戻せていないことが嫌でも分かってしまう。
それを一同が同様に察すると、弥勒はすぐさま珊瑚と顔を見合わせた。


「仕方ありません…我々だけで!」
「行くよ、雲母っ」


意気込むような珊瑚のその呼び掛けに声を返すと、雲母はすぐに奈落目掛けて宙を駆けていく。その姿を見届けた彩音とかごめも同様に顔を見合わせ、それぞれの武器を手にしながら足元の七宝へ視線を落とした。


「七宝ちゃん、行くわよ」
「私たちも加勢するよ」


気を引き締めながらそう告げて奈落へと視線を向け直す二人。その様子に七宝は震えながらも「よし」と返事をしたのだが、その身は一向に動く気配がない。それを不思議に思った彩音がもう一度七宝を見やると、なにやら彼は尋常じゃないほどの汗をだらだらだらと流していた。


「また、今度にせんか…」
「…七宝ちゃん…」
「また今度って…」


ここに来てまで逃げ腰な七宝に呆れ果て、二人はがっくりと肩を落としてしまう。

――それとは引き換えに、勢いよく奈落へ向かった珊瑚は雄叫びのような声を上げながら力の限りで飛来骨を投げ放っていた。その飛来骨は凄まじい勢いで回転し、奈落へと迫る。
しかしそれは奈落に届くことなく、その眼前でなにかに拒まれるよう弾かれた。


「結界かっ」


向こう側の景色を歪める透明な壁のようなものが垣間見えたことで弥勒と珊瑚はすぐにその存在を悟る。そして返された飛来骨を珊瑚が受け止めた時、それを見守っていた七宝がとうとうやる気を見せた。


「よし、おらもっ」


不意にそんな声を上げ、ポンッ、と軽快な音を立てながらその姿を変化させる。その瞬間わずかに宙に浮いた彩音とかごめがその体に着地すると、翼を生やすほど大きく変わった七宝の姿をまじまじ眺めながら関心の声を上げた。


「すごい七宝ちゃんっ。プテラノドンね!」
「いや、これはアオサギでしょ」
「カモメじゃ」


二人から自信満々な様子で全く違う種名を言われてしまい、七宝は納得がいかないとでも言うように二人を睨みつける。しかしその姿は薄灰色の大きな体に幅のある黄色いくちばしだ。一目でカモメだと断言できる者はそういないだろう。

そう思いながらも彩音たちが「ごめんって」と七宝を宥めていた――その時、突如奈落の体が方向を変えて真っ赤な目をこちらへと向けてくる。かと思えば、その足は躊躇いなく踏み出された。


「ひい〜〜っ! こっち来た〜〜〜!!」
「ちょ、うわっ!」
「きゃっ」


大きく傾く体に彩音とかごめが短く悲鳴を上げる。奈落がこちらへ身を乗り出したことで七宝が体を仰け反らせるように狼狽え、背中の二人までバランスを崩してしまったのだ。おかげでかごめが構えていた矢は無情にも湖へ落ちていく。


「ちょ、ちょっと七宝!」
「逃げちゃダメよ!」
「おらまだ子供なのに〜〜っ」


二人がたまらず七宝を叱れば、彼は泣き言をこぼしながら奈落から遠ざかっていく。するとそれを追っていた奈落は不意に足を止め、低く唸るような声とともに大きく開いた口から濃密な瘴気を吐き出した。
それはまるで彩音たちを追うように水面を滑り迫ってくる。その様子に「わあ〜〜〜っ!」と悲鳴を上げた七宝は焦りからか飛ぶことを忘れ、必死に翼をばたつかせながら水面をばしゃばしゃと走りだした。

このままでは瘴気に、そして奈落に追いつかれてしまう。それを悟った弥勒と珊瑚は表情を険しくし、すぐさま奈落の体を見定めるように視線を落とした。
まずは奈落を足止めしなければ。


「足を薙ぎ払って、動きを止めましょう!」
「雲母、奴の腹の下に… !?」


弥勒の提案に乗った珊瑚がすぐさま雲母へ指示を出そうとしたその刹那、突然尻の辺りに撫でまわすような感触を覚えて目を見張ってしまう。それは明らかに背後の弥勒の手。何度も味わった“堪能するような手つき”に気が付いた途端、珊瑚は顔を赤くしながら思いっきり弥勒の頬を引っ叩いた。


「こんな時になにするのさ!」
「失礼、つい…」
「ついじゃないっ!」


弥勒が慌てて弁解するもそれは弁解にさえなっておらず、珊瑚はたまらず声を大きくしてしまうほど必死に彼を怒鳴りつけた。

――慌て逃げ惑う七宝、こんな状況にありながらセクハラに走る弥勒。彼らの行動を社の壁の裂け目から覗いていた犬夜叉は、やるせない思いに強い舌打ちをこぼしていた。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -