16


「狐火!」


高く飛び跳ねた七宝が井戸を潰す木へ青白い炎を放つ。瞬く間に広がるそれは激しく木を包み込むが焼ける様子はなく、狐火はなんの変化も与えられないまま呆気なく沈静化してしまった。


「おらの狐火じゃダメじゃ…おばば、一体どうすればいいんじゃ?」
「邪なる力で大きくなるこの木を鎮めるには、彩音やかごめや桔梗お姉さまのように強い霊力を持った者でなくてはならんのだが…」


縋るような七宝に楓は困り果てた様子でそう話す。その頃、御神木の根元では気を失ったままの犬夜叉の頬に張り付いた冥加が必死な声を上げていた。


「犬夜叉さま、犬夜叉さまっ。お目をお覚ましくだされ。この冥加、一生のお願いでござりまする!」


何度も懸命に呼びかけるが、深く目を閉ざす犬夜叉に反応はない。すると最終手段と考えた冥加がその小さな口を犬夜叉の頬に刺し、ぢゅー…と血を吸ってその体を膨らませ始めた。それが瞬く間に大きく膨れ上がると、冥加は「吸いすぎたー…」と苦しげな声を漏らしながら転がるように落ちてしまう。

――その時、犬夜叉にわずかな変化があった。なにかの気配に気が付いたよう、ゆっくりとその目を開き始める。


「彩音…?」


微かな声で呟いた名前。それは手の届かない場所にいる、それでも確かに傍に感じる少女の名前であった。


「…彩音。彩音か…」


その目に映るのは、自身や御神木以外のものが存在しない白い世界。そこで犬夜叉は、背後に気配を感じる彼女を呼び続ける。

――すると、それは現代にいる彩音の耳にしかと届いていた。犬夜叉の気配に縋るよう、御神木へ寄り添っていた彼女に。すると彩音は途端に目を見張り顔を上げ、すぐさま呼び掛けに応えるようその身を一層強く寄せながら声を上げた。


「犬夜叉っ…犬夜叉なの…!?」


彼の声が聞こえる。それに戸惑いを隠せない彩音であったが、最後に見た彼の姿を脳裏によぎらせた途端、はっと息を飲むように問いかけた。


「犬夜叉傷はっ…傷は、大丈夫…?」


そう口にしながら、表情を曇らせる。操られていたとはいえ、彼の傷は自身が与えたものだ。それを自分が案じるなど…そう思ってしまいながら、唇を噛みしめるようにして答えを待った。
すると犬夜叉は『ああ…』と疲労感を滲ませながらもはっきりと返してくる。


『これくらいなんでもねえ…それより、おめえそこにいんのか?』
「ううん…現代に、いる…」
『けっ。怖じ気づいちまったのかよ』


弱々しく呟くように話す彩音とは裏腹に、犬夜叉は意地悪く悪態づくような声で言い捨てる。それに彩音は堪らず「そうじゃない!」と声を上げたのだが、それ以上を語ろうとした声は詰まるように出なくなってしまった。
甦るのは、現代へ戻ってくる前のこと。桔梗に叱責されたことを振り返り、言葉を失くした彩音は俯くように御神木へ額を当てる。


(違う…桔梗は間違ってない…なにもできなかった、自分が悪い…)


滲む涙を押し潰すように強く目を閉じる。
もっと自分に強い意思があれば、力があれば、様々なことを未然に防げていたかもしれない。このようなままならない気持ちも、抱かなかったかもしれない。それを思い始めると悔しくて堪らず、目頭に帯びる熱を誤魔化すように唇を噛みしめた。

その沈黙を訝しんだのだろう、『…なんだよ…』と呟く犬夜叉の声が御神木から降り注がれる。それに深く息を吐いた彩音は、声の震えを抑えるように言った。


「ううん…なにも…少し、考えごとしてただけ…」
『……なに、考えてた…』


隠そうとする彩音に、犬夜叉は言及するようそう問いかけてくる。その声に小さく唇を結んだ彩音は御神木を見上げ、そして、俯きがちに目の前の樹皮を見つめながらそこに手を触れた。


「犬夜叉…私、強くなれるかな…? 犬夜叉に釣り合うくらい、強く…」


今さらかもしれない。それでも、変わりたい。そう願うように、縋るように問いかける。
すると、その声を聞いていた犬夜叉は『けっ…』と短く吐き捨てた。


『いきなりなに言ってんだ…意味分かんねえよ…』
「あ、はは…そう…だよね…ごめん…そんなの、分かり切ったことだよね…」


問いを取り消すように、誤魔化すように笑い掛けながら深く俯く。思わず引いた手を、もう一方の手で握りしめるように力を込めた。

――その時、どういうわけか、確かに空気が変わったような気配を感じた。それに釣られるよう静かに顔を上げてみれば、その視界に捉えた光景に大きく目を見張る。息を、詰まらせる。
どうしてか眼前にあった御神木が遠ざかり、その根元に、弱々しく座り込む彼の姿があったのだ。


「犬…夜叉…?」


震える声が漏れ出でる。その声に瞼を持ち上げた彼はこちらを見据え、視線を絡ませたと同時に「なんでえ、そこにいるんじゃねえか…」と口にしながらその表情を小さく緩めた。
そして彩音を見つめるまま、呆れたように問いかけてくる。


「おめえさっきからなにを気にしてやがんだ…いいから、正直に話せよ…」
「それは…」


問い質すような犬夜叉の声に、それでも躊躇いを拭いきれない彩音は小さく口にしながら再び俯いてしまう。しかし犬夜叉も譲る気はないのだろう。それが伝わるほど真っ直ぐに見つめてくるその視線を一身に受けては、小さく唇を噛んだ彩音が掠れるような小さな声で思いの丈をこぼし始めた。


「…私…いつも守られてばっかりで、なにもできてないでしょ…それに、足を引っ張るどころか…犬夜叉を…そんな風に、傷付けた…」


熱とともに滲み出す涙を浮かべながら震える声で紡ぎ出す。それを静かに聞いていた犬夜叉は怪訝そうに眉をひそめ、弱々しくも言い聞かせるように言葉を向けてくる。


「それはおめえの意思じゃねえ…それに、おめえは傷が治せるだろ…」
「それはっ…! それは美琴さんの力で…私のじゃ…ない…」


弾かれるよう咄嗟に言い返すと同時、唯一ともいえる役割でさえ自身の力でないことを痛く思い知る。
分かっていた。分かっていたのだ、自分になにもないことなど。それでも、改めてそれを思い知ってはあまりの無力さが情けなくて、申し訳なくて。


「私には…なにもない…」


絞り出すような声で、悲哀に満ちた言葉を吐くことしかできなかった。

そんな彼女の声に、犬夜叉は不快感を示すよう眉をひそめる。彼女の言うことなど理解できない、理解する気もないとでもいうように。それだけに留まらず、犬夜叉は満身創痍の体を立ち上がらせながら苛立ちに荒れる声を上げた。


「くだらねえことばかりぐだぐだ言ってんじゃねえよっ」
「! い、犬夜叉っ。待って、動いたら…」


傷が開いてしまう、そう忠告しようとした声は、伸ばした手がグ、と握られる感触に止められる。その直後――彩音の体は強く引き寄せられ、犬夜叉の腕の中でしかと抱きしめられていた。


「い、ぬ…やしゃ…?」


思わず声を漏らす。それに対して、犬夜叉はさらに強く抱きしめながら力強い声を返した。


「お前になにもねえわけねえだろ…おれにはお前が必要だ…お前以外に、おれと釣り合う奴なんていねえ。…そんなの、“分かり切ったこと”なんだろ?」
「!」


諭すように呟かれる言葉に大きく目を見開く。それは彩音の悲観的な言葉を逆手に取ったものであったのだ。
まさかこちらの言葉を否定せず、ましてや咎めることもなく、欲しかった言葉に変えるなんて。思いもよらない彼の優しさに胸を打たれては、堪らず込み上げてくる涙を静かにこぼしてしまう。そして縋るように、その温もりを確かめるように彼の背中へ腕を回し、互いの想いを伝え合うように抱きしめていた。

――そうしてしばらくののち、静かに目を開いては、自身の目の前の御神木を見つめる。そこに犬夜叉の姿はない。だが、それでも彩音は俯くことなく、しかと繋がりを感じる御神木を見上げた。
そしてそれに応じるよう、犬夜叉の力強い声が響く。


『さあ行くぞ、彩音!』
「分かってる!」


強く頷き返事をした途端、彩音はすぐに踵を返して井戸の祠へ駆け出した。その時、母とコートを取りに行っていたかごめが近くまで戻ってきており「彩音…?」と声を漏らしたが、彩音はそれに振り返ることもなく、足跡を消された新雪の上に新たな跡を刻みながら祠へと駆け寄った。
そうして躊躇いなく戸を開け、階段を駆け下りようとした刹那――目の前に見えた光景に思わず「げっ!」なんて声が漏れた。

それもそのはず。いまから飛び込もうとしていた枯れ井戸は、戦国時代から伸びてきたかと思わされるような、大量の蠢く木の根にみっちりと塞がれていたのだから。


「えー…これは無理でしょ…」


飛び込んだところで突き破れるわけがない、そう安易に予想できてしまう状況に顔を引きつらせる。しかしこのままでは戦国時代に帰ることができない。それに慌てた彩音はすぐさま引き返し、かごめの祖父たちの目もはばからず御神木へと縋りついた。


「ど、どうしよう犬夜叉っ。帰れない! ねえっ」
「彩音ちゃん…」
「彩音姉ちゃんが壊れた…」


突然豹変したような彩音の言動に祖父と草太は揃って目を丸くして呆気にとられる。
当然犬夜叉の声など聞こえるはずのない祖父たちからしてみれば、いまの彩音は“御神木を犬夜叉と呼んで助けを求めているやばい奴”にしか見えないのだ。おかげで周囲からは奇異の目で見られてしまっていたのだが、彩音の必死の呼びかけは望んだ者へしかと届いていた。


『彩音、どうした!?』
「井戸が根に塞がれて通れなくなってる! どうすればいい!?」
『諦めんな! 巫女の矢だ、それを使えば根を薙ぎ払える!』
「矢…!? って言われても、矢なんて…」


この時代にはない、と言いかけた時、ふとなにかが御神木の中に光った気がした。それは犬夜叉が封印の矢を射ち込まれた時にできた、小さな窪み。それを見て指を怪我したことを思い出すとすぐに真後ろの祖父へと振り返った。


「すみません、この矢もらいます!」


そう言いながら返事も聞かずして祈祷に使っていた矢尻のない矢を咄嗟に掴み、御神木へ向き直る。予想が確かならば、これで矢を作ることができるだろう。そんな願いにも似た思いを抱いて、少し高いその窪みへ思いきり矢を突き込むように何度も叩き付けた。するとその手に、わずかな感触の変化を抱く。


「あ…取れた!」


確かめるよう慎重に矢を抜いてみれば、そこには確かに鈍く煌めく矢尻がしっかりとはまり込んでいた。
これで矢は完成した。あとは弓さえあれば、と彩音が周囲を見回そうとした時、「彩音!」と呼び掛けてくる声と雪を踏む足跡が近付いてきた。それに顔を上げてみれば、なにかを抱えるかごめがもう一方の手に弓を掲げているのが見える。


「かごめ! その弓…」
「向こうから持って帰ってたの。いるでしょ? あと、ママが忘れ物だって…」


そう言ってかごめが弓とともに差し出してきたのは、ビニールに包まれた馴染みある制服であった。それだけでなく、かごめの母からは“あなたたちはあなたたちらしく、ね”という伝言までもらっていたことを聞かされると、彩音はわずかに瞳を揺らしながら柔らかく表情を緩める。

そうして受け取った制服と弓を抱きしめ、こちらを見つめるかごめと強く頷き合った。


「行こう、かごめ!」
「ええ!」



* * *




現代の二人が意気込みを新たにする頃、緑に囲まれる戦国時代では目を覚ました犬夜叉が井戸に向かって歩みを進めていた。先ほどまで気を失っていた彼がすぐに行動を始めてしまう姿に、楓が「犬夜叉、もう体は良いのか?」と心配そうに声を掛けると、それに続くよう肩に飛び乗った七宝が「無理せん方がいいぞ」と囁きかけた。

しかし、犬夜叉はそれをすげない口ぶりで突き放す。


「うるせえ。おめえらとは体の作りが違うんだっ。一緒に斬られたくなかったらすっ込んでろ!」


七宝が怯えるように飛び降りたあと、そう告げる犬夜叉は躊躇いなく鉄砕牙を抜いて構えてみせる。それを向ける先は井戸を潰すように大きく伸びた木。それを薙ぎ払うべく鉄砕牙を大きく振りかぶりながら「せーのっ!」と声を上げた――その時だった。
犬夜叉の声が途切れるか否かといった刹那、井戸から眩い光が漏れたかと思えば、突然目の前でドオン、と凄まじい音を立てて井戸が爆発してしまった。

瞬く間に大きな黒煙が広がり木片がいくつも飛び散る中、あまりにも唐突すぎることで驚いた七宝が「なんじゃ!?」と声を上げながら楓とともに目を丸くする。すると次第に煙が晴れていき、ようやく見えてきたボロボロの井戸の中から一本、二本と続けざまに手が伸びてきた。


「すっごい煙…」
「ほんと…うわ!?」


彩音がかごめとともに井戸から身を乗り出そうとした途端、木に押し潰されて歪んでいた井戸が耐え切れなくなったようにドシャ、と崩れ落ちてしまった。そんな災難に眉を下げながら体を起こせば、「「彩音! かごめ!」」という歓喜の声が聞こえてくる。それに顔を上げると同時、駆け寄ってきた七宝が嬉しそうに彩音の胸へ飛び込んだ。


「七宝っ…楓さんまで!」


まさか井戸の前に二人がいるとは思ってみず、彩音は驚きながらも再会の喜びをその声に滲ませる。だがその時、手当てをされた楓の腕に気が付くと「あ…」と小さな声を漏らし、申し訳なさげに表情を曇らせた。


「楓さん…ごめんなさい…その手…」
「あたしも…ごめんね、楓おばあちゃん。本当はもっと早く帰って来るつもりだったんだけど、向こうで色々あって…」
「二人とも気にするでない」


眉を下げる二人に対して楓は寛大に笑い掛けるようそう告げる。彩音たちが自らの意思でそうしたわけではないことを分かっているため、気負わせないようにしているのだろう。そんな楓の優しさを感じた彩音たちが彼女と同様に表情を緩ませた、そんな時。


「くぉら、彩音…」


不意に背後からとてつもなく不機嫌そうな犬夜叉の声が聞こえてくる。その声に彩音は待ち望んでいたとばかりにぱっと表情を明るくさせて振り返ったのだが、対する犬夜叉はというと煤にまみれながら苛立ちを露わに食い掛かるよう迫ってきた。


「てめえ、なんでもっと静かに戻って来られねえんだっ」
「私は言われた通り矢を使っただけだけど」
「吹っ飛ぶなんて聞いてねえぞ!」
「は〜? なにその言い草。私だってそんなこと聞いてません〜。そもそも私が矢を使うって分かってるのに、井戸の目の前にいる方が悪いんです〜!」


犬夜叉の理不尽な物言いに負けじと反論しながらべーっ、と舌を出す彩音。それに拳を震わせる犬夜叉の姿を見て、逃げるように離れていた七宝は呆れ果てた様子で頭を抱えた。


「犬夜叉のバカたれ〜! せっかく帰って来たのにまたケンカしおって!」
「心配いらん。いつもの二人だ」
「ほんと、相変わらずね…」


二人の様子に安堵するよう微笑む楓に続いてかごめが苦笑を浮かべてしまう。そんな時、突如足元でぴょんぴょん跳ねる冥加が「犬夜叉さま!」と大きな声で呼び掛けながら彼の元へと駆け寄った。それは彩音の肩で足を止めると、二人へ目を覚ませと言わんばかりに声を張り上げる。


「飛妖蛾はこの世のありとあらゆる魂を吸収しておりまする! ケンカなどしとる場合ではございませんぞ!」
「それくらい分かってらあ!」


説教じみた冥加の声に犬夜叉は不機嫌そうな様子で乱暴に言い返す。それと同時に強く伏せた目を再び開き正面の彩音へ向け直すと、犬夜叉は力強い眼差しで彼女の澄んだ双眼を見つめた。


「行くぞ、彩音!」
「了解!」


犬夜叉の呼び掛けに強気な笑みを浮かべてはっきりと返す声。それを合図に彩音とかごめと七宝の三人は揃って犬夜叉の背に乗せられ、すぐさま森の中を風のように駆け抜けていく。

飛妖蛾が立ちはだかる時代樹を目指して――

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