15


踏み出した足が触れるや否や、バキ、という嫌な音が響くと同時に体が支えを失う感覚に襲われる。弥勒は突然のことに体勢を立て直すことができず、そのまま幹の表面を滑り落ちていった。だがその途中で目の前を覆った茂みに手を伸ばし咄嗟に蔓を掴んで勢いを殺すと、途端に蔓が千切れてすぐ下の太い幹へ尻餅をついた。

――直後、頭上からブン、となにかが風を切る音が響かされる。それに気が付いた瞬間即座に錫杖を構えた弥勒は、勢いよく投げ放たれた瑠璃の鉾を錫杖の柄で間一髪受け止めてみせた。
しかしそれに安堵する暇などなく、どういうわけか鉾は形を歪めて瞬く間に毒蛇へと変貌し、噛みつく錫杖の柄からジュウ…と焼けるような音を立て始める。それに慌てた弥勒がすぐさま蛇を強く振り払えば、それが飛ばされる先に降りてきた瑠璃が受け止め、再び元の鉾へと戻してそこに立ちはだかった。


「さあ法師! そろそろ決着をつけようじゃないの。あたしの風穴とあんたの風穴…どっちが先に呑み込むか!」


毅然と発しながら胸の前に右手を掲げてみせる瑠璃に対し、弥勒は苦悶の色を滲ませた表情で右手の数珠を解き始める。
彼がそのような表情を見せてしまうのも仕方がないだろう。なにせ彼はこれほどまでに風穴を酷使したことがない。それゆえ疲労もひどく、酷使し続けた果てが分からないという恐怖までもが心を蝕んでいるのだから。そしてなにより、相手のそれがコピーとはいえ風穴であることに変わりはなく、少しでも差が生じて負けてしまえば一気に“死”へと陥れられることに違いはない。
だからこそ嫌な緊張をその表情に現すまま、息を飲むこともできずに右手の数珠を握りしめていた。

だが瑠璃はそのような弥勒の心情など気にするはずもなく、しばしの沈黙を突如破るように「風穴!」と声を張り上げ、余裕の表情と共に風穴を開いてきた。その瞬間弥勒も風穴を開かざるを得ず、右手を突き出すと同時に数珠を取り払っては、無慈悲なその闇を正面の瑠璃へと突きつけた。

途端、凄まじい風が二人の間で互いを引きつけ合う。巻き起こる土煙が風穴の威力を可視化する中、互角ではあるものの少しの油断も許さないこの状況にひどく顔を強張らせる弥勒はただじっと瑠璃を睨むように見据えていた。
その間にも、体は疲労感を募らせていく。


「(こんなに長い間、風穴を開き続けたことはない…もう、限界が近い…)」


確かに体に感じ始めた疲労などの感覚に眉間のしわを深くする。
――その時だった。瑠璃が突然伸ばしていた右腕をわずかに曲げ、鉾を短く持ち上げたのは。一体なにをするつもりか、そんな思いをよぎらせた次の瞬間、瑠璃は躊躇いなく自身の右の手のひらを鉾で斬り付け、強引に風穴を広げてしまった。


「!」
「さあ、覚悟しろ! 法師!」


自身の武器さえ飲み込ませた瑠璃の風穴は拡大するとともにその威力を格段に上げ、先ほどまでとは比べものにならないほどの風を巻き起こした。咄嗟に足へ力を込めて踏ん張るものの、瑠璃の風穴の威力に包まれた弥勒の体は徐々に引き寄せられていく。


「ははははは! 私の勝ちだ!」


風穴を向け続けることしかできず顔をしかめる弥勒の姿に瑠璃が高らかな笑い声を響かせる。だが次の瞬間、瑠璃は確かに自身の手のひらに違和感を抱いた。
さらに傷つけたわけでもない、だというのに、風穴が勝手にその範囲を広げていく。


「…なっ。あ…ああっ! あああああ!!」


ひとりでに広がり続ける風穴に怯えた瑠璃が咄嗟に右手を押さえ込もうとする。だがそれでも風穴を抑えることは叶わず、それは瞬く間に右手を飲み込んで圧倒的なまでに勢力を増していく。その様子に気が付いた弥勒が目を見張る先で、押さえた左手さえも飲み込まれていく瑠璃は必死に逃れようと体を逸らす――だが、


「ああ! 飛妖蛾っ…さまあああっ!」


断末魔に近い悲鳴を上げた瑠璃は突如消滅するように風穴へ飲み込まれる。その瞬間爆発のような影しい風が瑠璃であったものへ激しく吹き荒れ、決死の覚悟で耐え抜いた弥勒の眼前で視界を埋め尽くすほどのひどく眩い光が放たれた。

――やがて風も光もすべてが沈静化した時、光が放たれた場所には細く煙を上げる大きな窪みだけが虚しく残されていた。


「…私もいずれはああなってしまう…骨も残らず、なにもかも無に帰してしまうんだ…」


荒い呼吸でそう呟く弥勒は封印を施した自身の右手に視線を落とす。いつ、どこで――そんなものは分からなかったが、目の前で示された“自身の未来”に顔色を悪くすると、消滅した瑠璃へ静かに手を合わせた。



* * *




「くっ」


同じ頃、玻璃に迫られる珊瑚は軽やかに飛び退りながら腰の刀を引き抜いた。それに伴うよう追い込む玻璃は双剣を振るい、甲高い金属音を何度も響かせるほどに双方の武器を交わらせる。双剣である分玻璃の方が手数が多く有利であるが珊瑚は冷静に全てを受け流し、咄嗟に背負っていた飛来骨を薙ぐように大きく振るった。

しかし玻璃はそれをかわして高く跳び上がると、交差させた剣から同じく交差した赤い光の刃を勢いよく放ってくる。それを免れた珊瑚は凄まじい煙に覆われながら、それでも的確に玻璃が着地する場所を狙って飛来骨を投げ放った。
狙い通り――そう確信した時であった。着地した玻璃の目の前へ飛来骨が迫った刹那、突如飛び込んできた雲母がそれを体当たりで弾き飛ばしてしまったのは。


「!」


珊瑚が思わず目を見張る。その視線の先、玻璃の背後に飛来骨が突き立てられれば、玻璃の表情に一層の胡乱げな笑みが浮かべられた。

主力である飛来骨が使えないいま、頼れるのは刀のみだ。そのような状態で玻璃と、そしてそれに従う雲母と闘わなければならない。絶望的ともいえる状況に肩を上下させるほど荒い呼吸を繰り返す珊瑚は残された刀を握りしめ、呼吸を抑えるようにグ、と力をこめた。


「はあっ!」


まずは飛来骨を取り戻すべきだ。そう考えた珊瑚が不意を突くように刀を投げつける。その瞬間玻璃は再び高く跳び、そこへ飛び込んだ雲母の背へ飛び乗ってはその場を離れた。珊瑚はその隙を突くように飛来骨の元へ駆け寄り、それを手にすると同時に刀を納める。

その時、雲母が側を勢いよく横切る影が垣間見える。再び雲母で襲い掛かるつもりか――そう考えた珊瑚はすぐさま開けた元の場所へ飛び退り、飛来骨を盾にするよう抱えながら玻璃の姿を捜した。
しかし玻璃と雲母は陰から陰へ素早く移動し、場所を特定できない様子の珊瑚を翻弄する。


「諦めの悪い娘。物の怪は支配するのみ…力で押さえつけるのが一番」
「違う! あたしと雲母は、そんな風に繋がってはいない!」
「愚かな。まだそんな甘いことを言うとは」


珊瑚の否定に玻璃は呆れを含んだ侮蔑の声を向ける。その時もなお珊瑚の周囲を飛び回っていた玻璃だが、雲母の耳に顔を寄せながら「殺めておしまい」と囁くと、雲母はそれに猛々しい雄叫びで返事をした。
次の瞬間、玻璃が背中から飛び降りると同時に方角を変えた雲母は木の幹を伝うように背後から珊瑚へと駆けていく。


「!」


その気配に、音に気が付いた珊瑚が即座に振り返る。だが彼女は迫りくる雲母に向き合うよう立ちはだかり、その表情を変えた。


「雲母…つらいのは、あたしだけじゃないよね…」


儚げな微笑みを湛え、静かに涙を滲ませる珊瑚。彼女は勢いを殺すことなく駆けてくる雲母に怖めず臆せず、躊躇いなく飛来骨を手放した。そして身を委ねるように、静かに目を閉じる。

直後――ドガッ、というひどく鈍い音が響き、透明な雫が大きく舞い散った。高く宙へと投げ出された珊瑚の体は、やがて強く地面に打ち付けられる。
彼女はその場に横たわったままだ。いまなら容易く仕留められる――だというのに、雲母はその場を動くことはなかった。先ほど珊瑚を突き飛ばした刹那、飛び散った滴が勾玉を埋め込まれる自身の額に触れ、途端にそこを嫌がるよう何度も擦り始めたのだ。


「どうした雲母! とどめを刺せ!」


玻璃が様子のおかしい雲母を律するよう叫ぶも、雲母は苦しげに呻きもがくばかり。それも束の間、雲母は突如荒々しく駆け出すと、歪な木の幹へ激しく頭をぶつけ始めた。


「!?」
「…雲母!?」


自身を追い詰めるようなその痛ましい姿に顔を上げた珊瑚が堪らず眉をひそめる。雲母はただ悔しげに、苦しげに表情を歪めるまま無我夢中で何度も何度も強く激しく頭を叩きつけていた。


「雲母、やめてっ!」


あまりの姿に珊瑚が声を張り上げるもそれは一向に勢いを緩めようとはしない。なおも渾身の力で頭を叩きつけた――その時、なにかが砕け散るような音と赤い小さな光が弾けた。その瞬間雲母は体を仰け反らせるほど苦しげに悲鳴のような雄叫びを上げる。


「雲母!!」


敵前であることなど忘れ、珊瑚は割れんばかりの声で雲母を呼びながら横たわるその体へ駆け寄っていく。その光景を頭上高く木の上から見下ろしていた玻璃は不可解そうに眉根を寄せた。


「私の支配を…!?」


そう、玻璃の言葉通り、雲母は彼女の支配の勾玉を砕くために捨て身の覚悟であれほど激しく頭を叩きつけていたのだ。
それを同じく悟った珊瑚は雲母へ手を伸ばし、堪らず涙をこぼしてしまいながら縋るようにその体へ身を寄せる。


「雲母っ…お前も元に戻りたかったんだね…」
「役立たずに用はありません!」


突如珊瑚たちを邪魔するように響かされた声。それと同時に放たれた花びらが迫ると、気配に勘付いた雲母が眼光を鋭くして即時珊瑚の体を救うよう起き上がった。その勢いのまま強く地を蹴って飛び玻璃の攻撃をかわしてみせるが、彼女はその手を止めることなく幾度も光の弾丸のような攻撃を繰り返してくる。


「雲母っ。飛来骨を!」


無数に飛ぶ光の弾を避ける中、体勢を持ち直した珊瑚は先ほどの場所に残された飛来骨を見据えながら指示を出した。途端雲母は大きく旋回し、光の弾が襲いくる間際を抜けるように飛来骨の元へ駆け寄っていく。すると珊瑚が大きく体を乗り出してそれを拾い、雄叫びのような声とともに即座に強く投げ放った。
それにより飛来骨は幹を切り付けるよう強く素早く玻璃へと迫るが、彼女は大きく跳び上がることでそれをかわし、同時に新たな光の刃をいくつも放ってみせる。

しかし雲母がそれをもかわせば珊瑚は返ってくる飛来骨を受け止め、迎え撃たんばかりに双剣を構える玻璃へ向けるよう飛来骨を構えた。


「行くよ、雲母っ!」


飛来骨を支えるよう体の前へ備えた珊瑚がその声とともに玻璃へ迫る。その瞬間玻璃は小さく笑みをこぼし、交差させた双剣から一層強く赤い光の刃を放つ。
だがそれを正面から受け止めた珊瑚の勢いは緩むことなく、ついには光の刃を突き破るように押し切ってみせた。


「だあああああっ!」
「!?」


驚愕に染まる玻璃の顔が迫る。直後、勢いよく飛び込んだ珊瑚の飛来骨により、玻璃の体は呆気なく上下に分断されてしまった。


「やった!」
「ふっ…このくらいで死ぬと思わないで…」


確信した珊瑚とは裏腹に玻璃の口元にはわずかながら笑みが浮かぶ。

――しかしそれが振り返ろうとしたその時、突如額の勾玉が眩く光っては玻璃の目が大きく見開かれた。それも束の間のこと、玻璃の体は瞬く間に急激に年老いたよう深く多くのしわを刻み枯れていく。それに伴って白い光が体から抜け出すと、天へ昇るそれとは打って変わり、体はまるで捨てられたかのように時代樹から崩れ落ちた。


「飛妖蛾さまああ! 私はまだ戦えるのにいいい…」


懇願にも似た悲痛な叫び声を上げて遠ざかっていく玻璃の体。珊瑚はただ静かにそれを見つめながら、大きく肩を上下させていた。しかしそれもやがて「行こう、雲母」という声を発するとともに落ち着けては、強く地を蹴る雲母に任せてその場を離れた。




――その頃、先ほど玻璃から抜き取ったものと同様の人魂を無数に漂わせる飛妖蛾は、その表情に湛える笑みを大きく深めていた。


「もう少しだ…もう少し魂が集まれば、私は完璧だ!」

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