13


暗く闇が満ちる四角い木枠の奥底。湿った土にただ呆然と佇む彩音は俯いたまま、滲む涙を堪えようと両手で顔を覆い隠していた。

喉に息が詰まるような感覚。それを解消するようにはあ、と大きくゆっくり息を吐くと、それは白く色を持って空気中に溶けていった。それと同時に感じるのは、やけに冷たい空気。それに気が付いて顔を上げれば、なにやら白い綿のようなものが時折一つ、二つと舞い降りてくるのが見えた。
それは肌へ触れると、瞬く間に溶けていく。その様子を静かに見つめていた彩音は再び天を仰ぎ、井戸にかけられた縄梯子へそっと手を伸ばした。

そうして井戸を上りきり見えたものは森でなく、古い木製の祠の内部。もうずいぶんと見慣れてしまったこの建物をぼんやりと見つめながら、彩音は重い足取りで外へ通じる短い階段に踏みだした。
板材の小さな軋みを耳にしながら、先ほどよりも多く雪を通す戸へ手を掛ける。そこへほんのわずかに力を込めれば、微かな抵抗を感じて戸が開いた。ゆっくりと広げられていく隙間からは一層の雪が吹き込み、同時に、ひどく冷たい風が肌の表面を撫でていく。

やがて眼前に広がったのは――白い、雪景色。

しんしんと絶え間なく降り注ぐ真綿のような雪は全てを覆い、地面や屋根などに留まらず、この視界さえ遮ってしまうほどの勢いで世界を白く染めていく。
つい先日、ここを離れる前はどこを見ても鮮やかな色をしていたはずであった。それがいまや、まるで色を失ったように質素な世界へと変貌してしまっている。

彩音はそんな景色を眺め、体が徐々に冷やされていく感覚に苛まれながらも、顔色ひとつ変えず祠から足を踏み出した。
足跡もついていないような新雪。そこに自分のそれを刻むよう歩けば、袴の裾が持ち上げられてしまうほど深く足が呑まれていく。それすら構うことなく足を進めていくにつれ、自身の体温によって溶けた雪が、草履も靴も履いていない足袋だけの足をじわじわと冷ややかに侵食していくのを感じた。

――あの時、桔梗が話していたことは本当であったのだ。
身を刺す冷たさにそれを実感しながら、終わらない冬を迎えた現代の空を見上げる。そこは灰色にくすんだ分厚い雲が本来の青を覆い隠すように垂れ込めていて、絶えず白い小さな綿を数えきれないほどに降らせ続けている。
いつしか自分すら染め尽くされてしまうのではないかと思わされるそれの中を歩きながら、彩音は微かに聞こえてきた老爺の声へ静かに足を向け始めた。


「ゆーきーよー…やーみーたーまーえー…」


祈祷のような声。それはかごめの祖父のもののようで、御神木の方から聞こえてきていた。それだけでなく、歩みを寄せていくにつれて次第に草太の声まで届いてくる。


「祈れば元に戻るの?」
「戻る! この神社をずっと見守ってきた御神木じゃ。わしらの祈りが届かぬはずはないっ。さ、お前たちも祈るんじゃ!」
「うん! やーみーたーまーえっ」
「本当に効くのかしら…」


祖父の真似をする草太に続き、かごめのものと思しき声まで聞こえてくる。やがて、景色を霞める雪の向こうにその姿を見つけては、無意識に「かごめ…?」とほんの小さな声を漏らした。それはほとんど掠れたような小さな声。であったにも関わらずかごめにはそれが届いたのか、はっとした表情を振り返らせてくると彼女は途端に信じられないといった様子で大きく目を見開いた。


「彩音…!?」
「彩音ねーちゃん!」
「彩音ちゃん?」


かごめの声に釣られ、草太や祖父までもがこちらへ振り返ってくる。

どうしてかごめが現代にいるのだろう。そんな疑問がぼんやりと頭をよぎりながらも、彩音は祖父たちが祈祷を捧げていた御神木に吸い込まれるよう視線を向けていた。白く染まった地面から天高く伸びるその樹木。それを見上げ、再び視線を下ろした時――その根元に、真っ赤な衣に身を包む少年の姿が映った気がした。


「! 犬夜叉っ…」


はっと息を飲み、咄嗟に手を伸ばそうとする。だがその手が彼の姿を隠した一瞬、その隙に彼の姿は消えてしまい、柵に囲まれる御神木が雪に侵されていく姿を静かに残しているだけであった。
幻覚――当然だ、彼がここにいるはずがない。ここは彼らが生きる時代とは、大きく離れた場所なのだから。


(そうだ…私はもう…犬夜叉に会えない…繋がりが、なにもない…)


空を掻いた指先に感触はない。それを実感した途端胸の奥が握り潰されるような切なく苦しい錯覚に陥って、堰を切ったように溢れ出す涙を一面の白へ止めどなく落としてしまった。




――やがて彩音はかごめに誘われるまま、御神木の傍で膝を抱えるようにうずくまっていた。それに寄り添うかごめは彩音が落ち着くまで待ち、次第に自らの経緯を話してくれる。

どうやらかごめは、彩音が操られて楓の元を離れた際、楓の傷の手当てをするための薬をとりに現代へ戻ってきていたようだ。だが辿り着いた現代は降り注ぐ雪に覆われているという異常事態。それに戸惑っていれば、止むことのない雪に祖父が祈祷を始め、そこへ彩音が戻ってきたのだという。

それを話しては、なぜ楓を傷つけて去ったのか、なぜいま現代へ帰ってきたのかと不安げな様子を垣間見せながら問いかけてくる。彩音はそれに小さく唇を噛むと、かごめの祖父が札を燃やす姿を視界の端に捉えながら、ぐちゃぐちゃになった胸のうちを整理することもできずにただ「…ごめん…」と呟くことしかできなかった。

その様子を見兼ねたかごめが戦国時代へ戻ろうという提案もしてくれた。だが、桔梗に律されたこと、井戸が塞がれる光景を目の当たりにしたことを思い出すと頷くことができず、彩音はただ嗚咽を漏らしそうになりながら首を振るうことで精一杯であった。


――それからというもの、かごめも彩音の気持ちを汲んでくれたのかそれ以上言及することもなく、ただ静かに隣で傘を傾け雪を遮ってくれていた。
自宅で暖まろうという提案も、飲めなかった。いまここを離れてしまえば、犬夜叉との繋がりが本当に途絶えてしまう気がしたから。そんな不安が胸いっぱいに広がって動くこともできず、彩音はただ降り積もる雪へと視線を落としていることしかできないでいた。

するとその時、こちらへ近付くほんの微かな足音が聞こえてくる。


「あら彩音ちゃん。戻ってたの? おかえり」


掛けられた声にゆっくりと顔を上げれば、赤い傘を差したかごめの母が変わらぬ穏やかな様子でこちらを見ていた。様子を見にきたのだろうか、その手にはなにやら衣類のようなものが抱えられている。その姿をぼんやりと見上げていれば、不意に草太から「ママ遅いよー」という不満げな声が上がり、それに「はいはい」と返したかごめの母は穏やかな表情のまま祖父と草太の元へ歩み寄っていった。


「おじいちゃん、ご苦労さま。御神木、いかがですか?」
「心配いらん。全てわしに任せておけ」
「そうですね。これ、おじいちゃんに掛けてあげて…」
「うん」


母から受け取ったニット帽を被り込んだ草太は同様に手渡された半纏(はんてん)を持ち、「じいちゃん、頑張ってね」と声を掛けながらそれを祖父の肩へと掛けてあげる。その様子を見届けたかごめの母は微笑みながら踵を返すと、彩音とかごめの元へそっと歩み寄り、自身に巻いていたショールを彼女たちの肩へそっと掛けた。
その感触にフ…と顔を上げてみれば、かごめの母が柔らかに微笑みを向けてくる。


「これだけじゃまだ寒いわよね…かごめのコート、取ってくるわね」
「…すみません…」


屈みこみ目線を合わせてくれるかごめの母へ掠れた声で謝罪したその時、その温かさに込み上げてくる感情があって小さく顔を歪めてしまった。咄嗟にこらえるように俯くが、止まったはずの涙は再び溢れ出しそうになる。思わず両手で顔を覆い声を詰まらせながら小さく震えてしまうと、かごめたちが心配そうに名前を呼びかけながら手を差し伸べてくれた。
そんな時のこと。


「ママ、この木そんなに大事?」


ふと、祖父に傘を差してあげている草太が不思議そうな表情で問いかけてくる。するとかごめの母は彩音の頭を優しく撫でながら、「そうね…」と呟くように語り出した。


「ここはみんなの思い出の場所だから」
「思い出の場所…?」
「かごめが生まれた時、草太が生まれた時、小学生になった時、運動会で一等をとった時、熱を出して寝込んだ時、楽しかった時、悲しかった時…みーんなこの木が一緒だった…いつも私たちを見守ってきてくれたのよ。もちろん、彩音ちゃんがうちに“帰って” きてくれるようになった時もね」


優しく囁きかけながら、ぽん、ぽん、と頭を撫でてくれる。その言葉に、温かさにこらえていた涙がこぼれ落ちた。

ああ、そうだ。かごめの母の言う通り。御神木はいつでも傍で見守ってくれていた。この時代でも――五百年前の、戦国時代でもずっと…


(御神木は…私の…私たちの始まりの場所…犬夜叉と出会った、大切な思い出の場所…)


――戦国時代との、唯一の繋がり…

そんな思いをわずか一瞬よぎらせたその時、不意に傍で確かな気配を感じた。それに気が付くが早いか、気配は光となってかごめの胸元から眩くも柔らかに存在を主張する。


「かごめ…それ…」
「四魂のかけらが、光ってる…?」


彩音が声を掛けると同時、かごめもその光に気が付いたようで目を丸くさせながら首に提げていた小瓶を手のひらへと取り出した。中には小さなかけらが三つ。それがなにかを伝えんばかりに発光する姿を見て、彩音は縋るようにその小瓶へ指を触れさせた。


「まだ…途絶えてない…向こうと繋がってる…」


犬夜叉と、繋がっている――

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